今回のピティナ・ピアノフェスティバル特別講座では、ご存知『ピアニストの脳を科学する』の著者、古屋晋一先生にご登壇いただきました。講座のテーマには「音楽家の為の脳教育~練習量を減らす脳の使い方~」が掲げられ、前半では「効率の良い暗譜」に、後半では「スキルを高める練習」についてそれぞれ、密度の濃いお話をいただきました。(Report:船越理恵)
まず冒頭で、ただやみくもに時間をかけて練習することだけが上達への道のりではないということ、それどころか長時間の練習は時に演奏家としての人生を左右する身体疾患を招く危険性があることについて触れられたうえで、講座前半部がスタート。「効率の良い暗譜」というテーマにフォーカスされたレクチャーが展開されました。
古屋先生が、記憶に対する脳の活動特性に基づき提示してくださった暗譜効率を高める様々な学習方法は"イメージトレーニング""オフライン学習"、中には"昼寝の推進"などいずれも固定概念を覆す斬新なもの。会場も驚きを隠せず、時にどよめきが起こりました。さらには記憶行為が行なわれる際の脳のメカニズムについても詳しく取り上げていただきました。たとえば記憶のチャネルには視覚や聴覚、触覚、筋感覚といったものがあり、これらのチャネルの活用のされ方によって、記憶効率が大きく変わってくるとのこと。加えて記憶が行なわれる際のプロセスについても説明していただきました。練習の方法によっては、新たな記憶がそれ以前の記憶の定着を妨げる「干渉」という状況が発生するとのこと。このことに関連してとりわけ印象的だったのは、本番直前、舞台裏で楽譜を確認する行為についてのご指摘です。この行為にはポジティブな効果を発揮するどころかむしろ、時に暗譜内容に混乱を発生させる可能性が含まれているのだとか。多くのピアノ指導者、ピアノ学習者にとって習慣となっている本番前の楽譜確認行為に、実は知られざる暗譜の落とし穴が隠されていたということは、衝撃的事実といっていいのではないでしょうか。このような記憶のメカニズムが日常的に意識されるようになれば今後、暗譜学習方法は画期的な進化を遂げていくかもしれません。終始一貫して脳科学研究分野の見地から実証的なレクチャーが繰り広げられた前半の部。難しい話題についてもユーモアを添えて楽しくお話しくださる古屋先生のおかげで、あっという間に休憩時間となりました。
古屋先生がおっしゃるスキルの定義は「目的とする音・音楽をうみだすための身体や感覚の働き」。ここでは、後半部分で具体的に説明していただいたスキルを高める3つの学習方法について、要点をまとめてご紹介させていただきます。3つの方法とはそれぞれ"教師なし学習""教師あり学習""強化学習"です。まず"教師なし学習"とは、いわゆる自宅で行なわれる反復練習のこと。練習を重ねることで、タッチスピードの増強、タッチの正確性を聴きとる力の向上などが見込めるそうです。また指の独立性を高めることに関してはゆっくり弾く練習の有効性が実証されている事実を強調しつつも、過度に行なうことで生じる手を痛める危険性についての指摘もなされました。"教師あり学習"とは、学習者の目指すゴールを正確に理解し、最適な課題解決方法を指示することができる指導者との練習のこと。古屋先生曰く「指導者とは生徒が抱える問題解決のための探索時間を減らし、無駄な練習時間を省く存在」。この見解を受け、深くうなずく先生方が客席に多くいらっしゃったことが印象的です。最後の"強化学習"とは感性や感情と関係する練習方法で、自分が目指す音楽表現を実現するための行為のこと。もっともこの方法を導入するピアノ学習者には、ある程度の熟達が求められます。具体的には、自分の音色や響きについて自分の理想どおりかどうかセルフジャッジできる能力が必要になるということです。後半の部終盤では、不適切な練習方法によって引き起こされる身体疾患についてもまとめて取り上げていただきました。全体を通しては、練習内容や練習方法によって学習効果が大きく異なることを認識させられると共に、だからこそ目的と状況にあわせて最適な練習方法を選択することの重要性について考えさせられる内容。明日からの指導にむけて多くの気づきと学びを得られた有意義な時間となりました。
前半の部にご登壇いただく予定となっておりました土田英介先生ですが、健康上の理由でやむをえず、この日の講座を中止する運びとなりました。よって古屋先生には急遽、前半後半を通してご登壇いただき、講座内容を拡大してお話しいただいた次第です。急なご対応をご快諾いただいた古屋先生に感謝を申し上げると共に、この度やむをえず講座内容を変更させていただいたことにつきまして、ご参加いただいた皆様に心よりお詫び申し上げます。