<ピティナ50周年を振り返る>1970年代~全国統一のコンクール始動!

文字サイズ: |
2016/04/22
ピティナ50年を振り返る
コンクール編
◆ コンペティション編
どのレベルの子にどう接していいのかわからない!
30号表紙写真部分

ピアノ指導についての悩みは、今も昔も様々。どの子がどのレベルなのか、そのレベルにどう対応したらよいのか。これといった演奏能力の指標がなかったため、一人一人の指導者にその判断が委ねられていた時代だった(41号 読者からの便り)。「コンクールをやるといいわよ」と、生徒・指導者のレベルを上げるための提案をされたのはヨルダ・ノヴィク先生である。

子どもの成長記録としてのコンクールを
69号表紙写真部分

「子供の成長の記録ともいうべき、進度測定の場を設けることも必要ではないかと思います。これはオーディションあるいはコンクールにつながるもので、さらに日本ばかりではなく、国際的にも通用するものに育てたいと思います。」いち早く、アメリカの国際コンクールとの提携も始まった。(70号p3 福田靖子先生「全日本ピアノ指導者協会躍進の年へ!」

四期を学ぶためのコンクールとして、全員に参加賞を交付
65号p15 参加賞画像

ピティナヤングピアニストオーディションとして始まったコンクール。四期を学ぶというスタイルはこの時から始まった。参加者は全員参加証を交付され、会報に氏名が掲載された。またオーディションに参加していなくとも、全4曲を暗譜した生徒には履歴賞が発行された。(65号p15 プレ・ピティナヤングピアニストオーディション開催!

複数の楽譜を比較検討することを推奨
65号p16誌面

同じ楽曲の楽譜をいくつか紹介し、 複数の譜面を比較検討することを勧めている。表面的に曲を仕上げるのではなく、本質的な音楽の学びを促していることがわかる。(65号p16

コンクール初開催、関東地区予選に96名の申し込み!
67号p3写真部分

初開催時は、関東地区予選に96名の申し込みがあった。日下部憲夫先生による審査委員長講評として 「指導者のアナリーゼ、生徒の研究心が不足していること。男子が極少であること。ペダリングが曖昧であること。段階的練習方法に疑問が見られること、など」が挙げられた(67号p3-4)。コンクールによって様々な問題意識が浮き彫りになり、ここから長期にわたる試行錯誤が始まった。

歴然とした地域差をどう解消していくか!?
68号p11 写真部分の上半分

さらに日下部憲夫先生は関西地区予選も審査し、全国各地で歴然とした地域差があることに言及。その上で、問題提起が投げかけられている。(68号p10-11

指導者賞は4名の先生へ
69号p2 上半分

初のコンクール(当時はヤングピアニストオーディション)開催に寄せて、会長・羽田孜や審査員長の田村宏先生よりメッセージが寄せられている。田村先生は 「バッハが今ひとつ。よい耳からよいタッチが生まれる」との審査講評。初年度は4名の先生に指導者賞が授与され、また現在も活躍中の本多昌子先生が本選E級で金賞を受賞した。(69号p2-5

国際コンクールとの提携も
65号表紙写真部分

ポール・ポライ先生来日 フェスティバル内で開催される国際コンクール(ブリガムヤング国際コンクール、現在のジーナ・バックアゥワー国際コンクール)に、ピティナ主催コンクール優勝者招待を約束。その後両コンクールは順調に成長を遂げ、この提携も長く続いた。ポライ先生初来日時には、藤原亜津子先生宅で公開レッスンを行い好評を博した。(65号p3-7

INDEX
1960年代~
1970年代~
1980年代~
1990年代~
2000年代~
2010年代~

【GoogleAdsense】