ピアノの19世紀

17 音楽学校の誕生―ライプツィヒ音楽院の誕生の意味 その2

2008/11/27
17 ライプツィヒ音楽院と総合的音楽教育の理想 その2

ライプツィヒ音楽院(音楽大学)でのピアノ教育

 1843年にメンデルスゾーンによって創設されたこの音楽院は、音楽に対するまったく異なったコンセプトに基づいていました。19世紀の音楽学校は、特定の専攻教育を旨とするものが一般的でした。たとえばピアノ教育を専門とする学校や、ピアノと声楽のみの専攻教育の学校などです。19世紀で高い名声を誇ったベルリン音楽院は、当初はピアノ音楽学校で、ピアノ専攻生が1000名在籍していたとされています。
 その点、メンデルスゾーンの音楽教育の考え方は異なっていました。彼は特定の専攻だけの音楽教育ではなく、作曲や室内楽などのさまざまな科目を必修として、総合的な教育を目指したのです。今日の音楽大学での教育を考えれば大体の感覚はつかめるかもしれません。しかし、その教育の厳しさは現在の音楽大学の比ではありません。朝は午前7時あるいは8時から学校が始まり、さまざまな音楽科目を学んで、大学への滞在時間は時には12時間に及んでいました。専攻レッスンは週に2回行われ、学生は生活のすべてをこの音楽院での授業に傾注しなければならなかったのです。学生からのクレームには、「学校が終わった後、時間が遅くなりすぎて夕食をとるレストランがない」、というものもありました。メンデルスゾーンは、さまざまな授業を巡回して教育や指導について指摘を行いましたが、彼の指摘はかなり厳しく、メンデルスゾーンの柔和な音楽からは想像もできないほどの厳格さでした。
 次に示すのがこの音楽院に学んだホルネマンという名のデンマークの学生の1週間のカリキュラム表です。

月曜日  6-8時   プライディ(ピアノ)
     8-9時   プライディ(ピアノ)
     9-11時   ハウプトマン(音楽理論)
     11-12時  モシェレス(ピアノ)
     14-16時  リヒター(オルガン)
     16-18時  オーケストラ、作曲
火曜日  7-9時   リヒター(オルガン)
     9-10時   ハウプトマン(音楽理論)
     10-11時  リヒター(音楽理論)
     14-17時  プライディとモシェレス(ピアノ)
     17-18時  ヴァイオリン 作曲
水曜日  7-8時   ハウプトマン(音楽理論)
     8-9時   リヒター(音楽理論)
     9-12時   ゲヴァントハウスプローベ
     14-15時  プライディ(ピアノ)
     15-17時  モシェレス(ピアノ)
     17-18時  モシェレス(ピアノ)
     18-19時  ヴァイオリン 作曲
木曜日  7-8時   ハウプトマン(音楽理論)
     8-9時   リヒター(音楽理論)
     9-10時   モシェレス(音楽理論)
     10-12時  プライディ(ピアノ)
     14-15時  プライディ(ピアノ)
     15-17時  リヒター(オルガン)
     17-18時  ヴァイオリン 作曲
金曜日  7-8時   ハウプトマン(音楽理論)
     8-9時   リヒター(音楽理論)
     9-10時   モシェレスとプライディ(ピアノ)
     10-11時  リヒター(オルガン)
     11-12時  ヴァイオリン
     14-15時  リーツ(オーケストレーション)
     15-18時  リーツ
土曜日  7-8時   ハウプトマン(音楽理論)
     8-9時   リヒター(音楽理論)
     9-11時   リヒター(オルガン)
     11-12時  リヒター(オルガン)
     14-15時  ヴァイオリン
     15-18時  モシェレスとプライディ
 (下線はホルネマンによるものです。これが本来のレッスンと思われます)

 ホルネマンはおそらく作曲とピアノの二つを専攻としていた学生と思われます。しかし、今日とは異なり、学生が二つの専攻をもつことは珍しいことではなく、ヴァイオリンとクラリネットを専攻楽器とする学生の例もいました。ハンス・フォン・ビュローが常任指揮者を務めたマイニンゲン宮廷オーケストラの主席クラリネット奏者のミュールフェルトは、ヴァイオリン奏者として入団しています。ミュールフェルトはブラームスにクラリネット五重奏曲などのクラリネットの名作の作曲に霊感を与えた19世紀後期の名クラリネット奏者です。
 ホルネマンの授業カリキュラムを見ますと、文字通り早朝からほとんど丸一日学校に拘束されて、「詰め込み教育」が施されていたことが分かります。同じ教師が週に何度も教育して、徹底的にたたき上げて言った様子がありありと伺われます。同じ教師が続けた時間で設定されているのは、その先生の指導の前の予備指導か練習を意味しているのでしょう。この過酷な教育が、世界中にライプツィヒ音楽院の名前を広めることになったのです。

その3》へ続く

西原 稔(にしはらみのる)

山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期退学。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18,19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「聖なるイメージの音楽」(以上、音楽之友社)、「ピアノの誕生」(講談社)、「楽聖ベートーヴェンの誕生」(平凡社)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」(講談社)、「音楽史ほんとうの話」、「ブラームス」(音楽の友社)などの著書のほかに、共著・共編で「ベートーヴェン事典」(東京書籍)、翻訳で「魔笛とウィーン」(平凡社)、監訳・共訳で「ルル」、「金色のソナタ」(以上、音楽の友社)「オペラ事典」、「ベートーヴェン事典」(以上、平凡社)などがある。

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