驚異の小曲集 エスキス

第04曲「鐘」

2008/06/18

今回とりあげるのは4曲目、「鐘」という簡潔な描写音楽。特定の情景を音楽で描写した小品は、アルカンの得意技のひとつだった。エスキスは各曲にタイトルがつけられているわけだから、そうした描写的な作品の宝庫でもあります。そして描写的な作品にこそ、アルカンの先進性、独創性というものが色濃く表れている。

古典的な「機能和声」から解放された自由な響き、形式に囚われない曖昧な構造――ドビュッシーやラヴェルなど、印象派の楽曲の特徴です。アルカンの作品群は、この時代にしてそれらを兼ね備えている。むしろ、アルカンによって既にフランス印象派は始まっていたと言っても過言ではない。

アルカンが印象派のはしり? しかし、絵画の世界での印象主義さえまだ始まっていない時代です。学術的に「印象主義」の範疇に含めるなど、とても無理なことでしょう。困ったものです。前回、アルカンの特徴は「変」であることとしか言いようがない、と書きました。もう少し踏み込んでみると、要するに彼は時代を超越しすぎていたのだ、とわかってくる。

フォーレが機能和声を分解するときに用いたのが、和声の確立より更に古い時代の「教会旋法」と呼ばれる音階でした。これはしばしばフォーレの功績とされる手法ですが、実は、既にアルカンが通った道。フォーレは、調性音楽からの脱却を目指す時代の流れに沿っただけですが、アルカンはそれより前に、ひとりで同じ工夫を成し遂げていたのです。

ところで、音楽に関して印象主義という呼び方を使うことには問題がある、といった声がよく聞かれます。ドビュッシーなんてむしろ象徴主義で、つまり情景描写と見えるのは彼の内面が写し出されたものだ、などとも。まったくその通りだと思う。そもそも音楽で情景描写をするのって、その情景に何らかの感興をそそられるからこそですよね。

クラシックの音楽史を勉強された方はよくご存知だと思いますが、その昔、「絶対音楽」と「標題音楽」という概念が戦いました。絶対音楽を愛する人が標題音楽を貶めて言うには、音楽は音楽そのもので美を表現する気高きものなのであって、現実世界の何かに従属するような情けない音楽は真の音楽じゃない、とかなんとか。私の乱暴な理解ではそんな感じ。

標題音楽批判は今の時代からすれば無意味に見えるので、本気でやっている人はおそらくもういません。とはいえ、そんなことを簡単に言えるのは時代が進んだおかげ。議論が最も活発だったロマン派の時代にあって、その不毛さを見抜くのは容易ではなかったに違いありません。しかし、アルカンにはそれができた。だからこそ、いわゆる絶対音楽の代表格だった「ソナタ」などの楽曲にさえ、彼は標題をつけてみせました。

ピアノのための『大ソナタ 作品33』は、人生にたとえられ、第1楽章が20歳、第2楽章が30歳「ファウストのように」、第3楽章は40歳「幸せな家族」、第4楽章が50歳「縛られたプロメテウス」、とそれぞれ題されているし、ピアノとヴァイオリンのための『協奏的大二重奏曲』の第2楽章には「地獄」というタイトルがついている。前奏曲や練習曲などにも標題のついた曲が多く、中には随分と風変わりなものも見られます。「隣村の火事」「雪と溶岩」「波打ち際の狂女の歌」......タイトルを見ただけで何だか聴いてみたくなりますよね? アルカンの自由で独特な発想は、こんなところからも感じ取れます。

アルカンは時代の流れとずいぶん離れた場所を歩いていましたが、真に凄いと思うのは、そんな独創的なことをやりながらも「新しい価値観を作ってやろう」というような力みが見られないところ。何気なく作った曲が、ごく自然に時代の数歩先を行っていた――そんな風に感じられるのです。

「鐘」について。バスの鐘の音を常によく聴くこと。和声は鐘の音4回ごとにひとつのフレーズを作る感じなので、微妙なアゴーギクで響きの移り変わりを表現すると良いでしょう。最後の和音はただのトニカではなく、短7度の音が加わっている。そのたゆたうような色合いを大事に、夕暮れの空気に溶けていくかのように美しく奏でましょう。

それでは次回、「入信者」でお目にかかりましょう。

第4曲「鐘」
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森下 唯(もりしたゆい)

ピアノを竹尾聆子、辛島輝治、東誠三の各氏に、リート伴奏をコンラート・リヒター氏に師事。

ホームページ:http://www.morishitayui.jp/

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