第24回 パリ音楽院ピアノ教授:ヅィメルマン その4 ―ショパン、リストらが集う音楽サロンとは・・・?
今回はパリ音楽院で約40年に亘って男子クラスを受け持ったピアノ教授ヅィメルマンの音楽院外での活動に目を向けてみよう。ヅィメルマンの経歴は第20回から(第23回は除き)紹介しているので、適宜参照されたい。
1831年にフランス最高の勲章、レジョン・ドヌール受勲を受け、名実ともにパリの主要な芸術家となったヅィメルマンは、翌32年、住居をサン=ラザール界隈のオルレアン広場に移した(1)。ここは1829年にイギリス人建築家エドワード・クレシーEdward Crécyが喜劇女優のマルスAnne Boutet Mars (1779-1848) から買収した地区で、1830年にアパルトマン建設が始まった(2)。完成後、ヅィメルマンは、高名な劇作家、デュマ(父)Alexandre Dumas (1802-1870) と共に、この広場の最初の住人となったのである。ここにはやがて、カルクブレンナー、ショパン、タールベルクといった著名なピアニスト・作曲家、ヅィメルマンの門弟であるアルカン、マルモンテル、フランク、作家のジョルジュ・サンドらが入れ替わりながら移り住み、パリの一流文化人の集う一画となった(左写真はこの広場の一角(3)。ヅィメルマンは中庭を囲む建物の7番に、ショパンは9番に住んだ)。
1830年代、ヅィメルマンは、月に二度、木曜日にこのオルレアン広場の自宅で音楽のサロンを催すようになり(4)、その模様は非公開であったにもかかわらず、1833年頃から1852年の約20年間に亘り、断続的に音楽雑誌のRGMやLMで報じられ、衆目を集めていた。これらの報告は、七月王政期、芸術界におけるヅィメルマンのサロンの重要性を示している。
1830年代の後半から40年代にかけてRGMでヅィメルマンのサロン演奏会を報告し続けたアンリ・ブランシャールは、ヅィメルマンの催す演奏会では「常に、確実に何かしら新しく独創的で刺激的なものが聴かれる」(5)と述べ、1840年にはヅィメルマンのソワレが、「芸術家たちの間で重要性を帯び始めた」(6)と報じている。彼の家で行われるコンサートの特徴は、他の雑誌でも強調された。アドルフ・ルデュイAdolphe Ledhuyが『ラ・フランス・ミュジカル』紙に寄稿した同年の記事では、ヅィメルマンのサロンが次のように描かれている。
ルデュイは、ここでヅィメルマンのサロンを「趣味の神殿」と形容し、いわばビジネスとして成立している他のサロンと区別している。彼のサロンで演奏したのは、当時話題となっていた期待の寄せられる若手ヴィルトゥオーゾや、既に高名となっていたフランスのヴェテラン奏者たちであった。一時期音楽院のオルガンクラスに登録していたJ.-B.ラバによれば、そこでは「外国からやってきたあらゆるヴィルトゥオーゾの演奏が初めて聞かれた」(8)。外国からパリにやってきてヅィメルマンのサロンを訪れたピアニストには、リース、モシェレス、ショパン、リスト、ヒラー、タールベルク、デーラー、アントン・コンツキ、ローゼンハイン、クララ・ヴィークらがいる。そして、フランスのピアニストとして、ヅィメルマンは自身の門弟であるアルカン、ラヴィーナ、ラコンブ、ルフェビュル=ウェリー、プティ、マルモンテル、デジャゼ、ショレ、フランクをここで紹介した。
彼のサロンに集まったのはピアノ奏者ばかりはない。ロッシーニ、マイヤベーア、アレヴィ、オベールといった著名なオペラ作曲家、イタリアで名声を博してパリに帰ってきたテノール歌手のデュプレGilbert-Louis Duprez (1806-1896)(9)、歌手、ピアニスト、作曲家としてヨーロッパ各地で名声を得たヴィアルドMichelle-Ferdinande-Pauline Garcìa Viardot (1821-1910)、音楽院声楽科教授のポンシャールLouis-Antoine-Éléonore Ponchard (1787-1866)、オペラ・コミック座でかかるオベールやアレヴィのオペラで輝かしい成功を収めていたテノール歌手のロジェGustave-Hippolyte Roger (1815-79) など、高名な歌手たちもヅィメルマンのサロンをしばしば訪れた。この他、同様にパリで名声を得ていたヴァイオリニスト、チェリスト、フルーティスト、ホルン奏者、オーボエ奏者、多種多様な音楽家たちが木曜の晩に彼の家に集った(10)。
ヅィメルマンは演奏会に際して、演目を口頭で伝えたが、実際は演奏家の裁量に任されたため、予定されたプログラムよりも多くの曲が演奏されることがしばしばあった(11)。マルモンテルの回想は、この演奏会の即興的で打ち解けた側面を伝えている。
著名人が集まるヅィメルマンのサロンは、次第に特権的な性格を帯びていった。1840年のルデュイの以下の記述は、聴衆としてであれ、演奏者としてであれ、この演奏会に参加すること自体が、芸術家としての特権的社会的地位の象徴ともなったことを示している。
マルモンテルも同様に、ヅィメルマンのサロンが特権的な人々のみが集うことのできる場所であったことを証言している。
このように、選りすぐりの芸術家が常に「新しく独創的で刺激的な」音楽を演奏したヅィメルマンのサロンは、パリの楽壇の最先端に位置していたと言える。彼を取り巻くこのような環境は、ヅィメルマンの教育にも多大な影響を与えたことは想像に難くない。彼は、ショパン、リストをはじめ多種多様な音楽家たちが出入りするこの環境のなかで若い世代の新しい音楽を柔軟に吸収し、音楽院で最新の教育システムを打ち立てることとなる。
(1) ピティナHP内の連載『パリ発~ショパンを廻る音楽散歩』第7回で中野真帆子さんがこの広場を紹介している。内部の部屋の配置図などが載っている。彼女の連載ではこのほかにも当時の演奏会場について王さんの素敵な写真とともに書いていて面白い。蛇足だが、この連載の最後でアルカンが1838年3月にパリ音楽院ホールでショパンとアルカンが共演したとしているが、これは実際には楽器制作者パープのサロンでの誤りである。
(2) Constance Himelfarbe "Un salon de la Nouvelle-Athènes en 1839-1840―L'album musical inconnu de Juliette Zimmerman" in Revue musicologie, 2001, no.87(1), p. 35.
(3) 2006年、筆者撮影。今日、ここには幾つかの一般世帯のほか、商社が入っているとここの住人は語っていた。中央の噴水は1856年に作られたもので、ヅィメルマンやショパンの生前にはまだなかった。
(4) Edouard Monnais "Une soirée chez Zimmerman" in RGM, 14 February 1839, no.7, p. 56.
(5) Henri Branchard "Dernière soirée chez Zimmerman" in Revue et Gazette Musicale de Paris[以下RGM], 19 May, no.20, p. 156.
(6) Idem., "Soirée de Zimmerman" in RGM, 5 January 1840, no.2, p. 16.
(7) Adolphe Leduy "Biographie des artistes contemporains―Zimmerman" in La France Musicale, no.6, 1840. 2. 9. p. 64.
(8) J.-B. Labat, op.cit.,pp. 11-12.
(9) 彼はドニゼッティの作品をイタリアで多く初演した歌手で、1839年2月7日、ヅィメルマンのサロンにおいて、ドニゼッティを伴奏者として、《ランメルモールのルチア》のアリアを披露した。彼はこのオペラの初演に加わった歌手でもある。
(10) ヅィメルマン家の演奏会に訪れた芸術家は、音楽家、詩人、彫刻家など、音楽雑誌から確認できるだけで約100名に及ぶ。
Henri Branchard "Soirée musicale chez M. Zimmerman" in RGM, 6 December, 1840, no.70, p. 595.
(11) Idem, "Soirée de Zimmerman" in RGM, 5 January 1840, no. 2, p. 16.
(12) A.-F. Marmontel, Les pianistes célèbres, Paris: Heugel, 1878, 2nd ed. 1888[以下PC]., p. 207.
(13) Adolphe Leduy, op.cit., p. 64.
(14) Marmontel PC, p. 207.
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。