第020回 ティトゥスとのその後
2、皮肉いっぱいの手紙「オラトリオ(宗教音楽)を書け」と言ったティトゥスのことを「製糖工場でなく修道院を建てれば良かったのに(そうすればいくらでもオラトリオが聞けるだろう)」 「もう学生時代とは(立場が)違うのに、彼(ティトゥス)は何を夢想しているのだ」
「彼(ティトゥス)に第2子の息子が生まれたそうだが、彼はその息子に僕の名前をとって名づけたそうだ。気の毒な坊やだ」といった辛辣で皮肉いっぱい(これをショパン特有の毒の入ったユーモアだという解釈もあるが)のショパンの手紙が残っている。ちなみにこの手紙はティトゥス本人へではなく、友人フォンタナに宛てられたものである。
3、オペラティトゥスは「オラトリオを書け」と手紙でいってきたが、ルドヴィカ姉さんやワルシャワ音楽院の恩師エルスネルは「オペラを書け」と勧めていた。
しかしショパンは、オペラ好きでよく観に行っていたようだが作曲しようとはしなかった。
「この方面での私の希望はくじかれ、ピアニストとして世に出るしかないのです」とショパンは手紙で答えている。
管弦楽法も苦手であることも自分でも認めていた。
パリ音楽院には才能あふれる若者がひきしめあっていて、競争の激しいパリでオペラや交響曲の上演で成功させるのは難しかったようだ。
また、ショパンは「絶対音楽」の作曲家であり、「標題音楽」を積極的に作ろうとはしなかったことも、オペラを作曲しなかったことにつながるかもしれない。
4、ティトゥスとショパンのその後ティトゥスとショパンは文通を続けていたが、やがて疎遠になっていく。
それから年月がたち・・・ショパンは結核を患い、自分の死が近いことを悟った時、偶然ティトゥスがベルギーに出張していることを聞いたショパンはとても会いたがったという。が、当時ベルギーとフランスの国境は閉鎖されていたので、ついに2人が会うことはかなわなかった。
1、ティトゥスへの手紙ショパンがパリに着いて最初の頃は 「君の手紙がきたら生き返った」とか「お願いだから手紙を書いてくれ」とか「死の日まで君のものにある」とか「君は4ページと37行の手紙を僕に恵んでくれた。僕には君の手紙が必要だ」などなど、熱烈な手紙をティトゥスに書き送っていた。