ピアノ指導についての悩みは、今も昔も様々。どの子がどのレベルなのか、そのレベルにどう対応したらよいのか。これといった演奏能力の指標がなかったため、一人一人の指導者にその判断が委ねられていた時代だった(41号 読者からの便り)。「コンクールをやるといいわよ」と、生徒・指導者のレベルを上げるための提案をされたのはヨルダ・ノヴィク先生である。
「子供の成長の記録ともいうべき、進度測定の場を設けることも必要ではないかと思います。これはオーディションあるいはコンクールにつながるもので、さらに日本ばかりではなく、国際的にも通用するものに育てたいと思います。」いち早く、アメリカの国際コンクールとの提携も始まった。(70号p3 福田靖子先生「全日本ピアノ指導者協会躍進の年へ!」)
ピティナヤングピアニストオーディションとして始まったコンクール。四期を学ぶというスタイルはこの時から始まった。参加者は全員参加証を交付され、会報に氏名が掲載された。またオーディションに参加していなくとも、全4曲を暗譜した生徒には履歴賞が発行された。(65号p15 プレ・ピティナヤングピアニストオーディション開催!)
同じ楽曲の楽譜をいくつか紹介し、 複数の譜面を比較検討することを勧めている。表面的に曲を仕上げるのではなく、本質的な音楽の学びを促していることがわかる。(65号p16)
初開催時は、関東地区予選に96名の申し込みがあった。日下部憲夫先生による審査委員長講評として 「指導者のアナリーゼ、生徒の研究心が不足していること。男子が極少であること。ペダリングが曖昧であること。段階的練習方法に疑問が見られること、など」が挙げられた(67号p3-4)。コンクールによって様々な問題意識が浮き彫りになり、ここから長期にわたる試行錯誤が始まった。
さらに日下部憲夫先生は関西地区予選も審査し、全国各地で歴然とした地域差があることに言及。その上で、問題提起が投げかけられている。(68号p10-11)
初のコンクール(当時はヤングピアニストオーディション)開催に寄せて、会長・羽田孜や審査員長の田村宏先生よりメッセージが寄せられている。田村先生は 「バッハが今ひとつ。よい耳からよいタッチが生まれる」との審査講評。初年度は4名の先生に指導者賞が授与され、また現在も活躍中の本多昌子先生が本選E級で金賞を受賞した。(69号p2-5)
ポール・ポライ先生来日 フェスティバル内で開催される国際コンクール(ブリガムヤング国際コンクール、現在のジーナ・バックアゥワー国際コンクール)に、ピティナ主催コンクール優勝者招待を約束。その後両コンクールは順調に成長を遂げ、この提携も長く続いた。ポライ先生初来日時には、藤原亜津子先生宅で公開レッスンを行い好評を博した。(65号p3-7)