論文・レポート

レポート/元吉ひろみ『長寿社会に求められている音楽教育』

2002/04/01
長寿社会に求められている音楽教育 高齢期に適したピアノ指導

元吉ひろみ

<目次>

はじめに
第1章 エイジングの視点から考える指導要素
1...筋肉・末梢神経
2...感覚器
3...脳・神経系
4...精神・心理
第2章 メリット・アドバンテージ
第3章 指導要素と効果
第4章 事例から
1...実践にあたって
2...実践方法
3...実践結果
第5章 高齢期の音楽教育
第6章 まとめ


はじめに

超高齢化社会の到来。2007年には、5人に1人が高齢者。2050年には3人に1人。と言われ21世紀の幕は開けた。平均寿命も世界のトップ。しかし、単に長く生き延びていることより、問題はその生き方の質、精神的にいかに豊かであるかということこそ重要なのではないだろうか。
 もしピアノで精神的に豊かな人生になるなら、総人口の3分の1も占める高齢者の人生の質が高まるなら、音楽指導者としては嬉しい限りであり、時代の要請に応えたいものである。
 高齢期の人達に少しでも良い指導が出来るように、色々な指導法の勉強をしたいと思う。しかし、「幼児期の音楽教育」を学ぶ学科を設置する音楽大学も多く、幼児期の特性を考慮した素晴らしいメソードが何種も開発されているのに比べ、高齢期の特性を生かしたピアノ教育の研究はまだあまりなされていないのが現状である。そこで私は高齢期に適した音楽教育はどのようなものか、またどのようなピアノ指導が求められているかを、多角的な視点から考えてみたいと思う。
 「一体、何が出来て何が出来ないのか?」「高齢期でピアノを弾くことの限界と可能性」を教師はしっかりと把握した上で指導するべきと思い、第1章では生物学的エイジングとピアノ学習に必要な要素を照らし合わせ検討したい。第2章・第3章ではこの年齢ならではの利点、この年齢でしか得ることの出来ない効能などのプラス面に目を向ける。第4章で3つの事例をとりあげ、第5章で高齢期の音楽教育について考察する。
 そしてこれからの長寿社会で、我々ピアノ指導者が一人でも多くの方に貢献できる日、一人でも多くの方にピアノの喜びを感じて頂く援助が出来る日への1ステップとなれば幸いである。
 なお、高齢者と言っても、若い頃から継続してきて、80歳代・90歳代になってもなお緻密な演奏をする素晴らしい例も数多いが、本研究では、高齢期になって初めて鍵盤演奏を習い始めるまったくの「初心者」に対象を限定する。

《高齢期の定義》
 生物学的・心理学的・社会学的な能力にかかわる個人の機能的年齢に、理論的には対応しているが、通常、暦年齢で60~65歳の期間に、ほとんどの人が、生物学的・心理学的エイジングの兆候を示し始めるため、高齢期の始まり(境界年齢)に60歳か65歳を選ぶ学者が多い。
 ピアノ学習を始める事と、退職により自分の時間が出来た事との関連を意識し、60歳退職の職場が多いことから、本稿では60歳以上を高齢期と定義する。

《エイジング(aging, ageing)の定義》 
 生命体は、年齢(時間軸)とともに生理的・機能的・形態学的な変化を示すが、生物完成体にある程度達した後にくる比較的規則的な変化の過程を、エイジングと定義する。加齢・老化・老齢化・高齢化などとも言われる。衰退を連想するネガティブな意味だけでなく、ワインの熟成など向上状態への移行もエイジングと言い、むしろ芳醇な味わいなどの好ましい状態への移行を意味するように、ポジティブな意味を人間に当てはめることも可能であろう。


第1章 エイジングの視点から考える指導要素

1.筋肉・末梢神経

手の筋肉

筋力は成人期以降、加齢により低下する。
Vandervoort (1986)は
  60歳代・70歳代・・・・・若年成人の20~40%低下
  80歳以上・・・・・・・・若年成人の50%以上も低下 と報告している。
高齢者の筋力低下は、筋肉量の減少が重要な因子である。25歳以降、筋繊維数も減少しているし、各々の筋繊維も萎縮している。


図表1-1-1 加齢による骨格筋の減少
43人の健康な男子15歳~83歳 (M.Sjostrom,1988改変)

手の筋力が、年齢と曲線的関係となり、握力とピンチ力は、20歳で最も強くそれ以降は徐々に低下するとの報告がある。


図表1-1-2 握力(日丸ら、1991)

⇒「手のひらと指とを結ぶ筋肉が、物を握ったりつかんだりした時に緊張する。この指の筋肉(図A)と第3指関節を活発に使って打鍵することで、しっかりとした響きの、良い音が鳴らせる。」と永冨(14)は述べているが、この筋力は加齢とともに徐々に低下している。


指を動かす速さ

ヒトの骨格筋は、遅筋に相当するTypeIと速筋に相当するTypeIIに分けられるが、加齢による影響の受け方が違う。
   ・TypeI(遅筋)・・・年齢の影響をあまり受けない。
     ・TypeII(速筋)・・・60歳以上になると細く萎縮してしまうものが多い。

図表1-1-3 ヒト骨格筋のタイプ別繊維数と直径 (Tomonaga 1977)

⇒指を速く動かす筋肉をTypeII(速筋)、指の動きをゆっくりとコントロールしたり保持する筋肉をTypeI(遅筋)と考えるならば、次のようなことが言える。
・高齢者はTypeII(速筋)の直径も細くなり数も減少しているため、速く指を動かすことは若年者より難しい。 ・しかし、テンポがゆっくりの曲に関しては、高齢者も若年者になんら生理的ハンディを感じることなく自分で思うような魅力ある演奏をすることが出来る。

指の巧緻性

成人期以降は、加齢により、手指の巧緻性は低下する。たとえば、小さな対象物の操作に要する時間は、70歳では若年者より25~40%増加する。多くの高齢者は、細かな作業時、過大な力を入れている。
 巧緻性の低下の原因は、神経再支配により、神経支配比の大きな運動単位が相対的に増加すること、弱収縮時に運動単位の放電頻度が不安定になることなどが考えられている。
 また、加齢により筋収縮と筋弛緩にかかる時間が延長するとの報告も多い。

⇒順番に隣の指を動かせばよい順次進行のような単純な音の動きは比較的容易に弾けるが、音が3度4度と離れていたり、上昇と下降が入り混じったような複雑な動きをすることは、若年者より困難度が高く、打鍵に時間を要したり(もたついたり)、より多くの練習が必要。

⇒また、高齢者がそのような難しい指の動きをする場合、過大な力が入りやすい。


指を鍛える効果

筋力の低下は、活動能力を低下させる。活動能力の低下は廃用性の筋萎縮の原因となる。それは悪循環で筋力の低下につながる。ということもあり、高齢者の筋力トレーニングの効果の研究は多い。それらの研究のすべてで、程度の差こそあれ、ベースラインに比べて優位に、筋力は増加している。
 特に筋力が弱いとされる女性でさえ下表のごとくトレーニングの効果が認められる。

図表1-1-4 高齢女性における筋力トレーニングの効果
(Forester Burns SB: J Women Aging 1999)

15秒間に何回打鍵できるかを測った結果、個人差はあるものの確実に進歩することが解った。その変化はどの年齢層においても認められた。

図表1-1-5 高齢者の打鍵回数の変化(左4-5指)
15秒間にトリル出来た回数の平均値(n=15)(元吉:2002)

⇒指を鍛えれば(適度な時間、適度な内容の練習をすれば)、指の筋力も増加して、習い始めた頃よりもっと速くもっと巧みに動くようになる。
⇒適度に指を動かして練習することで、指の筋力は増加する。そのことは打鍵能力を向上させる。そして廃用性の筋萎縮の予防にもなる。


2.感覚器

聴覚

加齢より聞こえが悪くなる。日常生活に不自由をきたすほど聴力低下している人の割合は、60歳以上で約3人に1人、80歳代で約半数にもなる。
 難聴においてしばしばある誤解は、全ての音が小さくなり、聞き取りにくくなると思われる事である。老人性難聴の一般的特徴は、低周波数よりも高周波数の音の知覚喪失が大きいことである。(特に女子より男子において顕著)
 しかし時には、音量斬増の現象が起き、高周波数の音は普通の強度よりも大きく知覚され、しばしば痛みを感じ、また歪んで知覚されることもある。Crandall(1980)は、「老人性難聴で苦しむ人と対話する最も良い方法は皮肉にも『ささやくこと』かもしれない。」と言う。ささやき声は声のトーンを低くし、音量斬増に伴い生じる痛みを軽くする。
 そしてMarsh(1980)は次のように言っている。「正常な高齢者であっても同様に、聴覚の他の衰えが見られ、『ピッチ識別』や『音源の方向を見分ける能力』が損なわれる。」

図表1-2-1 聴力の経年変化
20歳の平均聴力を0dBとする。(看護MOOK No.32 )

⇒難聴のため、実際に出ている音量と、本人が感じている音量に差がある可能性がある。つまり本人が出しているつもりの音量より、大きな音が出ている可能性がある。
⇒ピアノの音域(28~4186Hz)のうち、低音域より高音域の方が聴こえづらい可能性が多い。
⇒メロディーや和音の聴音・聴奏は、ピッチ識別能力が低下しているため、若年層より困難度が増すと思われる。

視覚

図表1-2-2 視力の年齢変化(出所 松本1980)

・加齢に伴い焦点調節能力が衰え近方視力が低下する。(湖崎 1989)
・遠方視力の低下は近方視力より遅く、平均して60歳くらいから顕著になる。(松本1980)
・暗順応(低レベルの光の状態での調節)においての割合は年齢とともに低下。(Domey他1960)
・まぶしい光からの回復力も減少する。(Carter 1982)
・視覚刺激を処理することが遅くなる。つまり正確に見分けるために、より時間をかけて見る必要がある。(Moscovitch 1982)
・視野が狭くなる。(湖崎 1989)

以上のことから次のように考えられる。

⇒五線譜の中の音符を正確に見分けるのに、若年齢者より時間がかかる。
⇒音符の小さな楽譜や、フォントの小さい教材を読むのは、困難を要する。また、その困難さは教室の照度によってもかなり差がある。
⇒ステージ演奏の場合、出演者に明るいスポットライトを当て、演奏が始まると同時に薄暗くして雰囲気を出すこともよくあるが、高齢者の場合は視覚機能がうまく順応出来ない可能性が考えられる。

触覚

触覚は65歳を過ぎて鈍化していく。高齢者のほうが若年齢者より触覚閾は高く、感知するのに、より大きな刺激を必要とする。つまり高齢になるほど微かな刺激を感知しづらい。触覚の感受性低下は皮膚の弾力性低下や、触覚の感受に重要なマイスナー小体の加齢変化による萎縮に基づくと考えられる。

図表1-2-3 指の触覚閾値およびマイスナー小体の密度の加齢変化(Thornbury とMistretta, 1981)

⇒指が一つ隣の鍵盤を弾く場合、目で鍵盤を見なくとも、通常は指先の触覚だけで容易に弾ける。が、指先の触覚が鈍化している高齢者の場合、それが困難な人がいる可能性も考えられる。また困難な為にいちいち鍵盤を見て弾く人が多い可能性も考えられる。


図表1-3-1動作のスピードの年齢による変化(Welford,1982の表7.2の一部をグラフ化)
タッピング:約5cm離れた約4cm幅の標的を交互にたたいた場合、書字:数字を書いた場合の1字あたりの時間
単純な動作より複雑なものの方が老化に伴うスピードの低下が著しい。

3.脳・神経系

動作スピード

タッピングのように「道具を使っての、単純な反復動作」より、書字のような「自らの指を使っての、ある程度の判断を伴うような動作」の方が、老化に伴う変化が著しい。
⇒ピアノの正しい鍵盤を自らの指で弾くという動作、しかも強弱・タッチ・ニュアンスなどを微妙に意識しての打鍵というのは、後者の「ある程度の判断を伴うような動作」に該当し、よって老化に伴い「指を速く動かすスピード」の衰えは著しいと思われる。

左右の手の違う動きの巧緻性

図表1-3-2 高齢者におけるバランス調節反応の障害(Woollacott ら,1982)

起立している床の右脚側が上方に、左脚側が下方に急に移動し体を側方に傾けたときに右の前脛骨筋と左緋腹筋に出現する長潜時反射の潜時。若年齢者群ではこれら両筋の反応がほぼ同時に起こってうまくバランスを保っているが、高齢者群では反射性の反応の起こる時間がずれてしまっている。

・若齢者―――2つの情報に対し、ほぼ同時に各々の筋に反応が現れ、うまくバランスをとれる。
・高齢者―――各々の筋が反応するのに時間的ずれが生じる→そのため各々の筋の協調運動が乱れてしまう。
筋肉間の協調関係の乱れが、高齢者の運動の巧緻性の低下を引き起こしていると考えられる。 ⇒左右の手が同時に同じリズムを打つ。左右の手が同じメロディーを弾く。というのではなく、「左右の手が違う動き・違うリズムで弾くこと」が、若年齢層に比べ難しい。
⇒「左右の手のコンビネーション」だけでなく、ペダルを使用する場合は、手と足の微妙なコンビネーションも若年者に比べ難しいと思われる。

反応時間

図表1-3-3 40~70代における全身反応時間の変化(長寿医療研究センター老化縦断研究)

加齢により、神経接合部(神経終末)とシナプスにおいて伝達時間が延長すると考えられる。また筋収縮時間も長くなり、高齢者の敏捷性はかなり落ちる。(20歳代に比べ、約半分。)高齢者が、情報に対して「咄嗟に」「パッと反応する」ことが非常に難しい所以である。
⇒楽譜から情報を読み「この音を弾こう。」「この指を動かそう。」と思う。
→それから指が実際に動くまでの時間が、高齢になるほど長くなるということが解る。
⇒何度も何度も繰返し練習をして「慣れ」になってしまえば別だが、楽譜から読み取った情報をその場で咄嗟に初見でなめらかに弾くことが、若年齢層より難しいと思われる。
⇒またレッスンで習ったことを、「時間」や「期間」をじっくりかければ出来るかもしれないが、その場ですぐに実行することは若齢層よりも難しいと思われる。

図表1-3-4 音刺激に対する反応時間の年齢的変化(Koga,Y.&Morant,G.M.,1923)

⇒メトロノーム・自動伴奏に咄嗟に合わせることが若年齢層より困難だということが解る。
⇒また、連弾やアンサンブルなどで、相手の音を聴いて「咄嗟に合わせる」「即興でセッションする」というようなことが若年齢層より難しいと思われる。

図表1-3-6 視覚による単純反応時間の年齢的変化(平井俊策1973のデータより元吉が作成)

⇒音符を読む→ドと認識→指が動く
 という一連の流れのスピードが、高齢になるほど遅いということが解る。よって楽譜を見てその場で咄嗟に反応しなければならない「初見演奏」が、若年齢層に比べ苦手、またはテンポがゆっくりになると思われる。


4. 精神・心理

知的能力

図表1-4-1 知能の年齢的変化(知能テスト得点による比較)

知能は加齢に伴い低下すると言われている。Jones and Kaplan(1947)は、知能は20歳代で最高に達し、その後は徐々に低下し、
           50歳では約10%低下する(16歳程度)
     60歳では約20%低下する(12歳程度)
     70歳では約30%低下する(10歳程度)としている。
しかし、知能機能は、加齢に伴い一様にしかも均等に衰えるのではない。
R.B.キャテルは、脳の機能のうち次のような2つに分けるべきことを示した。(図表1-4-2)
・流動性知能(個々人に生得的に備わった一群の知的能力。視覚・抽象的関係やパターンの使用に関係している。)
・結晶的能力(判断や問題解決のために、蓄積された情報の全体を利用する能力)

図表1-4-2 結晶性能力と運動性能力の加齢変化(キャテル1945)

⇒図表1-4-2の能力を、ピアノ指導要素に当てはめると次のようになるかと思う。
《加齢とともに衰える流動的能力》
   *知覚速度→耳での聴音・目での読譜・鍵盤を触る指の知覚
   *記憶スパン→暗譜能力
   *図形的推理→図形的にメロディーパターンやゼクエンツを探す楽曲分析能力。
          五線上の音符をすばやく認識する能力
   *推理→前後の流れやコード進行から次にくるであろう音を推理
《どちらにも属さない能力》
   *書字速度→指を動かして打鍵する能力
《年齢とともに発達していく結晶的能力》
  *言語理解→歌唱曲の歌詞を理解しての演奏能力・歌を作る能力
        音楽を万国共通語と考えれば、音楽を理解する能力は結晶的能力であり、年齢とともに発達。

結晶的能力は知的経験を通して磨かれていく能力である。老年期に達して、なお長く豊かな知能を維持するためには、人生後半における知的活動の持続と、それに伴う経験の蓄積があることが必須条件であろう。
⇒「楽譜を読み、どのような音・どのようなタッチ・どのようなニュアンスが適切か等を考え、適切な指を動かして、ピアノを弾く」という知的活動を継続しその経験を蓄積することで、知能は磨かれ、また、長く豊かな知能を維持することにつながる。

記憶力

 記憶は加齢に特に敏感で、衰えやすい機能である。中枢神経機能との結びつきが密接で あるだけに、脳の老化の直接的影響を受けやすいためと考えられる。
 ただし、高齢者でも「有意味つづり」は若年者同様、容易に記憶・学習できる。

図表1-4-3 記憶内容と年齢別記憶力(ルッチ1934)

やみくもに丸暗記するより、和音進行や音楽理論を理解して覚える・歌詞と関連づけるなどして覚えれば、若年層との差は小さい。
⇒音楽に関する新しい知識も、単に説明するだけでなく、何故そうなるか?という理由・その曲の時代背景なども一緒に話す方が、高齢者の記憶により残りやすい。
  *古い記憶(身近な情報...年齢・出身地・生活用品など)
  *直接記憶(新規記憶の情報...文章の復唱・その場で提示された絵の認知など)
の二種類の記憶に、15歳ごろは、大きな差は無い。が、35歳頃から徐々に差が出る。つまり、加齢による記憶能力の衰えは、直接記憶が著しい。

図表1-4-4 年齢と記憶(シャコウ)

⇒レッスンで初めて知る「新しい曲」よりも、子供の頃に歌って「知っていた曲」・若い頃に聴いた「馴染みのある曲」の方が、記憶しやすい。

聴覚提示によるよりも、視覚提示における記憶の方が、年齢差が大きい。つまり、高齢者は、聴覚的に提示される場合の方が、情報が保持されやすい。

図表1-4-5 記憶保持の実験(D.アレンバーグ)

⇒教材に書かれた字を読むよりも、教師が発する声を聞いた方が記憶に残りやすい。
⇒耳から聴いたメロディーは記憶に残りやすい。
⇒声に出して歌った方が記憶力は増大する。能動的に音名唱することは、記憶する上でも大切と思われる。
⇒視覚的にも楽譜を見て、聴覚的にも音を聴いて、声に出して音名唱をし、自らの手で能動的に弾いて...色々な機能をフル活用するのが最も記憶できると思われる。

学習能力

45歳を過ぎると、学習能力は急速に低下する。加齢に伴い、身体や精神機能が衰えるため、新しい興味(関心)は失われがちになり、高齢者の学習能力は低下するのが一般的と言われている。
しかし、身近な物や興味(関心)あるものを学習した場合、高齢者も学習能力は高まる。
⇒過去に歌ったり聴いたりして馴染みのある曲・親しみのある曲・身近で興味ある曲の方が、学習効果が高まる。

また、高齢者の多くは抽象的・理論的なものに対する興味を失い、未来より過去に関心が向くと言われている。
⇒理論的なものより、心に直接はたらきかける音楽は、高齢者の興味(関心)の対象になりやすい。
反復練習をすることにより、学習能力はさらに向上する。
⇒やはり何度も反復練習することが大切であり、「自分のために時間を使える年代」である高齢者は時間確保が可能なので学習効果は向上すると思われる。

感情

《高齢期と不安感情》
高齢期は、数々の喪失を経験し、一生で最も不安な時代といえる。
【高齢期の4つの喪失】(長谷川和夫)
(1)肉体的・精神的な「健康」の喪失(高齢期は絶えず死と直面しているので不安)
(2)「経済的自立」の喪失
(3)家族や社会との「人間関係」の喪失(退職・配偶者の死・友人知人との離別など)
   →淋しさに耐えられず、偏屈・人間嫌い・ひがみなどマイナス面が見られる場合も。
   特に精神的「ひとりぼっち」は問題。
   ⇒高齢期に、グループでピアノを習うこと、同じピアノに興味を持つ仲間達がレッスンで集まることは、その意味でも「豊かな老年期」につながる。
(4)「生きがい」の喪失(特に仕事が生きがいだった者)
   人間はあまり多くを失うと、無関心・無感動になりがち。
   ⇒ひとの心を癒してくれる音楽、好きな曲が弾けるようになるピアノの喜びは、 高齢期の素晴らしい「生きがい」になり得る。

《高齢期と葛藤》

図表1-4-6 高齢者意識出現の年齢(長谷川和夫 1975)

 22%の高齢者は「自分が高齢者」と思っていないのは興味深い。
 また、NHKの2000年度アンケート調査では、「自分が『老人』と呼ばれても抵抗を感じない年齢は75歳以上」と報道されている。

⇒エイジングを考慮したレッスンをすることは大切だが、過度に老人扱いするのも問題。
また対象年齢の呼び方も「高齢者」「老人」「老年者」「お年寄り」「シルバー」などに抵抗を感じる人も多いと思われる。
 葛藤(心の揺れ動き)は、加齢に伴って増大する。「高齢者として大切にされたい。」
と思う気持ちと「まだまだ高齢者扱いされたくない。」と思う気持ちとが心の中に同居し、その間の中で毎日を生きている。

⇒・「もう上達は無理かもしれない。そろそろ限界なのでは。」というマイナスの気持ち
 ・「まだまだ弾ける。頑張れば出来るんだ!」というプラスの気持ち
 この二つの気持ちの間で揺れ動きながら高齢者は練習している。
 よって指導者は、弱気な言葉を鵜呑みにして急にシフトダウンしたり、反対に生徒の強気な言葉を聞いたからといって急に難易度を高めることには、慎重であらねばならない。
 エイジングへの深い知識と、冷静な判断力を持って指導に当たることが大切と思われる。

《高齢期と未来感》
 堀(80歳)は「石の座席」の中でこのように書いている。
「少し先の未来をそれなりに予想し、考えるなんてことは、ほとんどしない。『明日も生きているだろうか?』と考えるからだ。現在だけを思案して生きている。...」

⇒80歳以上の生徒2人が、グループレッスンで扱う曲に関して、自分の希望曲を決して譲らなかったとしても、それは単なる「エゴ」「わがまま」と片付けることは出来ない。若者のように「もっと先で、いくらでも習える。」と楽観的に考えることが出来ないからであり、「今弾かなかったら、もう弾けないかもしれない。」と思うからである。
 あと1000日生きられる人にとっての1日と、あと10日しか生きられない人にとっての1日の重さが違うように、1回1回のレッスンの重みが高齢になるほど重い。

パーソナリティ(性格・人柄)

老人の性格は、「頑固」「わがまま」「愚痴っぽい」「疑い深い」「消極的・保守的・ 依存的」「現在より過去に生きようとする」等とカバン.RS(1980)らは考え、長嶋(1980)も次のように言っている。
(1)自己中心(わがまま・頑固)
(2)猜疑心(疑い深い・嫉妬・ひがみっぽい)
(3)保守性(新しい物を嫌う・過去の習慣や思想を重視・消極的)
(4)心気性(過度に自分の身体を気にする) (5)愚痴(過去の世界にのみ生きようとする結果出現)

しかし柄澤(1987)等は「性格は若い頃とあまり変化せず、変化したとしても好ましい方向のもの。『がんこ・わがまま』が見られるのは痴呆老人においてである。」と言い、それが現在の心理学における一般的見解である。  加齢は、肉体的には衰退を意味するが、精神的には必ずしもそうではない。経験の蓄積とその活用、パーソナリティにおける円熟と調和、そして自己実現への接近というポジティブな可能性があるからである。年齢を積むごとに、前向きに一歩一歩、人生の完成に向けて進んでいくことができる。
⇒高齢の生徒に指導する際、昔から言われている「がんこ・わがまま」などの偏見をもって接するのは間違いである。新たな学習や適応も十分可能であることはもちろん、むしろ年齢を重ね人間として円熟している生徒に心からの尊敬を持って指導に当たりたい。


第2章 メリット・アドバンテージ

実現したくても出来なかったものが大いに実現可能となる素晴らしい年代、高齢期に、 ピアノを習う意味、その年代ならではの効能や利点を考察する。

1. 指を動かすことによる 脳活性(痴呆予防)効果

 久保田競は著書「手のしくみと脳の発達」で次のように述べている。

「脳の神経細胞がどのくらい活動しているかみるのに、最近では、脳の酸素の使われ方や、脳の血管を流れる血液の量をはかったりする。神経細胞が働くと、酸素の量が増えて炭酸ガスができるので、脳の血管が太くなり、関係している脳の部分の血液の流れがふえる。ひとさし指の曲げ伸ばしをするだけで、手の運動野での血液の量は30%ふえ、手の体性感覚野は17%増える。同時に左右の脳の全体でも約10%、血液の量が増加する。(中略)単に指の曲げ伸ばしを行ったときと、考えながら(例えば、ピアノを弾くなどして)指を動かすときには、脳の働きが違ってくる。後の場合には知能を左右する前頭前野が一緒に動くのである。(中略)大いに手を使って、脳の力を伸ばし、ボケを防ごう。」

2. 理学療法的効果

《リハビリテーション》・・・脳卒中やリウマチなどを患った人の場合、関節が硬くなる拘縮・筋力低下などを防ぐためのリハビリテーションが大切である。
⇒楽しくピアノを弾きながらそのようなリハビリテーション効果を期待することも可能と思われる。

《廃用症候群予防》・・・健康な人であっても、使わないと筋肉の萎縮・関節の拘縮は意外と速く進む。この、使わないこと(活動性低下)によって生じる、筋肉・関節・種々の臓器の退行性の変化、機能的・形態的障害、臨床症状を「廃用症候群」といい、特に高齢者では起こりやすい。予防・治療のためには局所の活動性の維持・向上をはかることが重要である。(大川弥生/東京大学医学部付属病院)
⇒高齢期、楽しくピアノを弾いて指を動かすことで、そのような予防効果を期待することもできよう。

3. なじみの曲と回想の効果

昔馴染みの曲を聴いたり歌ったりしたことがきっかけで、当時の記憶が呼び起こされることが多々ある。
・人生の振り返りは、現実世界と未来の可能性のもとに、過去を再評価し自己のパーソナリティを再構築させる機能があり、高齢者のために有益である。(バトラー)
・シャラン メリアムは、「過去を振り返ることが、より良き高齢期の創造につながる」とし、過去に好まれた音楽を聴いたり歌ったりすることで過去の経験を呼び起こす音楽療法を、ライフレビュー教育プログラムとして紹介している。
⇒過去に好んだ曲を聴いたりピアノで自ら演奏することは、大いに過去を呼び起こし回想のきっかけとなり、高齢者に良い効果をもたらす。

4. 音楽療法的効果

音楽は中脳の感情を直接刺激し、魂の最も深い部分に触れる機能を持っている。音楽は脳梁に広がり、思い出す能力を刺激し、イメージや記憶の流れを引き起こす。この時、エンドルフィンが発生し、感情と身体の双方に良い効果を見ることが出来る。
⇒ピアノを学習することで音楽に興味を持ち、聴く機会も増えると思われる。そのような受動的音楽活動、および自ら演奏する能動的音楽活動、ともに心にも体にも良い効果が期待できる。

5. 生きがい作り効果

充実した人生とは、生きている価値があり、生活していることに喜びと幸せを感じる人 生ということである。困難を克服し、目標を達成し、向上していくことが、精神的な喜びをもたらし、「生きがい感」を増幅する。
・毎日ピアノを楽しむ幸福感、弾けた時「生きていてよかった!」と思う。(生存充実感)
・ピアノを弾くことによって得られる楽しみは非常に大きく、知らないうちに時間が過ぎてしまう。(没頭)
・弾けなかった箇所が弾けるようになる(変化と成長)
・将来、憧れのあの曲を弾きたいという夢や目標をもって練習(未来性)
・誰かが自分の演奏を聴いてくれて拍手してくれる。(反響)
・強制されてではなく、自分の心のために、自分が弾きたいから弾く。(自発性)
・小さい頃から弾きたかったけれど弾けなかったピアノを、現実に弾く(自己実現)

 生きがいを持ってピアノを弾くこと、張り合いのある毎日をおくることは、心身の衰えを防ぐことにもつながる。

6. コミュニケーション効果

以前は「血縁(親戚づきあい)」「地縁(近所づきあい)」の人間関係が濃密であった が、最近は希薄になる傾向が強い。が、それに替わるのは「学習縁(生涯ともに学習する仲間達との関係)」と考えられる。
・グループレッスンは、音楽を通しての社会的コミュニケーションの場となり得る。
・新しい挑戦の喜びやフラストレーションを分かち合うことが出来、一方が進歩の遅い人を励まし、また一方が片方の進歩を見て意欲を引き出されることもある。
・連弾やアンサンブルで、他のメンバーの演奏に貢献できるようになった時、友情が芽生え、お互いの思いやりを分かち合い、共同社会の中にいるという実感を与えてくれる。 Lynch,J.J.(1977)は「生きるためには暖かい人間関係が不可欠である。そして人間関係の良し悪しが、不老長寿の妙薬となる。」と言っている。
⇒高齢期、一緒にピアノを弾き、一緒にレッスンを受ける同年代の仲間達とのコミュニケーションほど魅力的な関係はないであろう。

7. QOL(quality of life)の向上

単に長く生きながらえればよいという生の量(quantity of life)のみでなく、生の質(quality of life : QOL)を向上させることが望まれる。長寿社会は、個人が生涯にわたりその能力や創造性を発揮できる社会、生きがいがあり心豊かな社会を目指している。
⇒高齢期、ピアノ学習することは「真の楽しみ」であり、高齢者の心を豊かにし、QOLが大きく向上すると考えられる。  Alicia Ann Clair((15))は高齢者のための音楽プログラムの実践から次のように言っている。「どのようなレベル、能力の人であろうと、音楽に参加することはその人に大きな喜びをもたらす。QOLを高め、退屈から開放し、建設的な時間を使うことを可能にする。究極的には素晴らしい自己実現となる。」

8. アドバンテージ

(1)結晶性能力
 加齢とともに衰退していく機能が多いが、結晶性能力は高齢になっても発達するので、芸術学習に終点はないと言われている。今まで蓄積してきた学習の知識や技能に豊かな気づきを与え、それを深めていくことが出来る。
・美術工芸分野において、若い時よりも優れた作品が作られる。高齢者の「年の功」といわれる知恵や熟達が、知能や創造性の低下を踏みとどまらせ、さらに芸術の円熟という形で秀でたものとなることが多い。(中里 1977)
・作曲家が晩年に書く作品は、それまでのものに比べて、「メロディーの独創性」「演奏の長さ」では劣るが、「聴く人に親しみやすい」という点では向上する。(Simonton D.K. 1989)
・俳句の分野でも(松尾芭蕉・与謝蕪村・小林一茶等)、加齢に伴って徐々に洗練され「深み」「心を打つ味」のある作品に。老年期まで創造力が持続する理由に、俳句は、技法として「短い文で完結させることができる」点があげられる。(町澤1997) ⇒ピアノ学習においても同様に高齢者は、「演奏時間の長い曲」「指を速く動かす曲」よりも、「短く完結する曲」「指の動きがあまり速くない曲」において、子供には出せないような「深み」「心を打つ味」のある秀でた演奏をする可能性が高いと思われる。
(2)時間
 子供のため、家族のため、会社のため、育児や仕事などに、多くの時間を使っていた年代を終え、自分のやりたいことのために時間を注げる年代になっている。成果をあせらず、自分の納得がいくまでじっくりと取り組むことが出来、落ち着いた気持ちでゆっくりとピアノを楽しむことが出来る。
(3)学習動機
 高齢期のピアノ学習動機は、「親に言われるから」「受験のため」「単位のため」「資格のため」「利益のため」というような外発的動機は少ない。「純粋にピアノ学習や練習に伴う楽しさを味わう」といった内発的動機が多い。このような自分の可能性を実現していくような学習、自己実現にもとづく学習は、具体的な利益につながらなくとも、大きな満足や喜びをもたらしてくれる。少しずつの向上や進歩にも満足し、若年では得られないようなアドバンテージ(有利さ)をもつであろう。


第3章 指導要素と効果

《指の練習》・・・打鍵することで、指の先にある受容器を刺激し、手の皮膚感覚野の神経細胞さらに手の運動野の神経細胞を働かせ、大脳のかなり広い領域の神経細胞が働き続けることになる。
《音符》・・・読譜や音楽理論などは、大脳の中の言語脳(大部分の人は左脳半球)を刺激する効果があると思われる。

《指番号》・・・指番号を見て正しい指を動かす。左右の手が違う指番号に反応する。という動作は難しく、最初は時間がかかるが徐々に速く反応出来るようになる。
脳の広い領域で神経細胞が活発に働いて樹状突起を伸ばし、新しいシナプスを作るからと考えられる。従来、年をとって神経細胞の減少がおこるのは自然の現象で、シナプスの数の減少も止むを得ない自然現象と考えがちであった。が、年をとっても知能が改善されること、正常な成人に比べて正常な老人の神経細胞の働きは成長が可能であり、樹状突起が増えてシナプスの数が増えることが最近報告されるようになった。

《楽曲演奏》・・・「憧れの楽器を弾く」「好きな曲を弾く」という喜びは高齢者に生きがいと張りを与え、弾けたときの感動は、高齢者を生き生きさせ若返り効果を期待できる。

《両手奏》・・・大脳はお椀のような半球が二つ合わさった球形になっており、右手は左の大脳半球に、左手は右の大脳半球に支配されているため、両手を使わないと両方の大脳を働かせることができない。両手でピアノを弾き両方の脳を働かせることで、ボケ予防を期待できる。

《即興・自作曲》・・・クリエイティブな作業は、非言語脳(大部分の人は左脳半球)を使う効果があると思われる。その部分を使うと良いホルモンが出て免疫力増加(しいては長寿効果)の報告もある。

《連弾・アンサンブル》・・・仲間と一緒に音楽共有することは非常に楽しく、お互いに貢献し合うことで友情が芽生える。

《 グループレッスン》・・・コミュニケーション効果


第4章 事例から

1. 実践にあたって

《指導の4つの要素》 高齢期のピアノ教育には、次のような要素が大切と筆者は考える。
(1)心の健康に良い。(QOL向上・気持ちよい・楽しい・自己実現・わくわくする等)
(2)体の健康に良い。(脳活性・痴呆予防・リハビリ効果など)
(3)音楽教育として優れている。
  (自分が弾く主体的な喜びを感じられるよう上手に導く。)
(4)展開しやすい。(生徒にとっても指導者にとっても無理がない。)
《指導の理念》 次のような理念のもとに指導した。
(1)音楽は「楽しいから」「気持ち良いから」「自分の心のために」営む物である。
「上手か下手か?」「才能が有るかないか?」などということより大きく優先されるべき重要なことであり、本来それが音楽の原点である。
(2)音楽は、「ピックアップされた才能のある者」「幼児期から教育を受けることが出来た恵まれた者」「一部の人間」のみに与えられた楽しみではない。音楽は万人のものであり、「全ての年齢の人」「全ての健康状態の人」「全ての音楽能力の人」「全ての人」が本能的に営む、人間として当然かつ自然な行為である。

《指導の留意点》
(1)人との比較をしたり「上手に」ということを意識しすぎないように配慮し、「自分の心のために」「楽しいから」「気持ちいいから」弾くという点に指導の目的を置き、それを常に強調するよう心がける。
(2)他の年齢同様「上達」「楽しみ」という成果があるが、この年齢ではもう一つ「健康」を意識したい。脳活性効果・若返り効果などを期待しての指導、右脳と左脳をバランスよく使うようカリキュラムされた指導が出来れば素晴らしい。
(3)子供や社会人の生徒の場合、「5年後にこうあって欲しい。」「10年後にこんな風に出来る実力を・・・」と、将来を見据えて指導できる。が、「平均寿命」を過ぎている年齢の生徒の場合、「3年後」や「1年後」「半年後」が確かなものではない可能性も考慮し、後悔しないように「弾きたい曲」はたとえ実力が伴わなくとも、簡単にアレンジしてでも、なるべく早く弾かせてあげる。
が、「10年後」「20年後」がある可能性も十分に考えられるので、先で行き詰るような背伸びした一過性のレッスンもしてはいけない。

2. 実践方法

表 4-2-1 高齢者ピアノ指導の3事例の比較
表4-2-2 1回のレッスン内容と効果

3.実践結果

・選曲・・・現代の曲や未知の曲を弾いてみたいという気持ちよりも、思い出のある過去の曲を弾きたい気持ちの方が強い。「良い曲かどうか?」よりも「思い出があるかどうか?」の方がより選択のポイントが高い。
・「どう弾いているか?」よりも「何の曲を弾いているか?」の方を重要視する傾向が強いので、同じ曲でも色々な難易度の版(左手が1音の版・2重音・3重音の版・色々な伴奏型の版など)を用意しておくと、個人差を補って、全員で一緒に弾くことも出来、指導しやすい。
・まず極力シンプルにした骨だけの楽譜を与え、それが弾けるようになった時点で、それがもう少し複雑になった楽譜を与えるという方法が、比較的導きやすい。
・「片手で弾いているだけか?」「両手で弾いているか?」は本人の満足度にかなり大きい違いがあるようなので(もちろん難しさも大きく違うが)、どんなに簡単な伴奏でもよいから全員が両手奏するようにもっていきたい。
・ビート・・・2ビート・4ビート系(行進・手拍子のノリ)よりも、8ビート系が苦手。(シンコペーションなどは非常に大変。)
・テンポ・・・「自分のテンポ」でしか弾けない傾向が強い。
・タッチの傾向2種・・・「タッチ」に関しては、2通りの傾向がある。第1のパターンは、指に力が入らないために弱々しいタッチでしか弾けない人。第2のパターンは、コントロールが悪いためバシッと強い音が出てしまい弱い音が出せない人。前者は女性(特に70代以降)やリウマチを患ったことのある人に多く、後者は自己流で弾いている期間があった人に多く見られる。
・奏法・・・腕に軽い障害や肘痛などを持っている場合、椅子を高めにしたフォーム、腕の重さを利用するような重力奏法が合っている。
(【重力奏法】1885年、ピアノを学ぶ学生に障害が頻発したのは、指だけで弾く奏法のためだとし、ドルファ・デッペ(独)によって示唆された「指を動かす筋肉のみを酷使せずに腕の重みを利用する奏法」)


第5章 高齢期の音楽教育

1.学習可能性を支える学問観

高齢者の学習可能性を支える3つの学問観を考察する。
(1) 生涯発達観・・・エイジングに対する捉え方が「高齢期=衰退」という捉え方から 「加齢とともに、成熟・円熟を見せる」というポジティブな捉え方に。
(2) 高齢者教育学(gerogogy)
・「子供のための教育学pedagogy」
・子供とは異なる学習特性をもつとして・・・「成人のための教育学andragogy」
・そして成人とも異なる学習特性を持つとして・・・「高齢者のための教育gerogogy」 の三つの教育学がある。
 子供のための素晴らしいピアノ教育メソードは数々開発され、「大人のためのピアノ」も近年盛んである。同様に「成人」とは異なる学習特性をもつ「高齢者のためのピアノ教育学」も、より深く専門的な研究が待たれる。
(3) 教育老年学
老年学と教育が結びつくことによって成立した学問。
・実践領域-----衰退の防止・役割を促す・心理学的成長など
・研究領域-----人生後半の知的変化・高齢学習者が求める教授法・高齢学習の動機付けなど
近年、これに加え、生活の質(QOL)を向上するために、エイジングとそれに関する教育を研究する学問として広がりをみせている。

2.マズローの5つの欲求

高齢者は何を求めているか?どうなれば幸せか?人生において何を望み、何に価値を感じているか?ピアノ指導する前にそれを理解しなければならないであろう。その一つのフレームワークとして「マズローの欲求5段階説」が有効と思われる。
「人間はあらゆる欲求・欲望が満たされた時に満足感を得、幸せと感じる。」というのがマズローの人間観である。高齢者の欲求を理解し、指導者はそれが満たされるようにサポートすることが大切と思い、それを、マズローの欲求5段階説のモデルにそって考えていく。

図表 5-2 マズローの欲求5段階説

社会的欲求・・・グループレッスンはこの意味で好ましいと思われる。内輪の弾きっこ大会など同年代の仲間との交流の場も。
承認の欲求・・・自分の演奏に多くの人が耳を傾けてくれること、拍手をしてくれること、自分の演奏の上達や努力が認められることは満足と喜びを感じる。少し上達した段階で、施設でボランティア演奏し、自分の演奏を聴いて喜んでくれる人がいれば、人のために貢献する喜び・生きがい感を感じる。
自己実現の欲求・・・夢の実現。小さい頃から憧れていた(しかし事情で弾けなかった)ピアノという楽器を弾くことが出来た満足感。好きな曲を頑張って練習しているときの喜び。弾けるようになって達成感を感じた時、幸せと感じる。

3.学習志向性

 高齢者において特徴的なのは、残り少ない人生をいかに生きるかといった観点から、自己実現への接近を試みることである。生の有限性と自己実現の2つが結びついた学習活動への志向性の強さが、高齢期に特有の学習志向性である。
 人生の最終地点を起点として、ピアノで憧れの曲を弾くという自己実現を考えるので、学習に強い志向性が表れる。

4.なぜピアノか

《シニアピアノ講座の受講動機》

図表 5-4-1 シニアピアノ講座の受講動機  (出所 元吉 2002年)
茨城県南生涯学習センター受講生(平均年齢64歳)及びつくば市二の宮公民館受講生(平均年齢60歳)の合計22名の回答(複数回答)

《楽器の選択理由》

図表 5-4-2 数々の楽器の中でピアノを選んだ理由 (出所 元吉 2002年)
茨城県南生涯学習センター受講生(平均年齢64歳)及びつくば市二の宮公民館受講生(平均年齢60歳)の合計22名の回答(複数回答)

《自己実現》

音が美しい故に、多くの人の心を魅了する楽器であるピアノ。憧れていたけれど、当時は高価な楽器であるが故に、習う願望を果たせなかったピアノ。後に、子供に夢を託し習わせ、自分は仕事に生きがいを感じていた最も活動的だった時代。やがて子供は巣立ってしまい、若さ・健康・仕事・人間関係・数々の喪失を経験した今、ポツンと家に残っているピアノ。これらの要因のどれをとっても、時間の出来た今こそ、「夢を実現させよう!」と考えて当然と思われる。


第6章 まとめ

今回の研究では、3種類の事例が単なる報告という位置づけになっているが、今後は、それらの反省点を改善したプログラムの実践を重ね、色々な制約の中でのより大きな成果を出す方法を模索し、より良い指導法を見つけることが今後の課題である。
 エイジングとともに身体的衰えが生じ、ピアノ演奏にハンディがあることは不可避である。が、そうしたマイナス面を補っても余りあるのが、高齢期でピアノを弾くことによる素晴らしい精神面の充実であろう。  生きがい感や自己実現を求めて、生涯にわたって主体的にピアノを学ぼうとする高齢者を支援するという点で、ピアノ指導者は、今後、大きく貢献することと思われる。
 40代・60代・80代と幅広い年齢の生徒をひとくくりにしてのグループレッスンは、違う年齢の人と一緒に学ぶ楽しさ、刺激などの利点が色々考えられる。が、その点を考えたとしても、そこには、3歳児と5歳児を一緒にレッスンするに等しいような無理・難しさがあるのではないだろうか。3歳児に照準を合わせれば5歳児が物足りなさを覚え、5歳児に照準を合わせれば3歳児が落ちこぼれる、といった不都合が起きて当然である。同様に人生後半の能力差は驚くほど大きく、エイジングの視点から考えると近い年齢でグループを作るのが好ましいと考えられる。
 ピアノ教師は、高齢期の生徒に若年層と同じことや能力的に無理なことを要求しないよう気をつけねばならない。が、反対に、「高齢だから出来ないだろう。」というステレオタイプを作ってしまい、弾けていなくともマルにする目標ラインを下げ過ぎたレッスン、その場限りの楽しみで満足する一過性のレッスン、単に子供や若年層の指導法をそのままペースダウンしただけのレッスンなども避けたい。指導者はエイジングへの知識を深め、高齢期の生徒の能力の限界も可能性も両方を熟知した上で、年齢にちょうど適した指導をしたい。
 ピアノ学習者の人口は増えて層は厚くなり、また習う目的など多様になっている。ピラミッドの頂点が高くなるように努力すると同時に、ピラミッドの底辺(技術は未熟だけれどピアノを愛し楽しんでいる人達。とりわけ人口の占める割合が大きい高齢者)への音楽教育を充実したものにする努力が大切であろう。
 高齢期、彼ら自身の生きる糧となるような質の高いピアノ指導、長寿社会が必要としているような音楽教育の研究が、今後一層望まれる。


【参考文献】
(1) 朝長正徳・佐藤昭夫:「脳・神経系のエイジング」 朝倉書店 1989.
(2) 東 清和:「エイジングの心理学」 早稲田大学出版部 1999.
(3) 相良祐輔担当編集:「新女性医学大系:3.エイジングと身体機能」中山書店 2001.
(4) 朝長正徳:「脳の老化とぼけ」 紀伊国屋書店 1988.
(5) 井上勝也・木村周:「新版 老年心理学」 朝倉書店 1993.
(6) 長谷川和夫・霜山徳爾:「老年心理学」岩崎学術出版社 1977.
(7) 市川隆一郎・藤野信行:「増補版老年心理学」 診断と治療社 1990.
(8) 長谷川和夫:「老年心理へのアプローチ」 医学書院 1975.
(9) 師井和子:「心にとどく高齢者の音楽療法」ドレミ楽譜出版社 1999.
(10) 堀薫夫:「教育老年学の構想?エイジングと生涯学習」 学文社 1999.
(11) 浜口晴彦:「現代エイジング辞典」 早稲田大学出版部 1996.
(12) 高田知和:「エイジング研究の基礎」 早稲田大学出版部 1993.
(13) Louis R.Amundsen「筋力検査マニュアル」医歯薬出版株式会社 1996.
(14) 永冨和子:「もっと楽にピアノは弾ける」 学習研究社 1996.
(15) Alicia Ann Clair「高齢者のための療法的音楽活用」一麦出版社 2001.
(16) 高萩保治・中嶋恒雄:「音楽の生涯学習」 玉川大学出版部 2000.
(17) 柿木昇治・山田冨美雄:「シニアライフをどうとらえるか」北大路書房 1999.
(18) 香川正弘・佐藤隆三・伊原正・萩尾和成:「生きがいある長寿社会 学びあう生涯学習」ミネルヴァ書房 1999.
(19) 酒井隆一:「ピアニストの手 障害とピアノ奏法」 ムジカノーヴァ 1998.


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