レポート/直江慶子『《ラプソディー・イン・ブルー》その解釈をめぐる一考察』
- その解釈をめぐる一考察 -
直江慶子
─ 目次 ─
序 章
第 1 章 ジョージ・ガーシュインの生涯
第 2 章 《ラプソディー・イン・ブルー》が生まれた背景
第 3 章 楽曲解説と解釈
終 章
参考文献
作曲家が曲を創り出す時、必要かつ充分な条件は何だろうか。
作曲家自身の内部に渦巻く楽曲のコンセプトや要求、インスピレーション、精神の発露、鋭角的な音楽的感性、音楽的知識、作曲書式等など、枚挙にいとまがない。また、外的要素として、過去の音楽史や音楽理念の理解と、その作曲家自身が存在した時代の音楽の流れや、進もうとしている音楽の方向の的確な把握だと考える。更に、生み出される瞬間よりも重要な意味を持つのは、その作曲家の生まれる数年、あるいは数十年前に遡って、そこから彼がどんな音楽を享受してきたかということだと思う。そしてそれらを内包してその語法が斬新で秀逸であるよう構築された結果、作曲家が次の世代へのメッセージとしての作品を世に送り出すのだろう。
20世紀を目前に生を受けた、アメリカの作曲家ジョージ・ガーシュインが試みた「音」への挑戦は、まさに自由の国アメリカを象徴するエポック・メイキングな出来事だった。アメリカン・ドリームを地で行った彼が残した「音」は、彼がそれまでにどんな環境下でどんな音楽を受容した結果、あのような貴重な未来へのメッセージとなり得たのか。そこに光を当てることで見えてくるものは何か。
「ジャズ・エイジ」と呼ばれた1920年代のアメリカと、その少し前の時代に遡って音楽史をひもときながら、そこから生まれたガーシュインの「音」の本質が語っていた事は、一体どのような事だったのかを模索してみようと思う。
19世紀末から打ち寄せた機能和声の崩壊の波は、クラシック界にとって未曾有の出来事だった。ヨーロッパを飛び出したクラシック音楽が、新大陸で多くの音楽ジャンルと融合し、そしてそこで浮遊する「音」達は、互いに拮抗し、それぞれの境界線を越えて、ボーダーレスな「音」として成熟していった。それらが指し示した行き先はどこだったのか。そして、社会的、政治的、文化的「混沌」のなかから生まれた「音」達が、何を意味し、何を語り、どこに向かっていくのか。
《ラプソディー・イン・ブルー》の研究を通して、1924年に世に出たこの楽曲の持つ本質的意味を理解すると同時に、そこから語りかけてくるガーシュインのメッセージは何だったのかを読み解いてみたい。そしてそれらの事から、何を感じ、何を受け入れ、ガーシュインの「音」を借りて、演奏を通し自らの語り口で何を発信することができるのか見つけ出すことができれば幸いだ。加えて、クラシックの領域を歩んできた筆者が、クラシックの枠を飛び越えた、ジャズとクラシックがクロスオーバーした未知の領域に足を踏み入れることで、どんな展開があるのか期待したい。
研究にあたって、第1章では簡単なガーシュインの生涯を、第2章では《ラプソディー・イン・ブルー》の生み出された背景を、続く第3章では楽曲の解説と独自の解釈を、そして最後に終章でこの研究全体の総括をした。
ジョージ・ガーシュインは、1898年9月26日ニューヨークのブルックリンに生まれた。(注1) 本名はヤコブ(ジェイコブ)・ガーシュヴィン(ガーショヴィッツ)といい、両親はロシア系ユダヤ移民で、1890年8月アメリカに移民してきた。
彼の「音」との出会いは6歳の時だったという。当時住んでいたハーレムで、ゲームセンターから聞えてくるラグタイムの音楽に思わず立ち止まった。(注2)(注3)
クラシック音楽に触れたのは小学生の時で、ドヴォルザークの《ユモレスク》だった。(注4) 題名も作曲者も知らない彼だったが、その美しさに心を奪われたという。
歴史は粋な計らいをするものだ。ドヴォルザークは1892年、ニューヨークのナショナル音楽院に校長として招かれ、約3年間学生の指導と《新世界交響曲》(1893)や弦楽四重奏曲《アメリカ》(1893)の作曲に費やした経緯がある。そしてその間、弟子達にアメリカの黒人音楽に注目するよう呼びかけた。音楽に民族的素材の応用を推奨し、アメリカ黒人の旋律に偉大で高貴な楽派の確立に必要なすべてのものを見出していた。旋律の構想に、民謡をヒントにせよという真意の現われだったようだ。
ドヴォルザークの意図した「音」が、十数年後、当時単なる不良少年だったジョージの心を捉えたことは、歴史が連綿と受け継がれていく一つの縮図を見るようだ。
やがて12歳の時、彼の人生を特別な人生へと変えていく出来事が起こる。ガーシュイン家に中古のピアノがきたのだ。読書ばかりして家に閉じこもっている、2歳年上の兄のアイラのために購入されたものだった。(注5) そのピアノにのめりこんでいったのが、ジョージだった。
彼は数人の音楽教師を経て、15歳までにクラシックの和声や理論を学んだ。しかし、クラシック音楽の作曲家で、彼ほど音楽教育との出会いが遅かった作曲家は他にいないだろう。この遅れが、後に編曲の能力の不足を生み、1924年に作られた《ラプソディー・イン・ブルー》のオーケストラ編曲にも、結局グローフェの力を借りる結果となってしまった。しかしその反面、知識入力の遅れは、彼にジャズやラグタイムをクラシックに取り込む柔軟性や、豊かなインスピレーションや自由な発想を育む大事な要素となった訳だ。この頃の彼は、自身について、一種類の音楽に専念するだけでは絶対に満足しないということに気が付いていた。コンサート通いをする傍ら、ラグタイム、ジャズ、劇場音楽にも熱中し、黒人霊歌やゴスペルにも興味を持った。シューマンの《トロイメライ》にラグタイムのリズムを付けたらどうなるかを実験して、《ラグタイム・トロイメライ》という曲を作ったのもこの頃だ。また一方では、自分のルーツであるユダヤ民族の音楽にも心を動かされていた。
そして、商業高校に通っていたある日、彼は学校をやめてティン・パン・アレーの音楽出版社でソングプラガーとしてピアノを弾き、ポピュラー・ソングの作曲も始める。(注6)(注7)
レコードが一般家庭に普及するのは1925年頃からで、当時はテレビやラジオはまだなく、音楽はレコードで聴くものではなかったため、ピアノなどの楽器を用いて生で演奏された。そのため音楽産業とは楽譜販売業のことだった。従って、楽譜販売業者は売りたい曲の宣伝のために、その新曲を初見で弾きこなせる演奏者を常に必要としていた。そのニーズに応えることは、おのずとジョージのピアノの腕前を上げていく事にもなった。このように、ポピュラー音楽業界が軒を並べるティン・パン・アレーは、アメリカの大衆音楽を生み出したメッカだったといっても過言ではない。
リミック楽譜出版社の店頭デモ・ピアニストとしての約4年の間に、音楽業界やエンターティメント業界から注目されるようになったジョージだが、19歳の時この出版社を辞め、歌手の伴奏の傍ら、依頼された歌の作曲を始めるようになる。そして、1919年に書いた〈スワニー〉が最初のヒット曲となる。更に同年、《ラ・ラ・ルシール》というミュージカルを始めて全曲仕上げている。1920年から1924年までにレヴュー曲は45曲も作曲した。
それ以降の数年間、ショーやレヴューのためにたくさんの曲を書き、1924年に《ラプソディー・イン・ブルー》を発表した。
翌年書き上げた《協奏曲へ調》(1925)は、前年の力不足を払拭する完成度の高い協奏曲で、彼が短期間に和声法や管弦楽法の相当高い音楽的知識を身に付けたことを証明した。
また、パリ旅行の印象を音楽にした《パリのアメリカ人》(1928)も傑作の一つだ。
1920年代後半から1934年までに、兄のアイラが作詞して彼が全曲を書いたミュージカルやレヴューは25本に達し、その他にロンドンでの上演も含めると30本を越える。そしてそれらのなかで、政治を風刺した《われ歌うなんじの歌》(1931)でその台本と作詞に対し、ミュージカルとして初めてピューリッツァー演劇賞が贈られている。
その後、オペラの作曲に野心をいだいたジョージは、1935年に《ポーギーとベス》を完成させた。完成当初は賛否両論だった批評も、後に偉大な作品であるという認識に変わり、アメリカを代表する本格的オペラとして、自国は勿論世界各地で上演されている。
しかし、1937年春頃から頭痛を訴えるようになった彼は、7月9日夕方横になってから二度と目覚める事はなかった。昏睡状態に陥ったジョージは1937年7月11日日曜日、午前10時35分、脳腫瘍のため息を引き取った。享年38歳9ヶ月、若すぎる天才の死であった。
その小さな新聞記事が、ジョージの兄、アイラ・ガーシュインの眼に留まらなかったら、おそらくアメリカ音楽の歴史も随分変わっていたかもしれない。
「ニューヨーク・トリビューン」紙の紙面に、バンドリーダーのポール・ホワイトマンが《現代音楽の実験》と題するコンサートを開催し、アメリカ音楽とは何かを審査員団が判定する、という企画に関する記事があった。審査員団には、作曲家セルゲイ・ラフマニノフ、ヴァイオリニストのヤッシャ・ハイフェッツ、オペラ歌手のアルマ・グルックなど、音楽界のそうそうたる面々が顔を揃えていた。
更に記事によると、このコンサートのために選ばれた作曲家達がそれぞれ自信作を執筆中で、ガーシュインもまたジャズ風の協奏曲に取り組んでいると報じていた。寝耳に水のガーシュインは、すぐさまホワイトマンに電話をかけ、事の真相を確かめた。1924年1月4日の事である。
他の仕事もかかえ多忙極まりないジョージであったが、既に曲想は次から次と湧き上がり、ホワイトマンに電話をかけた3日後の1月7日には、ほぼ完成していたという。
しかし、オーケストレーションに不安があったため、はじめは二台のピアノ用に曲を書いた。それをもとに、ポール・ホワイトマン楽団でオーケストレーションとアレンジを担当していた作曲家ファーデ・グローフェ(1892~1972)が曲を仕上げた。本番の前、最後の5日間でリハーサルを重ねたが、ガーシュイン自身が弾くソロ・パートの楽譜は未完のまま当日を向かえたという。
コンサートの開催日はリンカーンの誕生日にちなんで、1924年2月12日であった。斬新な曲の出現を期待していた審査員及び聴衆だったが、期待はずれに終わろうとしていた終盤に演奏された《ラプソディー・イン・ブルー》が、一気にその場の空気を変えた。未完のソロ・パートは、結局自身の即興で乗り切ったという。
今でこそ、「クロスオーバー」という言葉の意味が柔軟に解釈されているが、その原点がそこにあったのだと思う。クラシックとラグタイムやジャズを合わせただけでなく、ブルースありクレツマー音楽あり、さらにそれらの源泉でもあるアフリカの風が、その新曲から吹いて来たのだろう。まさに、人種のるつぼニューヨークを象徴する音構成がそこに内在していたに違いない。そして、それら複雑な音楽要素を順位づけることなく、どこから聴いても楽しめる、どのフレーズからでも成立する、このような固定観念を取り払ったフレキシブルな音楽が、人々の心を捉えたと想像する。この曲の構造は、自由の国アメリカが求めていたアメリカン・スピリットそのものではなかったか。
曲名の命名に関して面白い逸話がある。
兄のアイラと共にメトロポリタン美術館を訪れた時、ホイスラーという画家の絵に、"ノクターン・イン・ブルー・アンド・グリーン"、"ハーモニー・イン・グレイ・アンド・グリーン"というものがあった。当初、《アメリカン・ラプソディー》と名付けようと考えていたガーシュインであったが、ここからヒントを得て《ラプソディー・イン・ブルー》に落ち着いた。
拡大解釈かもしれないが、筆者は、「ブルー」には無論ブルースの音楽形式のみならず、アメリカの持つメランコリーな歴史的背景や、ガーシュイン自身の出自に関するアイロニーが込められているように思う。
1920年代のアメリカのジャズ事情は、決して充実したものではなかった。《現代音楽の実験》が試みられたことからも、業界は暗中模索の状況だったのだろう。人種のるつぼと言われたアメリカ、とりわけニューヨークにおいても、人々が求めていた音楽は「混沌」の中にあったのかもしれない。
ティン・パン・アレーでの4年間で、ガーシュインは、人々が求めている音楽がどんなもので、何に飢えているのかを嗅ぎ取ったのだろう。そして、上流社会でも象牙の塔でもない、大衆の中に身をおくことで大衆音楽の極意を身に付けたのだと思う。そこから生まれた《ラプソディー・イン・ブルー》は、80年以上経つ現代でも、全く色褪せないハイセンスで求心力のある楽曲に仕上がっている。音の羅列ではなく変化に富んだ構成は、聴衆に演奏テクニックの難しさを殆ど感じさせない。それだけ「音楽」が先行しているわけで、クラシックな位置にありながら、コンテンポラリーでありポピュラーな楽曲といえるのではないだろうか。
以上のように、アメリカ音楽の様々な奏法に基づいたテクニックで書かれているこの曲は、ジャズと交響的クラシック音楽の融合と言われ、シンフォニック・ジャズというジャンルとしても貢献している。20世紀において、機能和声の結実、爛熟から崩壊への道を辿らざるを得なかったクラシック音楽のなかで、ガーシュインが新たな道筋をつけたことの意義は大変深い。(注1)
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《ラプソディー・イン・ブルー》
RHAPSODY IN BLUE
作 曲 | 1924年1月4日~2月12日 カデンツァは当日即興した。 | ||
初 演 | 1924年2月12日 ニューヨーク、エオリアン・ホールで作曲者自身のピアノによって行われた。 | ||
録 音 | 1925年7月 レコード録音。 | ||
1927年4月 2度目の録音(約9分)。 | |||
編 成 |
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演奏時間 | 約17分。 |
ジャズ・エイジといわれた1920年代に生まれた《ラプソディー・イン・ブルー》は、現代ではクラシック音楽の範疇にこそ含まれているが、当時は曖昧なカテゴリーに位置していたと考えられる。ブルースのテンション、ラグタイムのシンコペーションのリズム、ディキシーランド・ジャズの軽快感、そしてラテンの匂い、あるいはクリオール文化の薫りなど、限りなくクラシックとジャズのぎりぎりのラインに立っている。いわゆる、クロスオーバーされたフュージョン音楽といえるだろう。
具体的に譜例等を参照しながら楽曲を解説し、解釈してみたい。そして、直感により導かれたイメージを論理的かつ音楽的に分析し、その帰納的推理に一つの妥当性を見出し、演奏への糸口となることを願う。
全体はリスト風の狂詩曲で、哀愁漂うメロディーやシンコペーションのリズムが躍動感溢れる展開となっている。
まず、冒頭のむせび泣くようなクラリネットのトリルと17連符の上行グリッサンドは、この曲全体にどのようなインパクトを与えているのだろうか。(譜例1)
(譜例1) ニューヨークの摩天楼───と言っても1924年のニューヨークにはまだ現在のような超高層のビル群はなかっただろうが、なぜか筆者は、摩天楼の下から上空に向かって吹き上げる「一陣の風」をイメージする。と同時にタイムスリップして、この当時に資本力と技術力を備え、時代を牽引して行こうとする活気に満ち溢れたアメリカが彷彿と浮かび上がる。通りはクラクションや様々な機械音が飛び交い、人々が時代に翻弄されながらも漠然とした希望を持ち、見えない未来に向かって先を急ぐ様が見える。音楽史上においても、既に新境地への船出が始まっており、新時代の喧噪と共に様々な「音」が鳴っていたのだろう。
また、昼間の無機的な人為「音」とは裏腹に、民族的抑圧から逃れるために自然発生的に生まれたつぶやきにも似た即興「音」が、夜の巷を彩っていただろう。気だるい淀んだ空気の中から立ち昇るブルースのメロディーは、人々の孤独と憂鬱を表現しているように聴こえる。(譜例1)
遡る事20年、フランスの作曲家クロード・ドビュッシー(1862~1918)が、1904年に《喜びの島》というピアノ作品を書いている。その曲の冒頭が同様にトリルで始まる。次にグリッサンドはこないが、このカデンツ風の導入部は何ともミステリアスで、不安定感を煽るに充分な音構成になっていると思う。同作曲家の《牧神の午後への前奏曲》(1892~1894)のフルートの導入もまた、極めて不確かな調性感を伴っている。(譜例2) 既に、クラシック音楽における機能和声の崩壊は始まっていて、「その先」を模索する作曲家達のなかで、ドビュッシーが20世紀の音楽の扉を開いた一人だといえる。
また、モーリス・ラベル(1875~1937)やイゴール・ストラヴィンスキー(1882~1971)におよんでは面識もあり、ガーシュインが彼らの音楽から何らかの影響を受けた事は間違いない。逆に、ラベルやストラヴィンスキーもジャズ風な曲を書いている。特に、1913年にパリで初演されたストラヴィンスキーの《春の祭典》は、ヨーロッパ音楽界に大きな衝撃を与えた。彼は、ロシアの土俗的な民話や信仰の世界を、激しいリズムや不協和音で表現し、バーバリズムの創始者といわれた。(注1) 他にも、洋の東西を問わず、多くの作曲家達が「出口」を探していた時代であった。
これらの時代を先導するトナリティに、ガーシュインが鈍感だったとは思えない。仮にそうだとしたら、筆者は、彼がこれらのエッセンスを最大限に受け入れたに違いないと推察する。
更に筆者には、このグリッサンドからもう一つ聴こえてくる「音」がある。それは、新大陸から大西洋を隔てて東、遠い未開の地「アフリカの音」である。
管楽器を使って動物の鳴き声を出すオノマトピア奏法というのがあるが、導入のクラリネットがまさにこれに相当するのではないだろうか。19世紀後半のマーチ・バンドに源を発するようだが、当時、ラグタイムやジャズ・バンドのクラリネットやトロンボーン奏者は、馬や牛、鶏などの動物の鳴き声や人間の笑い声を真似したオノマトピア奏法を身に付けていたと言う。
このような事実に鑑みて、少し間延びしたようなクラリネットのグリッサンドを、アフリカのサバンナ地帯からの野生動物の声と捉えたとしても、不都合はないのではないかと思う。まして、この曲のコンセプトにラグタイムやジャズという音楽要素を見出せる事においても、それらが多大に「アフリカの音」の影響を受けているという、紛れもない事実が存在するのであるから、おおよそ的外れな想像ではないと自負する。
更に興味深い事は、このクラリネットのソロの重要な役割のなかに、クレツマーと呼ばれる音楽の片鱗が窺える事だ。ポーランドやハンガリー、ルーマニアなど東欧諸国から移民したユダヤ人は、宗教音楽や民族音楽を持ち込んだ。クレツマーとはそれらの音楽の総称で、バイオリンやクラリネットを主要な楽器として用いている。そしてそれらの楽器は、馬やロバなど家畜動物の鳴き声を模倣し、ユーモラスな側面を演出するのに一役買っている。
このように、前述のオノマトピア奏法がクレツマー音楽とリンクして、ガーシュインの音楽におけるユダヤ音楽的特性は顕著だ。
以上の見地から、冒頭のクラリネットのソロの持つ重要な役割が見えると同時に、この曲のそこかしこに「アフリカの風」が舞っているのを感知してしまう。そしてその「風」の発生には、東欧やその地域全体に影響を及ぼしたヨーロッパ全土、果ては彼らが移住したアメリカ南部のアフリカとヨーロッパが出会う土地が、大きく起因している。
このことは、《ラプソディー・イン・ブルー》がアメリカ生まれの作曲家によって生み出された曲ではあるが、実は大変肥沃な土壌から芽を出した、極めて豊潤な果実だった事を物語っていると思うのだ。
クラリネットソロで始まった気だるいB-durの「コール」は、ホルンとトロンボーンが「レスポンス」する形になり、次に動きのあるアフタービートのテーマが始まると、サックスも加わり音に拡がりを見せる。再び現れるクラリネットの上行音では、既にAs-durへの転調が図られている。
しかし、これらの調は、ブルースに見られるメジャー・スケールの、第3音と第7音を半音下げたブルーノートの使用により、クラシックで記譜されるような明確な性格付けをすることはできない。調性の曖昧さと不可思議感、及びつぶやくような音の配列はそのような理由によるものだろう。
オーケストラを受けて、ブルースの「コール」で登場するピアノソロは、重音となり迫力を増す。(譜例3) そして、ほぼ5ページにわたるピアノソロのパフォーマンスが繰り広げられる。
特記すべき点は、この曲独特のリズムについてである。
1拍に4つのかたまりとして書かれた16分音符を、1小節に16個配置した時、それらを拍頭から3つずつの3連符のように奏し、更にそれぞれの頭にアクセントを付けるという特殊な奏法を要求される。(譜例4) このリズムは、この曲の随所に顔を出す。その最初が、ピアノソロが始まって比較的早い段階に見られる。(譜例5)
これらのリズムは、一説にはガーシュインが好んでバッハを弾いていたことに由来するという。なぜなら、ヨハン・セバスチャン・バッハの《半音階的幻想曲》(1723)のある部分のアーティキュレーションに一致しているからだ。(譜例6) もっとも、バッハの場合は32分音符になっているうえに、当然アクセントも付けない。
(譜例5)
(譜例6)
その後、和音の半音階下行を経て、冒頭のクラリネットのグリッサンド同様の上行スケールで再び「風」が舞う。だが、A-durとなったこのピアノのスケールから受ける印象は、突風というよりむしろもう少し生暖かい熱帯の「風」だ。調性と楽器の違いが、 こんなにも印象を変えてしまう。続くトゥッティになると、バス・クラリネットやバンジョーがユーモラスな音を醸し出している。
前記の特徴的リズムや和音の連打がソロ・パートを盛り上げ、ジャズのアドリブ風なカデンツァが多用され、一層華やかな演出をしている。そして、その合間を縫って時折現れるブルーな雰囲気が、またたまらない。
本来、自由な形式で書かれている「ラプソディー」であるため、いたるところに聴く者の予想を超えたメロディーやリズムやハーモニーが飛び出す。それもまたこの曲の魅力であり、一度耳にしたら忘れられない求心力を持つのだろう。
譜面上の 9 以降、4拍子のなかの8個の8分音符を、3拍目まで2つの3連符として奏し、4拍目を2倍速の3連符として弾く。(注2)(譜例7) 前述の独特のリズム形態である。後半、 33 からの部分にも同様に登場する。後述するが、この一連のリズム形態のフレーズが、《ラプソディー・イン・ブルー》を限りなく斬新な曲に仕上げているのではないかと感じてしまう。
単純にリズムだけを抽出すると、根底に打楽器の音が──それもタムタムやボンゴのような──鳴っているように聴こえてくる。筆者には、何故かそれが妙にドライヴ感を伴って迫ってくる。まるで、アフリカの大地を低空飛行で空中遊泳しているようだ。そして、旋回するなか眼下の景色が、やがてニューヨークの摩天楼へと変化していくという壮大なパノラマが広がる。
(譜例7)11 からの分散和音では、左手で奏されるB-durのハーモニーと、右手で奏されるC-durのアルペジオ、その2小節後も同様にGis-durの左手とA-durの右手という、それぞれ2つの調性を同時に使用していると考えられる。いわゆる多調が試みられているのだろう。(譜例8) 同様に 17 から 18 にかけてもFis-durとG-durが拮抗している。
(譜例8)多調性に関しては、ドビュッシーの《映像》(1905,1907)や《前奏曲集》(1910,1913)などにも見られ、調性の軸に複雑な変化をもたらす効果がある。また、ストラヴィンスキーの《ペトルシュカ》(1911)や、プロコフィエフの《サルカズム Op.17》(1912~1914)にも確認できるものの、彼らが風刺的意味合いで使用したのに対し、ガーシュインの使用からはそのような意図は汲み取れない。むしろ、純粋に曲に拡がりを持たせたかったのではないかと思われる。
12 からは、曲頭のテーマがオーケストラにより先導され、ピアノはその裏に入り、伴奏する形で進んでいく。
14 から 19 の前までは、緩急を巧みに操りながら一気に前半部のクライマックスを創り上げていく。誠に、聴衆をそして弾き手を飽きさせることなく作曲されている。
独創的なガーシュインの魂の発露が、縦横無尽に繰り広げられていく。難解に語られる事なく、極めてストレートに音に反映されていると感じられる。
中間部の 19 「Meno mosso e poco scherzando」からのピアノソロの左手伴奏部分は、まるで2拍子系のラグタイムのなかのバンジョーだ。少しゆっくりめに演奏するこの部分は、やがてその独特のリズムであるシンコペーションを刻む。(譜例9) 律動の枠内でリズムを自由に揺らすことにより、心も身体も解放され、自然にスイング感覚に包まれる。さながら陽気な昼下がりといった雰囲気だ。ブルースとはまるで対極的位置にあるリズムのようだが、実は、両者は黒人音楽として、そこに内包される意味は極めて同義だということを忘れるわけにはいかない。そのことを踏まえると、陽気な昼下がりにも影ができることを、背景にインプットしながら演奏することを心掛けたい。それほど、アメリカの黒人音楽に潜む憂いは深い。
また、この部分を少しゆっくりめに演奏することで、曲全体のアップ・テンポ感と対比させるねらいもあったと考えられる。ゆったりしたリズムは、ユダヤ音楽や黒人音楽にそのエッセンスがあり、それはとりもなおさずブルースやジャズに共通することだ。
さて、 22 「Piu mosso」からの装飾音符の連続は、フランツ・リスト(1811~1886)の影響だと指摘する人物がいる。(注3) 彼の曲に《二つの演奏会用練習曲、s.145》(1862~63)という作品があり、そのなかの第2番《小人の踊り》がそれに相当するというのだ。(譜例10) 大変興味深い指摘である。確かに、最初の装飾音符の上行は類似している。ヴィルトゥオーソの名前をほしいいままにした偉大な作曲家であり、ピアニストであったリストに、ガーシュインが畏敬の念をいだいたことは想像に難くない。
(譜例10)余談だが、1930年前後、ジャズ界に超人的テクニックを持つ盲目のピアニストがいた。彼の名をアート・テイタムといった。1928年のニューヨーク・デビュー以来、天才と呼ばれたピアニスト、ウラディミール・ホロヴィッツを驚嘆させた人物である。人種差別のない時代だったら、彼がホロヴィッツと並ぶリストやショパン弾きになっていただろうと目された。《ユーモレスク》という彼の代表作のなかでの演奏は、最高度のテクニックと言われている。(注4) その彼がハーレムのジャズ・クラブに出演すると、決まってピアノの脇の席に陣取って、テイタムの指の動きに目を輝かせていたのが、ガーシュインだったいう。既に彼は三十も半ば、《ラプソディー・イン・ブルー》の成功で押しも押されもしない地位にまで登りつめていた。片や、テイタムは二十歳を過ぎたばかりの若造だった。
このようなエピソードからも、ガーシュインという人物がいかに向上心に満ち、上昇志向の強いキャラクターであったかが窺える。だから、前述のリストを尊敬し、その「わざ」を自分のものとしてアレンジして、世に送りだしたとしても何ら不思議はない。
再び楽譜に戻ろう。
譜面上 24 からはジャズのアド・リブに相当する部分で、poco accelerandoの表記を手がかりに、やや自由にテンポを動かしてもよいと考える。そして、その一連のフレーズが落ち着くさきから後は、交差する左手が寧ろシリアスに奏し、低音で奏でる右手メロディーがイニシアチブを取る。ここのメロディー・ラインは、ともするとスイングしたくなるのは筆者だけだろうか。ピアニストによっては、図らずも──ピアニストたるもの、そのような衝動による演奏はいかがなものか──スイングさせている録音も聴かれる。(注5)
ただ、ジャズ史上でスイングとして形容されるリズムが明確に使われ出すには、ガーシュインがこの曲を作曲後、まだ10年は待たねばならなかった。だとしたらある意味、私達が演奏者として、作曲家に敬意を払うのを当然の義務と考えるならば、時代を踏み越えた解釈をどこまで容認すべきか、いささか疑問が残る。
だがしかし、ユダヤ人の血が流れる彼が、黒人音楽を受容し、白人の地でそれらを融合させた経緯を見れば、時代の先取りを咎めただろうか。筆者は、彼なら多分許しただろうと思う。彼のルーツは大西洋を越えて東にあれど、彼の心はグローバルだったはずだ。なぜなら、ジャズを受け入れたということは、とりもなおさず、ラテン・アメリカ及びアフリカ音楽の受容ということを意味する。更には、それらの音楽の根底にはヨーロッパで起こった西洋音楽がある。言ってみれば、あらゆる「音」がクロスしている。
柔軟な精神の持ち主でなければ、過渡期の混乱のなかで、時代を先取りする「音」をキャッチしえなかったと思うのだ。だとすれば、彼が、演奏者の音楽的センスと充分な見識に立った解釈の下でなされる演奏を、非とするとは考え難い。
あくまで、作曲者の意図をふまえたうえで、かつ譜面として後世に残された意義を讃えつつ、ただし時代の推移に逆らうことなく、ソウルフルな演奏ができれば望外の幸せである。
26 からは、通常の手のポジションになり、右手に重音のトレモロを挿入しながら一気に曲のクライマックスを創り上げる。やがてbrillanteな音域に達すると3オクターブの下行の後、曲は静けさを取り戻し、クロマティックな「コール」の反行が問いかけるように登りつめ、壮大な流れのオーケストラへと受け継いでいく。
ロシア音楽、さながらチャイコフスキー(1840~1893)やラフマニノフ(1873~1943)を連想させるような 28 からは、広大な大地から湧き上がるロマンティシズムで溢れている。しかも壮大であっても憂鬱な大地のイメージではなく、雄大で新鮮な新大陸だ。ガーシュインの中にロシア人の血が流れていることに思いを馳せれば、それも当然かもしれない。また、チャイコフスキーを熱烈に崇拝していたラフマニノフが、やがてアメリカを永住の地とすることを加味すれば、そこに接点が生まれても不思議はない。
《ラプソディー・イン・ブルー》の初演から経ること10年の1934年に、ラフマニノフが《パガニーニの主題による狂詩曲 0p.43》を作曲した。偶然、曲名もそれぞれ「Rhapsody」だ。その18番目は、大変華麗で甘美なバリエーションで有名であるが、そこに現われる楽想に、筆者は同質のインスピレーションを感じる。(譜例11)
各々、偉才を発揮した人物であることは周知の事実だが、ガーシュインの手にかかると、これほどまでに魅力的な旋律が生み出されることに、あらためて心を動かされる。
まるで、新時代の幕開けを印象付けるかのように、夢と希望に満ちた旋律が心に訴えかけてくる。(譜例12)輝かしい未来に向かって歩みだす若者の瑞々しさを象徴するかのようだ。この部分から感じられる若々しさと、のびのびした開放感こそ、アメリカ的パイオニア・スピリットの表出だろう。
このように、ガーシュインの音楽には、普遍的な"若さ"を象徴する何かがあるように感じられる。それは、メロディーやリズムやハーモニーに投影されている斬新さだけでは説明できない、もっと直接的な何かが寄与していると感じられる。筆者はその答えを、「フィーリング」という曖昧ではあるが、極めて個人的感覚の中に求めたい。
con moto,espressivoの表記部分から 33 の手前までは、 28 以降の結論部分のような意味合いがあり、弱音ではあるが切々と語りかけるように胸に迫るものがある。恣意的な解釈かもしれないが、もしかしたらこの曲のどのメロディー・ラインよりも、このフレーズにガーシュインは深い思い入れがあったのではないだろうかと感じる。なぜなら、ここにバランスの取れた相対的な美を意識できるからだ。gis音に始まる純粋な調性音のみで構成されたソプラノのメロディーと、その裏を支えるE-durのハーモニー、そして左手のテンションを含んだ分散和音がフュージョン(融合)されている。まさに、クラシックとジャズがクロスオーバーされ、余計なものが削ぎ落とされた「相対的美意識」が出現したと筆者は考える。だから、ストレートに人の心に響き、「音」の芸術として聴衆を魅了するのだと思う。それを直観的に心得ていた彼は、緻密に計算されたバランスとパッションによって、ガーシュインの「音」として世に送り出したのだろう。
表情豊かにE-durのハーモニーが重音の音階で結論を導くと、まるで夢から覚めるように全音音階で下行する。これはドビュッシーがよく用いた音階で、調性感がなく不思議な響きを伴う。次からのミステリアスなフレーズへ導く、みごとなまでのハーモニー展開だ。
続くLeggieroの 33 からは左手と右手をある一定の法則で連打していく。この曲全体のなかでもっとも技巧を要する箇所だ。均質な音の並びのなかにも、リズムにより緊迫感漂うAgitato e misteriosoを表現しなければならない。それを補完すべく、この部分のリズムは二重構造になっていて、規則的拍動のなかに強烈に浮かび上がる左手が受け持つルンバのリズムは、明らかにガーシュインのなかにラテン経由の音楽が息づいているということを証明している。
ルンバはキューバの代表的リズムだが、現代では社交ダンスのイメージが強い。そのキューバは西インド諸島の一角で、まさに16世紀初頭にアフリカの黒人が、カリブ海諸島経由でアメリカ南部に連れて来られた通り道に位置していた。ジャズがアメリカ南部のニューオリンズにその源を発することを視野に入れると、そこから北上した音楽が数世紀の時を経て、その国を代表する20世紀の作曲家を虜にした訳だ。
33 部分のリズムがルンバのリズムに類似していると考える理由を、もう少し詳しく述べてみたい。
左手が受け持つcis音は1小節のなかで3回弾かれるのだが、以下そのリズムだけを取り出すと、ヘミオラのリズムが、ラテン・アメリカにおけるアフリカ黒人の影響を受けて生み出されたトレシージョ(tresillo)のリズムと合致する。(譜例13)(図1)厳密には、(譜例13)の譜面とトレシージョのリズムには隔たりがあるのは否めないが、響きのなかにラテンの匂いを嗅ぎ分けることは難しくない。スペインの音楽に端を発するこのリズムは、ラテン・アメリカにおけるスペインの影響力を如実に物語っている。キューバやドミニカなどがスペイン語圏なのも納得のいくことである。
更にラテン系の音楽を考える時、そこにアフリカ起源の民族音楽の介在を認めなければならない。そして、そのアフリカの黒人とスペインやフランス系の白人との混血として、ムラートやクリオールの存在もこの地域の音楽に多大な影響を及ぼしていると言える。(注6)
(図1)
これら、リズムを際立たせた音楽のリズム・キープは不可欠で、その支えとなるのがドラムやパーカッションだ。そして、そのドラム的役目を果たしていたのが、アフリカに起源を持つコンガやボンゴ(ラテン系キューバ)やスルド(ラテン系ブラジル)などの膜鳴楽器であった。
以上のことから、 33 以降の音楽の高揚のなかに、様々な世界観を共有しながらその内側にある情感を演奏に反映できればと思う。
敢えて付け加えるならば、ブラジル文化の特徴にサウダージ(saudade)という感覚があるが、大らかさのなかにあるあの一種独特の哀感こそ、この一連のフレーズに流れている歴史的背景かもしれない。
また、ルンバに関しては、1930年に《南京豆売り》というソン風にアレンジされたルンバが大ヒットし、アメリカからヨーロッパそして世界的にルンバ・ブームを巻き起こした。(注7)ちなみに、ガーシュインは1932年に《キューバ序曲》なるものを作曲している。このような音楽情勢からも、彼がラテンのリズムをいち早くキャッチして、それを先取りしたことは容易に考えられる。
規則的なリズムは徐々にスピードを増し、ホルンやトロンボーンなど金管楽器を主体に、ブラス・バンド風な音で曲が展開し、開放感溢れる11度の和音で緊張の頂点に達する。
間断なく 37 に入り、左手が右手を飛び越えながら奏されるブルースのメロディーは、総動員されたオーケストラと共にコーダへ向かってピークを築いていく。
Grandiosoなコーダは、決して遅すぎることなく、バイタリティーに満ち溢れ、絢爛たる音構成により、「アメリカ音楽」ここにありとでも豪語するかのように、勝利宣言で幕を閉じる。(譜例14)
(譜例14)
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ジョージ・ガーシュインの生まれる数十年前、19世紀後半のアメリカの音楽事情は、ヨーロッパの模倣や、アフリカやラテン・アメリカからの音楽の吸収に大いに依存していた。そのなかで、アメリカ生まれの音楽家として名を残す事ができたのは、さしずめルイ・モロー・ゴットシャルク(1829~1869)とスティーヴン・フォスター(1826~1864)であろう。 ゴットシャルクは、生誕の地がニューオーリンズ(ジャズ発祥の地)であったが、ユダヤ系の血を引き、生粋のアメリカ人ではなかった。しかし、彼はヨーロッパに若くして留学するなどして、アメリカが生んだ最初の「国際的音楽家」だった。一方、フォスターもペンシルヴァニア生まれだったが、生涯アメリカから一歩も外へ出る事はなかった。彼ら二人のアメリカ音楽への貢献は顕著だ。
ガーシュインが生まれた19世紀末、おりしもアメリカ中は、黒人ラグタイム・ピアニストのスコット・ジョプリン(1868~1917)の《メープル・リーフ・ラグ》で沸きあがっていた。(注1) ラグタイムの王様といわれた彼は、黒人としてアメリカ音楽シーンに現われた最初の人物だった。シンコペーションのリズムを基調に黒人音楽と結びついたラグタイムは、20世紀初め、ニューヨークやシカゴなどアメリカ北部の大都市を中心に発展したダンス音楽だ。
19世紀末から20世紀初めにかけて、ニューヨークにおけるヨーロッパからの移民は1000万人近くいたという。それ故、文化面における多様性は、当時の通信事情や生活状況から鑑みても、現在のニューヨークよりもはるかに新鮮で変化に富んでいたに違いない。
例えば、言葉にしても英語は勿論、ロシア語、ポーランド語、ハンガリー語、イタリア語、スペイン語、フランス語、ドイツ語、イーディッシュ語、中国語などと、世界の主要な言語を聞くことができたという。(注2)
宗教にしてもしかりだ。カソリックからプロテスタント各派、ロシア正教、ギリシャ正教、ユダヤ教、仏教などが混在し、それらがお互いに侵食することなくその価値を認め、多様な文化の基盤となり得た。
当然、音楽においてもその展開は同様だったはずだ。アメリカ先住民の音楽やヨーロッパやロシアの民族音楽、そして黒人がもたらしたアフリカやラテン・アメリカのリズム、更にそれらが出合って生まれたブルースやラグタイムやジャズの出現があった。
15歳でティン・パン・アレーのピアニストとして、そのテクニックの向上に余念がなかったガーシュインは、とりわけラグタイムに傾倒し、その洗礼を受けることになる。彼は、ラグのリズムのなかに、音楽家としての自身の進むべき方向を嗅ぎ取ったのではあるまいか。そしてその語り口のなかに、ストレートなまでに訴えかけてくる鮮烈なアッピール性を見出したのかもしれない。
20世紀に入り、クラシック界の音楽事情は益々複雑になり、本来音楽が有する旋律の美しさやハーモニーの透明感は失われつつあった。そのような事に、ガーシュインは何か漠然とした違和感を持っていたのかもしれない。だから、シェーンベルク(1874~1951)やストラヴィンスキー(1882~1971)などの作曲家達が指し示した、無調や十二音音楽などの流れに棹をさし、自らのなかに渦巻くフラストレーションを解消すべく大いなる抵抗の表れとして、《ラプソディー・イン・ブルー》を生み出したのではなかっただろうか。それも、ラグタイムやブルースやジャズという極めて理解し易い音楽との「融合」をヒントにしてである。
彼には、聴衆が求めている音楽を予見する作曲家としての感と審美眼、更に潤沢な音楽的インスピレーション、そして何よりも柔軟な精神があったのだと思う。その柔軟な精神は、あらゆるジャンルの音楽が日常的に導入されていた土地に育った、彼の最大の武器だったように思える。そしてそれを可能にした要因は、彼が純粋なアメリカンではなかったことに由縁しているような気がする。つまり、彼のルーツがヨーロッパにあったことだ。「ユダヤ人」である彼が「黒人」音楽とクラシック音楽を「融合」させ、「白人」の地でそれを成就させた事に、計り知れない深い意義があると思うのだ。
民族の枠を飛び越え、その土地を飛び出し、実在の「音」に自己を投影させる。まさに、音楽における、その実体の持つあらゆるカテゴリーの「融合」である。
ソウル・ミュージックの本質に人種、時代の制約がないと同様、ガーシュインの「音」にも、全ての垣根を取り払った寛容で柔軟な普遍的精神が宿っていると思う。そして、かつてシューベルトがそうだったように、ガーシュインの生来の音楽スタイルが「歌」にあったのだと思う。
ジャズという領域がリズムに重点がおかれるならば、クラシックはさしずめメロディーやハーモニーの美意識の洗練だろう。《ラプソディー・イン・ブルー》がジャズとクラシックの「融合」ならば、まさしくリズムとメロディーとハーモニーのクロスオーバーということになり、やや短絡的結論のきらいはあるが、音楽の定義そのものなのではないか。
あえて付け加えれば、クラシックがハイ・ソサエティーの人々の音楽であったならば、ジャズは彼らをも野に下らせる威力を持っていたわけで、ここにも「融合」の一端が見られる。
半面、逆の見方をすれば《ラプソディー・イン・ブルー》がクラシックでもなければジャズでもない、それらがクロスオーバーした、ある意味アイデンティティ不在の音楽と位置付けることもできるだろう。であるからなおの事、演奏におけるその規制の解除が可能なのかもしれない。
《ラプソディー・イン・ブルー》という一つの具体的楽曲を通して、ガーシュインの精神に少しでも踏み込み、その何たるかを垣間見ることができたと考えるのは安直な思い上がりだろうか。だがしかし、彼の「混沌」とした抽象性が、限りなく筆者を自由にしたと思えるし、形式に拘らない自由な音楽が、いかに豊富なイマジネーションを呼び覚ますかを再認識できた。更に、「混沌」から生まれた「音」は、クラシックの領域にとどまらずジャズの領域を超えてもっとグローバルな領域へと飛翔していこうとしていることも想像できる。その領域が柔軟で広いことも瞭然であろう。
長い間、「混沌」としたなかで自分自身の音楽がどうあるべきかを模索してきたが、一つには柔軟な音楽的自由のなかにその答えがあることを知った。その答えは、音楽のジャンルや時代、民族や文化を超えて、壮大なスケールとともに求めなければならないということも理解した。これらの事をふまえつつ、ちっぽけなセンチメンタリズムに陥ることなく、演奏への指針となればこの研究の成果は多大だ。そして、偉大な天才達が残した貴重な遺産を、謙虚な姿勢で演奏に反映できれば望外の幸せである。と同時に、この研究に選んだ《ラプソディー・イン・ブルー》が、筆者自身のレパートリーとして、自己のモニュメント的楽曲になったことを心ひそかに喜びたい。
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ロサンゼルス交響楽団 レナード・バーンスタイン (指揮) レナード・バーンスタイン(ピアノ)
クリーヴランド管弦楽団 ロリン・マゼール(指揮)
イヴァン・デイヴィス(ピアノ)
コロンビア交響楽団 レナード・バーンスタイン(指揮)
レナード・バーンスタイン(ピアノ)
ポール・ホワイトマン・オーケストラ ポール・ホワイトマン(指揮)
ジョージ・ガーシュイン(ピアノ)
ピッツバーグ交響楽団 アンドレ・プレヴィン(指揮)
アンドレ・プレヴィン(ピアノ)
ロンドン交響楽団 アンドレ・プレヴィン(指揮)
アンドレ・プレヴィン(ピアノ)
ロンドン交響楽団 イシュトヴァン・ケルテス(指揮)
ジュリアス・カッチェン(ピアノ)
ロイヤルフィルハーモニーオーケストラ
ヴラディミル・アシュケナージ(指揮)
ペーテル・ヤブロンスキー(ピアノ)
ベルリン交響楽団 クルト・アードラー(指揮)
オイゲン・リスト(ピアノ)
山下洋輔ニューヨーク・トリオ 山下洋輔(ピアノ)
セシル・マクビー(ベース)
フェローン・アクラフ(ドラムス)
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