「音楽表現とテクニック~音色とタッチ、脱力とイメージの作り方~」は、ピアノ指導・演奏において最も基礎的な要素でありながら、極めて幅広く、奥深いテーマです。今回は、子供から大人まで、幅広い年齢の生徒を50年近くも教えつづけてきた杉浦日出夫先生に、初期指導の段階でこの2つを効果的に教える方法、そして必要性についてお聞きします。
講座にこういったテーマを選ばれた背景には、やはり先生ご自身の体験や経験があるのでしょうか?
「そうですね。僕がこれらについて問題意識を持ち始めたのは、40年以上前に、初めてコンクールに生徒を出した時です。僕の生徒の音が、他の参加者の音に比べて全員小さかったんですよ。それまでは、自分の生徒の演奏を他と比較する機会もなかったので、大きなショックを受けました。
『これはいけない!』と思い、その後生徒に、『大きな音はどうやって出したら良いか?』と質問すると、『フォルテで弾く』と言いました。『フォルテで弾くにはどうするか?』と更につっこむと、『強く弾く』。『じゃぁフォルテで強く弾くには?』と聞くと、『えー!わーって弾く』、と...。要するに、演奏するのに手をどの様に使えばいいのか、具体的なことが何一つ分かっていなかったのですね。
大きな音を出すためには、手の重さを上手く利用することによって大きな音が出せる、という重力奏法の原理と、打鍵のスピードを上げることを、生徒にちゃんと教えなければいけませんね。そして、これらが出来ると、自然に正しい脱力も出来ます。本を読んだり、人に聞いたり、自分で色々と試行錯誤するうちに、段々と詳しく分かってきたことですが、それでも上手く生徒に教えられるようになるまでは、10年ぐらいかかりましたよ。
この様に、昔の自分と同じように悩んだり苦しんだりしている人に、自身の経験から得た知識が、助けになれるかもしれない。逆に、こういったことの大切さに気付いていない人には、早くから問題意識を持っていただくことで、少しはお役に立てるかな、という考えで、このテーマについてお話しています。」
先生ご自身も、他の方の指導法などを参考にされたことはありますか?
「『現代ピアノ演奏テクニック』という、モスクワ音楽院のリーベルマンという先生が書かれた本は役にたちましたね。あの国は、次から次へと素晴らしいピアニストが出てくるじゃないですか。そこで、その秘密を知りたいと思い、20年ほど前に、2週間ぐらいモスクワにレッスン見学に行ったこともあります。
そのとき驚いたことは語りきれませんが、一番衝撃だったのが、レッスン生が全員、全曲暗譜で弾いていたことです。どこの教室に入っても、誰もまったく楽譜を見ていない!それが当たり前なんです。しかも、ガタガタのピアノで、椅子も高さの調節ができるものではなく、普通の教室机の上に板を積んで、その上に座っていました。日本の生徒は、冷暖房の入った部屋で、良いピアノと椅子で、何も不足がない環境で練習しているのに、次から次へと出てくるロシア人の素晴らしいピアニストには追いつけないでいる...。
その後、僕も刺激を受けて、レッスンに暗譜を取り入れました。大学の生徒全員に、『暗譜してきた曲だけしかレッスンしませんよ』と通告したんです。すると、ピアノ科だけでなく、教育科や声楽科の子までもが、全員レッスンに曲を暗譜してきて、休み時間にまで一生懸命練習するようになりました。大学生は暗譜力が落ちるとか言われますけど、なんのことはない、みんなやれば出来るんですね(笑)。」
そういったことが当たり前になれば、生徒さんの意識も自然に高くなるのでしょうね。
ところで、日本人はテクニックのレベルは高くても表現力が低い、と言われがちですが、こういった点も外国に行ったことで意識されましたか?
「これまで4回ほど、ショパンコンクールを観戦しましたが、やはり作曲家の国の景色をみるだけで、音や楽曲のイメージが拡がるように思いましたね。また、作曲家の思想や宗教にも触れることの大切さも感じました。もちろん、そこまで難しい話でなくても、小さい頃から音の響きや、和声感やフレージングに対する『感覚』を教えることは非常に大事ですね。
ピアノは、鍵盤を押すとぱっと音が出てしまうから、弾けば自分の音が出る、と思いがちです。でも、自分の音って、自分で意識を持って初めて作れるものだから、ピアノを弾くのって実はすごく難しいんですね。そして、『日本人は指ばかり動くけれど、内容のない、空気の演奏だ』と外国人に言われてしまうのは、日本人がすごく器用で、指がすぐ動いてしまう所に原因があるのだと思います。指を一本一本動かすにも、頭から来る命令に従って弾かなければいけないのに、反射神経でのみ動かしていると、イメージや音程感がない、機械的な演奏になってしまいますね。そして、そんな練習ばかりしていると、ますます指だけでどんどん曲が弾けてしまって、先生が曲をかっこよくまとめてくれる。そうすると、自分の考えがない演奏がコンクールで評価されたりして、更に頭と手がバラバラな演奏になってしまうのを「良し!」としてしまいかねないですね。」
先生は、生徒に「イメージ」を持たせるために工夫されていらっしゃる点などありますか?
「20世紀最大のピアニストの一人、アルフレッド・コルトーの言葉に、『どんな低俗(シンプル)なイメージでもいいから、とにかくイメージを持って弾くことが大切。そうすると、にわかに曲が生き返る』というのがありますが、全くその通りだと思います。ですので、特に小さい子なんかには、色やお天気に例えながら、曲に対するイメージを持ってもらうようにします。特に、水のイメージは持ちやすいですね。雨だったら毛雨から雷雨、静かな山の中の湖とか、光る海、静かな海。あるいは、この曲は、初めは小川で、だんだん大きくなって大河になり、最後は海に注ぐ...とかね。とりあえず、困った時には水のイメージ、と生徒にはよく言っていますね(笑)。」
それならイメージがふくらみそうですね!では最後に、長年指導をされてきた結果、先生の中で一番のこだわりとは?
「とても簡単なことだけれど、一番はやはり、『みんなにピアノを好きになって欲しい』という思いにつきますね。僕自身、学生の頃は家にピアノがなかったんですが、授業の後はいつも走って音楽室に行って、ピアノの練習してましたから。小さい頃からピアノの音に魅了されて、弾きたくてたまらなかった。だから、授業が延びるといつもイライラしてましたよ(笑)。
いい音で弾く為の技術や表現法を身につけることで、自分の音によって自分自身が癒されます。そしてその先には、演奏を聴いている人にも何かを伝えられるようになって欲しい。最近は、聴いている人に話し掛けるような演奏を聴くことが少なくなってきました。しかし、自分の音楽を人に伝えて、その伝えたものが自分に戻ってくる...こういった気の交流のようなもので聴衆と交わることによって、より人々の心の音楽が立ち上がって来るのではないかな。そしてまた、そういった経験を夢み、楽しみながら、皆にピアノを弾いて欲しいと思います。」
ありがとうございました!
杉浦先生の印象は、一言で言うと、「お茶目」な方。真面目な取材内容だったにも関わらず、取材テープには頻繁に(主に筆者の)笑い声が...。「レッスンでも、『これは僕が発明したんだ!』とよく生徒に言って教えるんだけど、ちょっと経つと絶対、それがどこかに書いてあるのを発見しちゃうんだよね~」というコメントに、なんだか器の大きさを感じてしまいました(笑)。
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