全曲楽譜校訂、コンサート全曲演奏、CD全曲録音・・・と、壮大なスケールで展開されている中井正子先生のドビュッシー・プロジェクト。ドビュッシーのスペシャリストとして名高い中井先生に、まだまだ知られていないこの作曲家の魅力や、演奏ポイントなどについてお聞きする。
◎まず、2003年にドビュッシー・プロジェクトを始められたきっかけとは?
「高校2年生の時からパリに留学して、かれこれ15年間はフランスでピアノを学びながら演奏活動を続けてきたので、フランス音楽に対する思い入れは人一倍あると思います。とはいっても、初めから『ドビュッシー・プロジェクトを始める』といった明確な構想があったわけではなく、楽譜校訂を依頼されたことから始まって、それに伴った全曲演奏コンサート、ピアノ曲CD録音、講座・・・など、活動の域が少しずつ広がっていったという感じですね。
日本で出版されているドビュッシーの楽譜は、音の誤りなどが驚くほど多く残っています。私にも、昔日本のコンクールに出る生徒がオリジナルの楽譜通りに弾いたところ、日本版の楽譜しか知らない審査員の方に『間違っている』と判断されてしまった苦い思い出があります。『どこがどう間違っている』かを全て把握するとまではいかなくても、こういった誤った認識がまだまだドビュッシーの楽譜では存在する、ということを是非色々な方に知っていただきたいと思います。」
◎普段コンクールやコンサートなどでもドビュッシーの演奏を聴かれることは多いと思いますが、特に気になる点などありますか?
「フランス音楽が一般的なレパートリーとして浸透してきた今でも、音楽が書かれた背景については全く意識せずに弾いている方が多いと思います。
例えば初期のサロン曲であるベルガマスクなどの曲を、カタカタカタと指の速さを競うように演奏している人を多く見かけます。しかしこの頃の曲は、サロン文化との密接な関わりが切っても切り離せない重大要素。かつてのルイ王朝への憧れを持った人達の間で認められていた音楽ということで、『優雅さ』は必要不可欠なのです。そのような曲の背景を、弾く側も教える側も知っておく必要がある、と痛感します。
また、弾いている本人が自ら想像力を膨らませることも大切ですね。情報が少なかった時代は、昔のフランス貴族の生活なんて想像するのも難しかったけれども、今は写真やテレビ、インターネットなどの情報源が溢れています。だから、その頃の社会にどういった人達がどのように暮らしていて、その中から音楽が生まれたのか、いくらでも想像することは可能です。そういった想像力をもって、演奏をもう一歩進んだものにしていって欲しいと思いますね。」
◎ドビュッシーの曲は、その独創的な音楽性から難易度が高そうなイメージですが、他には特にどういった点を意識して弾けばよいのでしょうか。
「ドビュッシーの音楽の特徴は、一にも二にもその『繊細さ』。私たちは、バッハやベートーベン、ブラームスなど重厚なドイツ音楽を中心に学んできていますが、感覚的な色彩を重視して描かれているフランス音楽を、同じ耳でもって聴いてはいけないのです。
とは言っても、『ドビュッシーの曲は全て気の向くままに、感覚的に弾いて良い』というわけでもありません。この手の音楽は、形式がまったくないのではなく、『形式の無い形式』の理解が必要になってきます。ドビュッシーは音楽史上の『異端者』として知られていますが、実はパリのコンセルヴァトワールで12年間もの間作曲を学んでいた彼は、当時最もソルフェージュ能力に長けた生徒でした。そして彼の音楽も、ソルフェージュの基礎を学んだ人にしか理解できない和声感覚、正確なリズムの構成などが緻密な構成のもとに描かれているので、演奏においてもきちんとしたソルフェージュ能力を身に付けることが不可欠な要素となってきます。」
◎そうしたことは、現代音楽においても言えそうですね。
「その通りです。現代曲は、古典的な音楽と全く別ジャンルとしてではなく、その延長線に存在しています。
現代音楽に対して持たれているイメージは、主に2種類あります。ひとつは今お話した、『現代音楽は形式やルールがないから適当に弾いてしまえばいいや』といった短絡的な捉え方、そしてもうひとつは、『現代音楽はクラシックに比べて弾くのが難しい』といった先入観です。確かに複雑な音符が出てきたりして読譜が難解なこともありますが、ソルフェージュなどで養われる音楽の『基礎』を理解していれば、クラシックと同様、現代音楽もしっかりと弾きこなすことが可能なのです。
ひとつ例を挙げると、5連音符が出てきた時に、『これは2?3に分けて弾くのですか、それとも3?2ですか』と聞く人がいますよね。でも、5連音符は5つの音を均等に弾いてこそ5連音符であって、そのような基礎的なことを、ソルフェージュ教育をきちんと受けてきた人達は感覚でわかっているのです。読譜や聴音、リズム取りなどのトレーニングをきちんと受けていれば、現代音楽の演奏も難しいと感じることはありません。自分達が生きている時代の音楽を楽しむためにも、ソルフェージュ教育を小さい頃からもっと徹底して教えることはとても大切だと思います。」
◎最後に、ドビュッシーやラヴェルの全曲演奏や楽譜校訂のみならず、シューマンやショパン等の連続演奏をされてきた中井先生ですが、今後の展望は?
「今はまだドビュッシーの全曲楽譜校訂が進行中ですが、このプロジェクトを進めてきた間にも色々な作曲家やジャンルの音楽に挑戦してきました。他のスタイルの曲に触れたからこそ、ドビュッシーの曲の魅力も発見できましたし、その反対も言えます。このような相乗効果によって随分音楽の幅も広がったと思いますし、今後もそうしていきたいと思います。
また、15年間もフランスでピアノを勉強してきたので、現地で学んだことを少しでも多く日本でも伝えたい、という思いが私の原動力。長く周りに支えられながら勉強させていただいた恩返し、という意味でもフランス音楽の追求はずっと続けていきたいと思います。」
◎ありがとうございました!
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ステップ課題曲としてもおなじみの「子供の領分」を題材に、ドビュッシーの曲の伝統的な演奏法や、日本版楽譜にどういった誤りが存在するのか、また現代音楽を理解するためのソルフェージュスキルなどについて、指導者側の視点から具体的にお話いただきます。お楽しみに!