<ピティナ50周年を振り返る>1980年代~組織編ピティナ50周年を振り返る目次:組織編

文字サイズ: |
2016/06/06
ピティナ50年を振り返る
組織編~1980年代
◆ 組織編
①ピティナが社団法人に!
118号p12左上画像

1985年。ピティナは社団法人全日本ピアノ指導者協会として、新たな一歩を踏み出した。前身となる東京音楽研究会が発足して約20年後のこと。盛大に行われた発足披露宴の様子、関係者のご挨拶がリポートされている(118号p3-12)。「ピアノを聞くことにより、心がなごみ、人間が豊かになるような、素晴らしい音楽が奏でられるようになるよう、今こそ、皆さまが本当に結束されて、日本のピアノ教育をより良いものに向上させていく必要があるのだと思います」(羽田孜会長)。「芸術に携わる者として当然のことではございますが、定款にうたわれておりますように、社会のおけるピアノ教育、及び人間教育を進めてまいりたいと存じます」(中山靖子副会長)。「私が特に喜びといたしますところは、ユタ州ソルトレイクで開かれるジーナ・バックアゥワー国際コンクールと今後も提携を続けられるということです。日本の若いピアニストがアメリカで同じような若者と交流できる場を持たれるということは、真に国際友好発展を深めるために貢献されると思います」(マイク・マンスフィールド駐日米国大使)。「貴協会は19年間において、 ピアノ教育において大きな功績をおさめ、中国との交流も重視してきました。・・社団法人になりよりご発展され、中国とピアニストばかりでなく、音楽の協会などとの交流も盛んになるよう希望いたします」 (中国大使館文化担当一等書記官)
また社団法人化について、創設者福田靖子先生は次のように述べている。「社団法人全日本ピアノ指導者協会、すなわちピティナは、歴史の中で、今何をすべきか、地球上の日本で、日本全土のこの場所で、何をすべきかを、常に問いつつ、方向を見失うことなく進んでいく宿命を与えられただけだと思います」(117号p3『宿願』)

②全国で支部が着々と増えていく
128号p22下画像

ピティナの理念や活動に対する理解が広まり、毎年着実に支部も増えていった。1979年には東京本部を含めて22箇所だった支部は、3年後には54カ所に増えている。会員や支部からの声を集め、全国に発信するという姿勢は変わらない(97号 最終p ピティナ会員アンケート99号p17 支部だより)。また支部連絡会の模様なども詳細に伝えられた(128号p20-22)。なお 1979年以前のピティナの歩みはこちらをご覧頂きたい(78号 p26~31)。

③世代の違う会員・ピアニスト同士の交流促す
121号p22画像

世代の異なる会員が交流することで、お互いに新しい気づきが生まれたりする。会報「こんにちは!ピティナです」のコーナーでは、ヤングピアニストによるピアノ指導者訪問インタビューが行われた(121号p22-23) 。またヤングピアニストが若林顕さんにインタビューするなど先輩後輩インタビューも面白い(128号p16-17) 。

④研究論文募集が始まる

日頃の研究成果を発表してもらうため、研究論文および教育実践記録の募集が始まった。紀要編集委員長は村杉弘氏(131号p31) 。第1回紀要論文集の内容は、「ベルクのピアノソナタNo.1」(クラウス・シルデ)、「ムソルグスキー『展覧会の絵』についての考察」(伊奈千加子)、「シューベルトの音楽語法」(金井玲子) (137号p28)。 また指導法を研鑽するため有志で研究活動を続けている音楽教育研究会の報告も (131号p36-37)。

⑤生涯学習の概念が登場する

「成長型から成熟型社会へ」を目指し、1988年には文部省生涯学習局が設置された。それに先立ち、ピティナ副会長・参議院議員の柳川覚治氏が、当時の生涯学習局長と対談を行った(139号p20-21) 。ピアノや音楽が成熟型社会にとってどのように大事な存在になりうるのか、今あらためて当時の見解を読み返してみたい。
そしてこの時代の流れを象徴するのが「グランドピアノ111台による演奏会」!1989年第1回生涯学習フェスティバル開会式にて、総勢400名が演奏し、6000名の聴衆が見守った。音楽は一生関わるもの、一生学ぶもの。その考え方は次の10~20年で加速度的に広まっていく(150号p6-7)。

⑥当時のお稽古事情は?

当時のお稽古事情についての記事も。とくに女子にピアノが大人気!(123号p3)そんな社会背景を踏まえながら、「なぜ、どのように音楽を習わせるのか?」という自問自答の時期を迎えた。

INDEX
1960年代~
1970年代~
1980年代~
1990年代~
2000年代~
2010年代~

【GoogleAdsense】