驚異の小曲集 エスキス

第05曲「入信者」

2008/06/30

まずお詫びと訂正から。前回の「鐘」の解説で、最後のトニカに「長七度」が加わっている、としていたのは「短七度」の間違いです。読者の方からのご指摘をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございます。

では改めまして、本題へ。

自意識を持つ私たちが生きていくためには、何かを信じる必要があります。少なくとも、ここには世界があって、自分がいて、どうにか生きているらしい、というあたりを信じられなくなると、ちょっと生き続けるのは難しいのではないかな。実際はもっと色々なことを当たり前のこととして、あるいは自らの意思であるとして、信じて込んでいるのが人だと思います。そして、その信念の多くの部分は、実は人の積み上げた文化によって作り上げられたものだったりするのですが。

さて、誰かが何らかの作品を生み出すとき、そこには作者の信じる世界が滲み出てくる。いやいや、私はそんな信念などという大層なものは作品に込めないよ、とか、いやいや、私は本心など見せないし、人をはぐらかしているだけさ、などという人ももちろんいるに違いないが、それはそれでまた、そんな姿勢を取ることへの信念が滲んでくる。......なんて詭弁みたいですが、そんなものだと思う。

面白い作品を作るには、案外、作り手の視野が閉塞していたり、変な思い込みが強かったりした方が良い場合も多い。一点突破で普通はやらない領域まで掘り下げてみると、誰も見たことのない鉱脈が現れるものです。クラシック音楽の中で例を出すと、たとえばスクリャービンの後期の作品。あの官能的な色彩感はほかに類を見ない美しさですが、神秘主義への過度の傾倒と、恐らくは統合失調症による妄想によって生み出されたものです。

そしてまた、ある芸術家が、自分の周りにいる芸術家の作品に触発される、ということはごく当たり前のこと。圧倒的な作品が生み出されれば、後発の作品はそれを追随するのが世の常です。ショパンの亜流と呼ばれる膨大な作品群しかり、ヴァーグナー崇拝の熱狂しかり。そうやって、芸術家は時代の流れの中で、何を表現するか、何を素晴らしいものと見做すか、自分の妄信を磨き上げ、普通にしていては見えない深みに先を争って飛び込んでいくのです。

ところが、ここに何やら時代の作る熱狂を相対的にしか眺められない芸術家がいる。ものが見えすぎて、信念より疑念が先行する。どうしても一歩引いてしまうので、深みに飛び込み切れない。時代の流れを作り上げているすぐれた作品群を見つつ、「確かにそれも面白いけど、古い時代のこんなのも、また今のとはぜんぜん違う面白さがあるんだよな」とか考えている。私のイメージするアルカンってそんな感じです。

アルカンは何かやっているとどうしても視野の端にいろいろ入ってきてしまう人だったのではないか。つまり、周りの信じているものを素直に信じることができなかった。そんなところが、今まで書いてきた彼の作品の「変」な部分につながっていると思うのです。

これは何も無根拠に言っているわけではなくて、アルカンの出自などを考え合わせるとけっこう納得していただけるに違いない。生まれも育ちもフランスはパリのアルカンですが、両親はユダヤ人で、敬虔なユダヤ教徒でした。周りのキリスト教の人々と同じ聖書を教典としながら、まったく違う戒律のもとで生活する彼には、自分なりの世界の捉え方が必要だったはずです。

アルカンは古い時代に思いを馳せることが多いようで、特にギリシャに対する思い入れには並々ならぬものを感じます。今回の第5曲「入信者」は、まさにそのギリシャ趣味が表れた一品。冒頭に置かれた文章は、アリストパネス(紀元前400年頃のギリシャの詩人)による戯曲(の、フランス語訳)です。

「いざ進まん薔薇にみてる花かぐわしき野辺に 幸多きイラがあやなせるいと美しき踊りもてわれらがようにたわむれつ(アリストパネス『蛙』449-455行)」(高津春繁訳)

Quasi-Coro (合唱のように)という標示は、ギリシャの演劇に出てくる合唱隊「コロス」を意識したもの。曲の書法もカノン風の多声音楽になっています。対位法の扱いがよく練られていて、一見するとなかなかに厳格な音楽のように感じますが、5拍子のヘミオラなど驚くほど自由な発想が同居しています。『蛙』という作品自体が、ギリシャ悲劇を批評する形のギリシャ喜劇、という複雑なもののようなので、古の時代を感じる厳格さと、重たくなりすぎない楽しい雰囲気のバランスを取りつつ弾けると良いでしょう。指遣いはアルカン自身によるものと考えて間違いありません。極めて合理的なものなので、指示通りに弾いてみることを強くおすすめします。

それではまた次回「小フーガ」にて。

第5曲「入信者」
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森下 唯(もりしたゆい)

ピアノを竹尾聆子、辛島輝治、東誠三の各氏に、リート伴奏をコンラート・リヒター氏に師事。

ホームページ:http://www.morishitayui.jp/

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