「震災を乗り越えて」茶話会
~福島県いわき市ピアノ教室から 震災その時~
大震災から早4ヶ月、福島県には「原発」という巨大な問題が立ちふさがり、現在岩手・宮城とは、その被害の内容に一線を画す状況下にあります。インフラ整備に関する復興は進んでいるとはいえ、福島県民が以前通りの生活に戻る事は不可能に近いことが判明しつつあり、県民にやるせなさと憤りが広がっています。美しい海や山に囲まれ、野菜や果物、新鮮な魚介類に恵まれた豊かで美しい県が、今、苦悩に喘いでいます。
私は神戸市出身ですが、いわきに住むようになって20年以上になります。こちらでプチコンセール会というピアノ教室を開き、2005年よりピティナいわきステーションも立ち上げました。
この度の震災で生まれて初めての恐ろしい体験をし、今まで考えもしなかった原発の問題がいつも頭から離れません。1カ月ほど東京に避難していましたが、その後も余震が続き、ゴールデンウィーク明け頃になってようやくレッスンも少しずつ再開しましたが、ピアノレッスンを取り巻く環境は激変しました。
この度、ステップや発表会などで顔を合わす程度で、お互いあまりお話などする機会もなかった大人の生徒さんに呼び掛けて、茶話会を企画しました。皆さんでお菓子を持ち寄り、お茶を飲みながら、震災のその日その時、どこでどうしていたのか、またその後、どのように避難生活を送ったのかを皆で語り合いましたのでご報告いたします。
- ◆日時:
- 2011年 7月10日(日) 午後3時~ 福島県いわき市 細渕宅にて
- ◆出席者:
- 以下の6名+細渕
田井さん(医師)、永井さん(OL)、本田さん(カルチャースクール講師)、新妻さん(塾講師)、宇佐神さん(大学院生)、野村さん(ピアノ講師)、進行;細渕
- 細渕:
- みなさん、今日は暑い中、お集まりいただいて嬉しく思います。長かったような短かったような4か月でしたが、それぞれ大変なご苦労があったと思います。思い出すのも辛い体験ですが、今日はその日その時を振り返って、今後、気持ちも新たに進んで行くきっかけに出来ればと思います。まずは震災直後の状況からお話を聞かせてください。
- 田井:
- 私は勤務中の病院の6階にいました。また地震だと軽い気持ちでいたのですが、揺れがどんどん大きくなり、これは尋常でないと感じました。隣にいたスタッフが私の腕 をギュッとつかみ手の力が増していったのを覚えています。揺れがおちつき病院内をまわると本棚が倒れ本や書類が散乱していました。病院内に地震によるけが人はいませんでしたが、テレビで津波のニュースを見て愕然としました。地震直後は負傷者が大勢運び込まれることを予想し病院のスタッフ一同で待機していましたが、ほとんど患者さんは運ばれませんでした。
- 永井:
- たまたま仕事が休みで自宅にいました。飼っている犬を抱きかかえて慌てて外に飛び出しました。犬はブルブル震えていましたが、揺れはいつまでたっても止まらずに本当に恐ろしかったです。外で遊んでいた子供がいたのですが、大人の慌てぶりをよそに地震直後も平気な顔で縄跳びなどをしていて驚きました。すぐに水が出なくなり、運悪く食料の買い置きもほとんどなかった中に、津波の被害にあった親戚も避難してきてその後は本当に悲惨でした。
- 本田:
- 私は午後2時からピアノのレッスンでしたので、ここのレッスン室に先生と一緒にいました。揺れがどんどん激しくなり、尋常でないと感じて二人でスリッパのまま外に飛び出しました。立っていられないほどの揺れで道にしゃがみ込んでいたら地面にひび割れが入りました。先生はとても冷静なように見えましたが私は相当うろたえていました。しばらくしてレッスン室に戻ろうとしたら玄関から部屋中に至るまで壊れた物が散乱していて、ひどい状態でした。主人に電話しようとしましたが携帯は通じず、普段車で20分かかる所を10分で飛ばして自宅に戻りました。
- 新妻:
- 娘の中学校の卒業式が午前中にあり、それも無事終わって家に戻っていました。友人と会う用事があったので出かけようと自宅前の車の前に来た時に揺れ始めました。車はガタガタと跳ね上がるほどに揺れて、近所の家の屋根瓦が落ちるのを見た時にはゾッとしました。下の子供はお友達と遊びに出かけていましたが、連絡手段もなく、帰って来るまでは心配で生きた心地がしませんでした。
- 宇佐神:
- 私は本田さんの次の3時からのレッスンだったので先生の家に向かう途中でした。私の家は富岡(※現在は原発避難区域で一切の立ち入りが禁止されている地区)なので、いつも通る海岸沿いの道を走っていました。突然、ディズニーランドのアトラクションのように車が揺れ始め、びっくりして脇に停めました。それでもその時はあまり深刻に考えていなくて、とにかく先生の家にレッスンに行かなくては、という気持ちで車を出しましたが、よく見ると道に亀裂が入り、橋も大きく割れていたので驚きました。そんな時、友達から電話があり、津波が来るからすぐに海岸を離れて、と言われて慌てて内陸の道に移動しました。先生の家の前に辿り着くと先生はまだ外にいて「なんで来たの!?」と叫ばれたので、初めてただ事では無いんだ、と気が付きました。家まで帰り着くのに5時間もかかってしまいました。
- 野村:
- 私は本田さんの前の1時からのレッスンでしたので、終わってから鹿島街道沿いにある本屋に寄ろうと思い、店の駐車場に停めた時です。ガタガタとものすごい揺れが来て車から飛び出しました。本屋さんの中からは人が一斉に飛び出してきて、知らない人たちと手を取り合って震えていました。
- 細渕:
- 私は本田さんと自宅前の道でしゃがんでいる時に、向かいの山肌から砂煙が上がるのを驚異の思いで見つめていました。宇佐神さんが来た頃でしょうか、ドーン、という地の底から響いてくるような深い音を3回聞きました。後になってそれが津波の音と知りました。その後、原発が爆発して放射能漏れの騒ぎが広がっていわき市民もパニックになりましたね。私は15日の朝に一人でいわきを脱出しました。ガソリンは半分以下だったので決死の思いでした。宇都宮まで行った所でガソリンが無くなり、東京に避難していた息子からの携帯で開いているガソリンスタンドを見つける事が出来、12時間かけて東京に辿り着きました。この時期、多くの方が那須塩原や宇都宮で車を乗り捨てていたようです。
- 田井:
- 私はいわきでずっと病院勤務をしていました。薬局がほとんど閉まっていたので十分な処方ができず、病院内の点滴や薬も少なくなり診療に支障をきたしはじめたため、県外へ患者さんの搬送をしました。原発騒ぎでガソリンも物資も入ってこなくなり町はゴーストタウンと化したので、自宅の食料を持ち寄り病院に泊まりこみながら診療しました。
- 永井:
- ガソリンが足りなかったので単身赴任だった父が迎えに来てくれて千葉に避難しました。でもペットと親戚と、一気に大勢で暮らさざるを得なかったので、避難先での生活は困難の連続で、トラブルも多くて本当に厳しかったです。
- 本田:
- 我が家は幸いな事に水が出ていたのですが、やはり原発事故の後、脱出しました。まず郡山の避難所に入り、一晩過ごしました。夜中に具合が悪くなるお年寄りがあって救急車で運びだされたり、騒然としていました。その後喜多方にアパートを借りて避難生活を送りました。主人だけはいわきに残っていたので毎日不安でいっぱいでした。
- 新妻:
- 最初、主人の実家にお世話になりましたが結局は東京足立区の武道館に設置された避難所に移りました。訳のわからない混乱した日々でした。4月6日から学校が始まるというのでいわきに戻りましたが、始まったと思ったらまた4月11日の余震で断水になり、学校もまた休みになってしまいました。
- 宇佐神:
- うちは父が東電ですので、父は湯本にある旅館に滞在しながら仕事に通っていました。私は母と姉と一緒に避難所を何箇所か回ったのち、会津にアパートを借りて避難していました。4月に大学が始まったので私だけいわきに戻り、友達のアパートにお世話になっていました。最近やっといわきで住める場所が見つかって父と今一緒に暮らしていますが、母と姉はまだ会津にいます。ピアノも弾けなくなりましたし、洋服も何も取りに戻れなくてとても不便です。
- 野村:
- 私の夫は水道関係の仕事をしていますので地震直後から職場に泊まり込みで復旧活動をしていました。そんな中、近所の人たちが次々といわきを離れてしまい、物資やガソリンも不足して大変心細い思いをしました。また、私の母や娘夫婦たちが我が家に身を寄せてきたので一時は足の踏み場もない程大変な状況でした。
このような話の後、お茶を飲みながら自由に話しました。事前に、自宅にある日用品で余っているものがあったら持ってきて下さいとお知らせしてあったので、それぞれ持ち寄った品を最後に宇佐神さんに差し上げました。このような機会が持てて皆さん大変喜んで下さいました。少しずつでも前向きに進んでいければと思います。全国の皆さん、どうか災害に合った人たちの事に関心を向けてください。そして一人ひとりが出来るご支援をどうかよろしくお願いいたします。
2011年7月13日 PTNAいわきステーション代表 細渕 裕子