前回見たように、1839年にタールベルクの《ロッシーニの〈モーゼ〉に基づく幻想曲》作品33が修了選抜試験の課題曲となったのを契機として、ケルビーニは40年以降の課題曲をフィールド以前(1782~1837)以前の作曲家の作品と定め、しかも選択できるジャンルを協奏曲、ソナタ、フーガに制限した。タールベルクをはじめピアノの演奏技法がとりわけ練習曲というジャンルで高度な発展を遂げていた30年代後半にあって、アカデミズムの守護神ケルビーニのとった方針は、あたかも新興ピアニズムの奔流を遮る強固な防波堤の如くに思われた。彼の決定は、伝統に根差した教育の中で古典的様式が過度に軽視されることを懸念した結果でもあったのだろう。1840年6月1日、ケルビーニの声明は、直ちにコンクールの試験課題曲に反映された。この年の終了選抜試験の曲目を見てみよう。
表1
男子クラスの曲目は、ケルビーニが指定した二つのジャンルから選ばれている。このうち、モーツァルトのフーガは、対位法に精通しケルビーニの高弟でもあったヅィメルマンによるピアノ用編曲で、《レクィエム》K. 626〈キリエ〉に基づく(1)。
譜例1 ヅィメルマン編曲《レクィエム》よりフーガの冒頭
ウェーバー、フンメルの協奏曲はいずれも複数ある内、どの協奏曲の何楽章を指すのか同定は出来ないがいずれも1810年代生まれの名手たちが台頭してくる1830年代半ばよりも前に書かれた作品であることに違いはない。過熱したピアノ技巧の探求、しばしば変奏形式で書かれた幻想曲の流行の中で、ケルビーニはソナタ形式を有し、かつ三度の連続など基礎的な技巧習得に役立つ協奏曲を重視し、さらに本来ピアノ固有の作品ではないモーツァルトのフーガを取り入れることで、古典的様式、古典的書法を生徒に学ばせることを意図した。
一方、教育の現場を指揮していた教授はどのように反応したのだろうか。それを知るには、年に二回、夏と冬に行われていた定期試験の曲目がヒントを与えてくれる。40年代以降のピアノ科の試験曲目はすべてが記録されているわけではないが、パリ国立古文書館の資料(2)から、1841年6月、すなわちケルビーニの声明の翌年に行われた試験曲目を知ることができる。6月の試験に関して記録が残っているのはピアノ予科を受け持っていたローランAdolf-François Laurent(1796~1867)、男子クラスのヅィメルマン、女子クラスのアダンおよびコーシュ(Marie-Anna Mazlin Coche, 1811~1866)の全4クラス分である。以下に示す表には、1841年6月18日に行われた年度末試験で演奏した生徒、演奏曲の作曲者、曲名が順に、クラス別に記されている。作曲家と曲名にはそれぞれ紫と赤で着色が施されているが、紫はケルビーニの方針に従った作曲家・曲目の選択、赤はそこから逸れる選択を示している[色分けは筆者による。](ケルビーニの方針の内容については前回の記事を参照のこと)。
表2 ローランの男子予科クラス
表3 コーシュの女子クラス
表4 アダンの男子クラス
ここで興味深いことは、ただ一つのクラスを除いて、ほぼケルビーニの意向に従っている点である。そのクラスとは、男子の専科を受け持っていたヅィメルマンである。他のクラスがほぼ協奏曲とソナタを選択している中で、ヅィメルマンだけはすべての生徒にタールベルクの幻想曲を演奏させているのである(!)。作曲家、ジャンルいずれも院長の示す基準から外れた曲を定期試験で演奏させているというこの事実は一体何を意味するのだろうか。
ここで一つの大きな矛盾に気づかなければならない。ヅィメルマンは、ケルビーニが声明を発した翌年、選抜修了試験の課題曲としてモーツァルトのレクィエムをピアノ用に編曲していた。ケルビーニの愛弟子であったヅィメルマンは、40年の修了試験ではケルビーニの方針を反映するために貢献し、その一方で翌年の年度末試験ではケルビーニを全く無視して最近のレパートリーを生徒に演奏させているのだ。
では、ヅィメルマンは内心ケルビーニに反発していたのだろうか。しかし、二人の間柄は当時おそらく険悪なものではなかった。なぜなら、1840年にヅィメルマンが出版した『ピアニスト兼作曲家の百科事典』には、ケルビーニがこのメソッドのために提供したフーガが収められており、その上このメソッドはケルビーニを含む学士院音楽部門の推薦を受けているのだ。
これらの状況から、一つの推論が導かれる。タールベルク、リスト、デーラーなど外国のヴィルトウオーゾに対抗するフランスのピアニストたちを育成する必要を感じ、実際にアルカン(長男)やラヴィーナ、プリューダンといった自身の生徒たちが成果を挙げるのを見ていたヅィメルマンは、おそらく古典様式を重んじるケルビーニの姿勢を理解しつつも、一方では新しいピアノ音楽を開拓するのに必要な現代的演奏技巧の教育は別物と考えていた。言い換えれば、彼の教育観は、伝統を引き継ぎ古典を理解する範疇と、現在・未来のピアノ音楽を探求する範疇からなっており、彼は未来のフランスのピアノ音楽界を見据えて、教育の現場では後者の視点を積極的に打ち出していたといえるだろう。この二つの柱は、彼のメソッド『百科事典』の構成にもはっきりと表れている。以前見たように このメソッドの第一部、第二部は基礎から最新のピアノ演奏技巧が中心となっている一方、第3部は厳格対位法、フーガ等の古典的な作曲教程となっているのだ。
ケルビーニはヅィメルマンの二重の教育方針に理解を示していたが故に、彼のメソッドにフーガを提供し、これを教材として推薦したのであろう。そう考えれば、今日の我々はケルビーニがピアノ演奏技法の発展を妨げようとしたとしてこの院長を非難することは不当な態度であると言わざるを得ない。
- 1
- 彼の『ピアニスト兼作曲家の百科事典』第二部(1840、 第30回参照)に収められている。
- 2
- Paris, Archives Nationales, AJ/37/225-3.
- 3
- 第30回の記事参照。
上田 泰史(うえだやすし)
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。