第040回 わが哀しみ
2、マリヤからの形式的な礼状ショパンはマリヤに自作の歌曲8曲とノクターン嬰ハ短調を書いた音楽アルバムを送った。そのマリヤの礼状には「家族全員の、とりわけあなたの一番才能のない生徒にして幼友達の、あなたにお寄せする親愛の情を信じ下さいませ、ごきげんよう」という形式ばった手紙が届いた。マリヤは自分のことを「生徒」「幼友達」と名乗り、「もう、あなたの恋人・婚約者ではない」と暗に示していると推測できるという。
3、イギリスへ傷心旅行1837年夏、ピアノ製造業者でショパンの友人でもあったカミーユ・プレイエルと一緒に気晴らしにイギリスへ旅行に行く。そのとき、テレサ夫人からの手紙が転送されてくる。その手紙の内容は「この夏はどこにも出かけない」というものだったらしい。(手紙そのものは現存していない)ショパンと再会するはずだった夏に、どこにも出かけないと言ってきたのだから、再会する気はない、ということである。マリヤ達はポーランドに帰っているので、亡命者の道を選んだショパンは会いに行きたくても行けないのである。そのことを承知でテレサ夫人はショパンに「この夏はどこにも出かけない」という手紙を寄こしたらしい。(ショパンが友人に宛てた手紙にそのことについて触れている)
4、「わが哀しみ」ショパンの遺品の中から見つかったマリヤやテレサ夫人のショパンに宛てた手紙が入った封筒「Moja bieda」(わが哀しみ)は、第2次世界大戦中に紛失され、現在あるのは、複製である。こういった手紙やショパンの自筆楽譜は複製されたもの(オリジナルは国宝や重要文化財なので、万が一のことを考慮して複製が作られているものが多い)が多いという。
1、婚約解消を悟る1837年の5月か6月に再会する約束になっていたのに、テレサ夫人からは再会については何の音沙汰もなかったという。テレサ夫人は、マリヤとの婚約について一応承諾した手前もあって、はっきりと断らずに返事を引き延ばし、そのうち冷淡な態度をとっていき、便りを書かない、という方法をとったらしい。