日本人こそ、まず日本人の作品を弾いてほしい。ピティナの原点でもある邦人作品への取り組みは、ふとしたきっかけから生まれた。「 (3人の子育て中、近所で2~3名の子供を教えていたが)教えるむなしさはどこから来るのでしょうか。その時、ハッと気付いたのです。日本人でありながら、日本人の子供のための教育、日本人の作品による教育がなされていないからではないか。(中略)日本人の作品を日本人が演奏せずして、どこの国の人が演奏してくれましょうか。この考えに捉われた時、私は行動を起こしたのでした 」(44号 福田靖子先生「創設の頃~東音5周年にちなんで」)
「私たちの音楽」連載にて邦人作品紹介が始まった(25号~)。会報1冊まるごと楽譜紹介という号もあった(55号全頁 林光先生『こどものための小品集』、64号p2-3「私にとってのピアノ」)。
「各国ともこんなにも日本の音楽を研究されていて、演奏にも大きな期待を持たれていたことも全く予想外で、いろいろ音楽に対しての質問や聴衆の態度の熱心さに私ども大いに感激いたしました。・・・大体ヨーロッパのお客様は気に入ったとなるとまことに拍手が上手で、演奏者をエキサイトさせて、なかなか聴き上手です。」(28号p6-7 長門美保先生「こんなにも歓迎を受けた日本の音楽演奏旅行の想い出」)
1972年には初のアメリカ演奏ツアーが実施され、邦人作品演奏会が開催されたり、ツアーに参加した日本人作曲家(中村左和子先生)の楽譜が後にアメリカで出版されたり、また第2回目ツアーではシカゴピアノフェスティバルに出演し、ヤングピアニストたちの邦人作品演奏が拍手喝采で迎えられた。(64号p14 会員ニュース)
創り手は弾き手がいてこそ、弾き手は聴き手がいてこそ。フランスで演奏したときのエピソードとして、老若男女問わず、自分のこととして問題意識をもって聴きにきていること、また演奏が終わった後に聴衆・作曲家・演奏家との対話があり、活発な意見交換が行われたことが紹介された。(61号p2-5 高橋アキ先生「現代曲奏者への道」)
「(日本では音楽家の社会的地位は)ええ、低いですね。ヨーロッパやアメリカでは新しく育ってきた人たちは、自分も音楽界の一員となることを音楽家として生きる意義につなげて考えていると思いますが、日本の場合は全く違いますね。ただそれは一概に悪いとは言えない。日本には日本のあり方があるのですから、むしろこれからはその辺りの違いをはっきり認識し、それをどう創造的なものに転化していくか、ということが大事になってくるのではないですか。」 (59号p2-4 一柳慧先生インタビュー)