「私たちピアノ教師を職業としているものは、"音楽こそが幸福の源である"ということを認識した上で、子供達の指導に当たらねばならないでしょう。」「よく世に名教師と言われる方がいますが、それらの先生方はすべてといっていいくらい、1人1人の内なるものをEducate(引き出す)ことに成功していらっしゃるのだと言えるように思います。」 (35号 福田靖子先生「ピアノゼミナール40回を迎えて」)、「文化遺産とか歴史を勉強するには、それだけにとどまるのではなく、必ず現在から未来に向かって、より素晴らしいものを創造する力にしなければならない、と思うのです。」(25号p15 福田靖子先生「編集後記」)
「バッハやベートーヴェンを弾いていると眠そうな顔をして出て行ってしまう。ですけれど現代曲を弾くと、次から次へとせがまれます。ということは、子供というものは 新しいものに対して、私どもが考えている以上に楽に入っていけるものではないでしょうか。」(48号p6 三浦浩先生「現代作曲家による、子供ためのピアノの弾き方」) 。また、「子どもの音楽に現代曲をどう生かすか」というゼミナールも開催され、その前提として、現代に生きる我々が20世紀の音楽を知ることの意味を説いている(26号 p10-11 三宅榛名先生)。
大学の授業では、音楽史はベートーヴェンくらいまでしかいかないことを踏まえ、自分で音楽史を勉強するべきだ、という提言がなされていた(36号p2-7 中田喜直先生×田村宏先生による同級生対談)。同じ頃、会報誌上で「ピアノを中心とした音楽史」の連載がスタート(38号p10-11)。辻壮一先生によるバッハ、武川寛海先生によるハイドン、山根銀二先生によるモーツァルト 、野村光一先生によるショパンやシューマンのエッセイが寄稿されている。
「あなたは7歳ですが、オーケストラの音を想像しながら、オーボエ、バスーン、チューバになって弾いてください。もし楽器の名前を知らなければ、お母様が教えて下さい。」ヨルダ・ノヴィク先生来日記念セミナーにて、バルトーク「ピアノの1年生」をテーマに、ピアノの歌わせ方を指南された。この基本的かつ本質的な教えは、時を経ても変わらない。(30号p6-7)
「音楽への興味ということだけど、子供に自由な演奏をさせるというのも一つの方法じゃあないかしら。簡単な素材を与えて作曲させると、子供というのはのびのびとして思いがけないよいものを作るわよ」(48号p4-5 金子勝子先生)。10代の子供たちによる創作作品も紹介された(50号p8-10 「こどものぺーじ~わたしの作曲」)
子どもを対象とした連載「こどものページ」が会報に登場、平易な言葉で音楽用語を解説している。「わおんってなあに」(47号p8)、「作曲家とえんそうか」(49号p10)、音楽美学について綴った「音楽 おんがく ONGAKU」(48号p10)など、 子どもに主体性を持った学びをしてもらいたい、というねらいが伝わってくる。
「(先生が)結局言っていることは「そういうふうに弾くべきだ」と言っているように、子供心に思うわけ。でも自分ではこう感じるのに、なぜ感じたとおりに弾いちゃいけないのかなと、子供だから理路整然と考えていたわけじゃないけど、いつもそう思っていたのです。」 (58号p3-4 林光先生「我が音楽教育への反省」)
楽譜をどう見るのか、どう読み解くのか、どのようにアナリーゼを生かしたらよいのか。問題意識や取り組みは今と変わらない。(51号p11 木村雅信先生「こどもの対位法 」ソルフェージュとアナリーゼの分析における対位法的な視点の重要性、34号 田村宏先生公開レッスン「音楽大学受験生のために」)
知性と感性が融合した音楽教育というのは、普遍的な理念である。作曲家・音楽評論家であった諸井誠先生による、見識の高さが伝わってくる記事である。(62号p3-7 諸井誠先生「幼児から知性と感性のおんがく教育を」)