「音楽家の手」の専門医として、研究と診察のため日本全国、世界各国を飛び回っている酒井直隆先生。権威ある医学者であると同時に、熱烈な音楽ファンでもある酒井先生の講座では、「手」の構造や動きのメカニズムに関する医学的な解説はもちろん、音楽の歴史やピアニストについて繰り広げられる刺激的で博識なトークが大反響を呼んでいます。ムジカ・ノーヴァでも長期連載「ピアニストの手」を受け持つ先生に、お忙しいスケジュールの合い間を縫ってインタビューに応じていただきました。
◎ 音楽家の専門外来を開いて診療されている酒井先生ですが、ご自身は音楽を専門的に勉強されたのですか?
「本格的に没頭したのは大学入学後ですね。大学生になってからは、勉強以外はほぼ音楽漬けの毎日でした。時間があれば部屋で音楽を聴いたり、ピアノを習いに行ったり、コンサートに出かけたりしていましたね。授業をこっそり抜け出してレッスンに行き、何食わぬ顔で教室に戻ってきたりしてました。
また、曲や作曲家について本を読んだり、調べたりすることも多く、音楽についての知識はこの頃身に付きました。今ではそういった自分の趣味が高じて、仕事としても関わりを持つようになった、という感じですね。ムジカノーヴァの原稿も仕事の休憩時間に書いていますし、そのような時間が自分の大きな楽しみとなっています。」
◎ 先生の講座ではポリーニ、アシュケナージ、バドゥラ=スコダなど世界的なピアニストに実際にお会いになって手を研究された話や、ピアニストのエピソードなどもとても興味深く聞かせていただきました。
「私が学生の頃は、アルゲリッチやポリーニ、アシュケナージといった人たちがまだ若手と目されていて、リヒテルやミケランジェリが巨匠として活躍、大御所にホロヴィッツやルービンシュタインなどが控えている時代でした。今では歴史的になってしまった人たちも多いですが、当時の私は彼らの実演を何度も聞きに行っては感動していました。
彼らはあまりに天才肌で、なんの苦労もなくピアノを完璧に弾きこなしていました。テクニックも素晴らしく、譜読みも一瞬で出来て、音楽的にもとにかく素晴らしい演奏。それでいて、本人たちも『生まれつきだから、どうやったら上手く弾けるのかなんてわからない』と言うわけです。ホロヴィッツなど、2日間一切ピアノを触らずに演奏会に挑んだそうですよ。研究や自分自身の演奏の糧になるようなお話はあまり聞けなかったという点では、大きなショックを受けましたね(笑)。」
◎ 先生のように、音楽家を専門的に診ていらっしゃるお医者さんは、やはり少ないのでしょうか?また、音楽家を診る際に、医者側で特に注意すべきことなどはありますか?
「欧米にも音楽家を専門的に診ている医師がいますが、まだ少数ですね。そのため、国境を超えて診察に通っていらっしゃる方も多いようです。
音楽家が病院にかかると『ピアノを弾きすぎなので、休んでください』と言われるケースが少なくないそうです。しかし実際のところ、受験やコンクールを抱えている方や音楽を職業にされている方はそうそう休むというわけにいきません。更に、一定期間休んだとしても、練習を再開するとまた症状が再発する場合が多く、空白の期間がまったくの無駄になってしまいます。したがって、練習をしながらいかに手を治すかが、重要になってきます。
また、楽器の弾きすぎによる障害をオーヴァーユース障害と言いますが、腱鞘炎を含めほとんどすべてのオーヴァーユース障害は、手術をしなくても治せます。究極の細かい運動を強いられる音楽家の手に、安易にメスを加えることは避けるべきと思います。症状が軽いうちに手術をすれば、結果は当然いいので患者さんは喜ぶかもしれませんし、感謝もしてくれるでしょう。でも、手術というのは生まれつきの体の構造を変えるわけですから、しないで済むのならその方が本人にとってずっといいはずです。
医師側の立場からは、何が音楽家の手にとってもっとも望ましいことかを常に考えるべきだと思います。」
◎ ピティナのコンクールやステップの参加者層は小学生、中学生が多いのですが、こういった年齢の子供が診察に来ることもあるのですか?
「結構多いですね。最近は演奏のレベルが向上して、小さな子供でも大人並のレベルの課題曲を弾きこなしています。それで、手の痛みを訴えて診察にやって来る方は増えてきています。
大人の演奏者を想定して書かれている曲を弾こうとすると、手の大きさも腕の力も足りない子供の手やひじに痛みが生じるのは、ある意味当然です。小さい手を無理して広げると、たとえ脱力がきちんと出来ていたとしても痛むことが多いのですが、本人もCDなどお手本の曲を沢山聴いて、一生懸命同じように弾けるように練習を積み重ねていっているのだと思います。
このような問題は、体が大きくなれば必ず解決します。明らかに発育しきっていない子供が診察に来た場合は、大人のように治療をしたり、薬を使ったりすることはほとんどなく、『無理をせず、自然に発育を待った方が将来的にリスクも小さい』ということをご本人にもご両親にもご説明します。このことは、将来教える立場になる方々に事前に警告しておくと効果があるかもしれないと思い、音大の授業などでは必ず言うようにしていますね。」
◎ 最近では工学の研究もされているという酒井先生ですが、今後の展望とは?
「医学的な手の研究は色々とやってきたのですが、医学でどうしても直せない場合は、工学で解決出来るのではないかという思いから、工学の観点からの手の研究も進めています。
楽器という機械をどう使ったら手が痛むのか、手の痛みを解決するために機械側でどう改良したら良いか、などの工学視点の研究に始まり、脳で考えた通りの動きをロボットハンドのようなデバイスで再現出来れば、障害者の方でも楽器が自由に弾けるようになるのでは、というところまで今は進んでいます。パラリンピックにコンピューター化された義足で参加した方がいらっしゃったように、いつか身体的な問題で楽器が弾けなくて悲しんでいる方たちに希望を与えられれば、と思っています。また、そのような研究が進むことで、楽器を学ぶ生徒数が増加し、音楽の世界にも新しい展開が生まれるのでは、と期待しています。
また、音楽家の手の治療の話に戻りますが、これまで腱鞘炎を含む弾きすぎによるオーヴァーユース障害の患者さんのほとんどは、手術をしないで治療できました。音楽家だからといって、特殊な治療があるわけではなく、むしろ究極の手の運動を行う人たちには手術をしない、保存的な治療を行うのが大原則です。これについては海外の医師たちも同意見でした。
さらに、楽器を弾きすぎて起こる手の障害の多くは予防できると思います。その予防法を音楽に携わる人たちが知って実践すれば、病院に来る必要はなくなるし、練習で不安になることもありません。実はこれこそが私が今、もっとも実現したいと考えていることなのです。そのために音楽大学で若い人たちを啓蒙しているところです。
もうひとつ、今後取り組みたいのは健康を害した音楽家の生活保障の問題です。現在の音楽家外来は保険診療で行っていますから、治療費自体には音楽家や学生の皆さんに経済的負担をかけずに済んでいますが、もしもオーケストラ団員の方が健康を害して暫く演奏できなくなった場合、深刻な生活不安に陥ることが少なくありません。欧米では音楽家の診療を無料で行おうとしている医師もいます。幸い日本は国民皆保険制度がありますので、患者さんの負担は低く抑えられていますが、今後音楽家、広く言って芸能関係者の生活保障をどうするかも問題にしてゆきたいと考えています。」
◎貴重なお話、ありがとうございました!