07.スクワール・ドルレアン9番地/コンサート・ホールの創設
楽器の飛躍的な向上に伴ってヴィルトゥオーゾたちの活躍が脚光を浴び始めると、人々はジャーナリズムの情報や批評を通してコンサート会場へと足を運ぶようになり、コンサートの需要が激増した為、従来の劇場やオペラ・ハウスの他に、コンサート専用のホールが建てられ始めます。 録音や放送の伝達手段がなかった時代のヨーロッパにおいて、料金を払えば誰もが来場できる公開演奏会の形態は既に18世紀ごろから在りましたが、ゲヴァントハウス(織物会館の意)を拠点としたことからその名が付けられた管弦楽団の例に見られるように、かつてはコンサート専用の空間がほとんど存在しなかったので、教会や宮廷の大広間、多数の聴衆を一同に集めて演奏できる既存の大型建築スペースを借りて開催していました。19世紀に入り、度重なる階級闘争とイギリスで先行していた産業革命に追髄する形で勢力を増した中産階級が新時代の主役になると、音楽は教会や貴族、宮廷によって保護されるものから一般市民を担い手として自由に商業化されるようになり、宮廷を中心に確立していったオペラに対抗する形で市民生活の中に浸透し、パリでは新たな音楽文化の活況が始まりました。楽器の成熟によって登場したヴィルトゥオーゾたちへの人気が高まると、彼らを主役とする音楽的な催しが驚異的に増え、オペラ以外の音楽会を対象にしたコンサート・ホールが望まれるようになりました。 *ゲヴァントハウス管弦楽団 こうした状況の下、ピアノメーカーとして軌道にのったプレイエル商会の2代目社長、カミーユ・プレイエルは、1830年1月1日に演奏家の支援と自社ピアノの宣伝を目的とした世界初の私設ホール「サロン・プレイエル」を開場します。以降、サル・プレイエルはショパンをはじめ、時代を代表する音楽家たちのさまざまな音楽シーンを演出し、フランス音楽界の発信地として重要な役割を担うようになりました。 新興ブルジョワは、ボックス席によって仕切られているオペラ座では叶わない上流階級との接触を試みて、しばしばコンサート・ホールへと足を運びます。当時の上流貴族は、オペラ座のボックス内に一族専用席というのを確保し、一般の観客とは隔離された位置で鑑賞していました。このボックス席は各貴族による代々の世襲制で、滅多に「空き」がでません。従って、ブルジョワ階級は経済的に彼らと同等になっても、同じボックス席に座って観劇するわけにはいきませんでした。ところが、世襲制のボックス席が存在しない、開かれたばかりのコンサート・ホールでの新しく出現したヴィルトゥオーゾによる音楽会においては、チケットを入手さえすれば階級にかかわらず、以前なら顔を見ることさえ出来なかった侯爵や伯爵と同席して対等に音楽を鑑賞できるという魅力があります。かつてはありえなかった二つの階級が同じ場に会し、コンサート音楽会という共通の場を通してお互いのコミュニケーションが可能になりました。当時のコンサート・ホールは、貴族と新たに出現したブルジョワという二つの階級を融合させていく、社会的に重要な役割をも果たしていたのです。 1832年、ショパンはこの会場でパリ・デビューを果たします。1831年の12月25日に予定されていたコンサートは2度延期され、最終的には1832年の2月25日にショパンを応援する亡命貴族やリスト、メンデルスゾーンなど、パリ音楽界をリードする面々を招待客に連ね、この小さなサロン・プレイエルでの成功によって、ショパンは瞬く間にパリ音楽界有数のソリストのひとりと数えられるようになりました。 その後もショパンは、公式演奏のほとんどをプレイエルのホールで展開し、1849年には生涯最期の舞台としてプレイエルのホールを選び、人生の幕を閉じることになります・・・
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