ショパン時代のピアノ教育

第38回 パリ音楽院のピアノ教育と「ヴィルトゥオーゾ」 その3

2010/12/17

ケルビーニvs.「ヴィルトゥオジティ」

 1822年、音楽院院長に就任したL.ケルビーニ(1760~1841)は第36回の連載で見たように、ピアノに独奏楽器としての地位を与えるためにピアノ科の組織改革に着手した。この改革では、ピアノ科の人数削減のほか和声・アッコンパニュマンクラス(1823年設置)や数字付低音クラス(1822年設置、1824年から通奏低音クラス)の設置が含まれた。これによって、ピアノ科の学生には演奏技術だけを勉強するにとどまらず、スコア・リーディングや和声、バス旋律に記された数字を見ながら即興的に伴奏する技法など幅広い能力を身につける可能性が開かれた。教養と技術拡充を狙うこの方針には、パリを訪れる外国の名手たちの華々しい演奏テクニックから生徒たちの目を逸らさせようとする意図があったと考えられる。
 だが、このような改革は迫りくる「ヴィルトゥオーゾ」熱の防波堤とはならなかった。1840年6月1日、ケルビーニはさらに新しい声明を発表しなければならなくなったのである。この年、ケルビーニはピアノ科の選抜修了試験で、オペラなどの旋律を主題とした輝かしい変奏曲であるエール・ヴァリエの演奏を禁止し、次のように演奏曲のジャンルを制限した。

 音楽院のピアノの専任教授が、本校外部のピアニスト諸氏側からの苦情及び請願を受けないようにするため、今年以降、選抜試験で演奏される作品の選択は以下の3つのジャンルの作品に限ることとする。協奏曲、ソナタ、フーガ。もはやエール・ヴァリエは演奏することはできない
協奏曲とソナタ : 
フーガ : 
この条項は教授にすべての責任を保証するものであり、教授はこれに厳格に従わなくてはならない。

 この声明の冒頭に見られる「本校の外部のピアニスト諸氏側」とは、おそらく、自身の作品を試験課題曲に採用してもらうよう音楽院側に依頼を寄せる同時代のピアニスト兼作曲家たちのことであろう。もっとも、これ以前に試験課題曲にオペラの主題に基づく作品は殆ど演奏されていなかった。以下に1823年からケルビーニが声明を出す前年1839年までの修了試験課題曲を示す(曲目記載のない年は現段階で不明を意味する)。


パリ音楽院の選抜試験曲目(1823~1839年)

男子クラス 女子クラス
1823 フンメル ピアノ協奏曲 フィールド ピアノ協奏曲 第3番 変ホ長調
1824 フィールド ピアノ協奏曲 第2番 変イ長調 フンメル 協奏曲 ロ短調(作品89)
1829 カルクブレンナー ピアノ協奏曲 ニ短調 作品61 カルクブレンナー 《大幻想曲 音楽的奔流》作品68
1832 アルカン 室内協奏曲 イ短調 作品10 ヒラー ピアノ協奏曲
1833 フンメル ピアノ・ソナタ フンメル 協奏曲 変イ長調(作品113)
1834 モシェレス ピアノ協奏曲 ト短調 作品60 ウェーバー ピアノ協奏曲
1835 ショパン ピアノ協奏曲 カルクブレンナー ピアノ協奏曲 変イ長調 作品127
1836 タールベルク 独奏曲 ベルティーニ 独奏曲
1837 フンメル 協奏曲 イ短調(作品85) エルツ ピアノ協奏曲 イ長調 作品131
1838 フンメル 協奏曲 ロ短調(作品89) ベルティーニ 独奏曲
1839 タールベルク 《モーゼ》の主題に基づく幻想曲(作品33) デーラー ピアノ協奏曲 作品7

 上の表から分かるように、1830年代まではケルビーニが声明で述べた内容とさして相違はなく、課題曲の殆どが協奏曲かソナタである。だが、恐らく1839年の男子クラス課題曲がケルビーニに何らかの影響を与えたのであろう。ロッシーニの主題に基づくタールベルクの幻想曲は同年に出版されたばかりの新作で、大変注目を集めた作品だった。内声に主題を置き周囲を分散和音で飾るというタールベルク独特の新しく高度な演奏技法は、当時の多くのピアニストを虜にした。

 それまで殆ど協奏曲とソナタしか課題曲にしてこなかった音楽院がこの作品を選んだのにはどのような事情があったのかは現段階では定かではないが、いずれにせよ優れて「ヴィルトゥオーゾ」的なこの変奏曲が試験課題となったのは非常に画期的なことであった。
 ケルビーニ自身は恐らくこの選択に賛成していなかったか、あるいはこの年の選抜試験の後になって、このような演奏技巧に重点を置く作品を危険視したのであろう。だが、この声明の僅か3年後、ケルビーニは81歳の生涯を閉じる。これによってケルビーニの築いた対「ヴィルトゥオーゾ」の防波堤は脆くも崩れ去ることとなる。



Constant Pierre, Le Conservatoire national de musique et de déclamation, documents historiques et administratifs recueillis ou reconstitués par l'auteur, (Paris : Imprimerie nationale, 1900), p. 308.
Constant Pierre, op.cit., pp. 589 and 589. 1834年男子クラスの課題曲については以下の資料から補足。"Concours du Conservatoire de musique" in Le Pianiste, ( Meudon: Imprimerie de J. Delacour), 1834, no.11, n.d. pp.164-165.

上田 泰史(うえだやすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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