第32回「小メヌエット」
音楽に国境はない。音楽は時代だって飛び越える。それは本当なのだけど、作り手と聴き手が文化をきちんと共有できていない場合、内容の伝達がうまくいかないことも当然ありえます。単純な話、知らない外国語の歌を聴いても歌詞の内容はわかりません。そうすると楽しみはどうしても減ってしまう。しかし、今の時代、遠い国の常識も古い時代の教養もネットがあればすぐに参照できます。一昔前と比べれば、クラシックを楽しむにはずっと良い環境が整ってきたと言えるのではないでしょうか。
実は今回の曲「小メヌエット」、ちょっとした文化の共有で面白味がグンと増す曲の一例です。この連載の第12回で、音楽を形作る語彙には生得的な根拠の強いものとそうでないものとがある、というようなことを書きました。「小メヌエット」は、生得的でない面白要素の割合がかなり多めの作品なのです。『エスキス』の中で最も解説が必要な曲かもしれない。何も知らずに聴けば単に「素敵な曲だなぁ」といった感想が出て終わってしまいそうなのだけど、きちんと知識を持って聴き、つらつら曲の内容について考えてみると、だいぶ強烈にヘンだということがわかってきて、作曲家のユーモアを堪能することができる。
楽譜の冒頭に「モーツァルトの "Vedrai Carino"(恋人よ、さあこの薬で)のように」という指示があることから、単なるメヌエットでないことはわかります。なるほど、『ドン・ジョヴァンニ』のアリアへのオマージュなのか、とうっかり納得しかけますが、それにしてはどうも様子がおかしい。確かに出だし2小節のメロディは譜面の上では「恋人よ、さあこの薬で」とそっくり同じに見えます。4つついた調号の# さえ無視すれば!
そう、もともとはハ長調のアリアなのに、この曲は嬰ハ短調。こんなに暗くなっちゃってどうしたのツェルリーナ......。
「小メヌエット」にこめられたユーモアを理解するには、まずもとのアリアに関する知識がなければいけない。「薬屋の歌」などとも呼ばれて親しまれているこのアリア、実はかなりしょーもない歌なので、そのことについて簡単に説明しておきましょう。
ドン・ジョヴァンニはいわゆるプレイボーイなので、美しい女性を見かければ口説かずにいられない。というわけで、結婚を控えた村娘ツェルリーナも彼のターゲットにされてしまいます。ツェルリーナ本人も割とその気になりかけたりなんだりしたもので、婚約者マゼットは当然ながら怒り心頭。翌日、ジョヴァンニを懲らしめてやろうと村人と連れ立って出かけます。しかしこのマゼット、腕っ節はそれほど強くなかったようで、従者レポレッロに変装していたジョヴァンニにコロリと騙され、不意をつかれて逆にボコボコにされてしまう。
そのときマゼットの悲鳴をききつけたツェルリーナがやってきて、彼を介抱しながら歌うのがこの「恋人よ、さあこの薬で」のアリア。
「あなたが嫉妬するのをやめておとなしくしてたら、とてもよいお薬をあげるわ。薬屋さんにも売ってない、すてきな薬よ」
ってなことを言って、何をするかといえばマゼットの手をとって自分の胸に触らせるわけです。するとマゼットはたちまち元気になって......というような本当にどうしようもないお話なのでした。
アルカンは間違いなくこれを苦笑いしながら見ていたはず。ツェルリーナのことも仕方のないお嬢さんだ、という印象をもって捉えていたのでしょう。だから、アリアの内容を揶揄するかのように、ツェルリーナがちょっぴり悪女風になるように、嬰ハ短調の曲にしてしまったというわけです。
とはいえ、中間部の優美な旋律や曲の締め方を見ると、元のアリアへの敬意やツェルリーナへの愛情も伝わってくる気がして、ただの皮肉に終わらず、温かみも兼ね備えた不思議な曲だと感じます。そういえばメヌエットと言いつつトリオが2拍子になるというのも相当おかしな話で、もしかするとこのツッコみどころの多さこそが、モーツァルトのオペラに対する愛にあふれたオマージュなのかもしれません。
演奏も、短調である暗さを必要以上に強調せず、どこか軽やかなイメージが残せると良いでしょう。中間部は内声の動きもきちんと意識すること。もともと#が多い上、臨時記号も多発するので譜読みのはじめは大変かもしれませんが、和声の動きを把握してしまえばぐっと楽になるはずです。曲の最後の "dolce" の指示は極めて重要ですので、くれぐれもお忘れなきよう!
それではまた次回、『ねんねしな』にて。