ピティナの前身となる東京音楽研究会は、邦人作品の普及を目指して始まった。会報Our Music第1号は、邦人曲と西洋曲の扱いが半々ほど。日本の作曲家に対する熱い思いが感じられる。
「やまとことばを美しく」と題した木下保先生の声楽公開レッスンや、「 日本のやさしいピアノ曲」という邦人作品を紹介する連載も早くから始まり、滝廉太郎『メヌエット』、信時潔『わびしきジャズ』、有馬礼子『子どもの庭』などの楽譜が紹介されている。また創立者・福田靖子先生は「わたしたちの音楽をわたしたちの手で」と題し、原博『21のエチュード』披露演奏会に言葉を寄せている。湯山昭先生も、「邦人作品を盛り立てる」ことはたやすくないが、重要であると言及している(会報4号『鉛筆と五線紙と消しゴムの谷間で』より)。
こうした流れを受けて、邦人作品募集が会報10号から始まった。これがのちに、ピティナ・ピアノコンペティション邦人課題曲の先駆けとなる。中田喜直先生は、1980年代にこのように述べている。
「ピティナは子供のコンクールとしては、最も質の高いものになっていると思う。とくにその良い面の特質として、課題曲の選定が適切であり、かつ日本人の作品も各クラスに必ず1曲は入っている、という他のコンクールにはない優れた点がある。音楽の盛んな国では、必ず作曲家と演奏とのバランスが取れている。子供のコンクールでも、自国の作品を必ず入れているのは、非常に意義深い賢明なことだ」(会報100号)
現在、多い年で邦人課題曲応募数は200曲を超える。また最近の公開録音コンサートでは、邦人作品をテーマにしたプログラムも登場。伝統は脈々と受け継がれている。
音楽業界全体の活性化へ
ピティナ50年の最大の取り組みは、やはりピアノ指導者の全国ネットワーク化である。30余名で始まった協会が、2000年には7000名、2016年現在は15000名。50年間で500倍に拡大した。
すでにピティナ創設当初から、その視線は全国に向けられていた。東音ゼミナールは東京だけでなく中部地区でも開催されたり、各県の音楽事情のリポートが毎号会報に掲載されたり、会員からの質問・意見を掲載し、会員同士の意見交換も試みている。毎号のように、「あなたの意見をお寄せください」「地方でも研究グループを作ってください」などの呼びかけや、「私はこのように指導しています」と会員からの投稿を紹介することも。現場のアイディアを取り入れるべく、「わたくしの指導メソード」連載や、「教師のための教養講座」連載ではおさらい会の企画の立て方なども紹介されている。
また音楽業界全体の活性化のため、 楽器店やピアノ工場訪問などを通して、音楽関連企業・団体とのコミュニケーションを深めている。第1回目はカワイピアノ梅田ショールーム(会報5号)、日本楽器銀座店訪問記(6号)、カワイのピアノ工場見学(6号)などが続く。
ではどのような情報が全国に向けて発信されていたのだろうか?東京音楽研究会というだけあって、当初から指導法や奏法にかんするゼミナール(セミナー)や公開レッスンが活発に開かれていた。とくに初級から中級にかけて、どう指導したらよいか戸惑う先生方も多かったようだ。
そこでピアノ入門書やバイエルの版についての研究が会報で発表されたり、中山靖子先生による公開レッスンでは、ブルグミュラー、ツェルニー、ソナチネ、ソナタ、メンデルスゾーンの無言歌集、ショパンのワルツなどが指導され、「ピアノ奏法系統的研究」として会報に連載されている。また、伊達純先生によるモーツァルト楽曲分析と演奏法講座、井口基成先生によるバッハのインベンション講座など、現場の詳細リポートは役立ったことだろう。
ピアノ学習者に対するアドバイスもある。たとえば市田儀一郎先生「インヴェンション雑考」(12号p5 )では、校訂楽譜を使うことで作曲者と学習者の間にバウンドを一つ置いた関係になり、学習者自らのインヴェンション(創意工夫)が積極的に果たされないのではと危惧し、インヴェンション前書きを踏まえて、以下のように啓発している。
- 2、3声部の演奏に習熟すること
- 旋律や音線が他声部との関係においてどのように工夫され、楽想についてもどのように発展させるかなど、自身で創意を働かせること
- 歌うような演奏の方法を学ぶこと
- 動機展開や対位法技術、あるいは均衡のとれた楽曲構成など、作曲への強い関心を呼び起こすこと
海外教授による公開レッスンで、それを目の当たりにした学生の感想も印象的だ。
「何よりもうなってしまったのは、その自由といってもいいようなバッハ。私がこの作曲家に対して感じていた尊厳さを超えて(含めて)、踊っているような、そんなリズムの動き、強弱の変え方。」(ロマン・オルトナー先生公開レッスン受講生の感想、70号、昭和53年3月)