10.ペール・ラシェーズ墓地/二月革命
Cimetiere du Pere-Lachaise
12, place Vendome
75020 Paris
地下鉄 : 2・3号線 Pere-Lachaise ペール・ラシェーズ下車
臨終のショパン |
周囲の必死の看病にもかかわらず、ショパンの病状は日毎に悪化し、遂に10月17日の午前2時に息を引き取ります。ショパンの遺体は2日後に心臓を取り出す為に解剖され、遺言通りにワルシャワの聖十字架教会に安置されました。葬儀は10月30日にマドレーヌ寺院で行われ、パリの楽壇と文壇を代表する大勢の人々が参列し、遺体はペール・ラシェーズ墓地に葬られます。一周忌にはサンドの娘の夫である、彫刻家のクレサンジェによる「嘆きの天使」と題された記念碑がショパンのお墓の上に建てられました。
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75020 Paris
http://www.pere-lachaise.com
地下鉄 : 2・3号線 Pere-Lachaise ペール・ラシェーズ、2号線フィリップ・オーギュスト、3号線ガンベッタ下車
入場時間:3月16日から11月5日まで8時から17時45分
11月6日から3月15日まで8時から17時15分
土曜は8時半、日曜・祝日は9時から
ショパンの墓 |
ロッシーニ(1792?1868):ショパンも知遇を得ていた当時の代表的オペラ作家 | ドラクロワ(1798?1863):ショパンが生涯の友情を結んだロマン派を代表する画家 |
←ベッリーニ(1801?1835):ショパンが深く傾倒し,賞賛して止まなかった19世紀前半を代表するオペラ作家. | ←ケルビーニ(1760?1842):自身がイタリア人でありながら,フランス人でないことを理由にリストの入学を拒否したパリ音楽院長.ショパンは彼の執筆した対位法とフーガの教則本を手本にしていた.
→イグナツ・プレイエル(1757?1831):ショパンが愛用していたプレイエル・ピアノ工房の創始者 |
二月革命
パリでショパン最後の公開演奏となってしまったコンサートの一週間後に勃発した二月革命は、それまでのブルジョワジー主体の市民革命と異なり、資本家と労働者が政府の主導権を争って起こった政変でした。
七月革命は、王政の復活によって再び増長し始めた王侯貴族を打倒して、資本家(ブルジョワジー)と労働者が結集して起こした革命でしたので、政局は当然、共和制に移行するはずでした。ところが、王族でありながら共和派を自称するオルレアン家のルイ・フィリップが王座につき、七月王政を成立させてしまいます。これは、革命を首謀した、既に大きな富を蓄えていた一部の金融家らが更なる私服を肥やす為に採った政策で、「フランス国」ではなく「フランス人民」の王と自称して即位したルイ・フィリップは実質的には裕福なブルジョワ階級のみを擁護する王で在った為、イギリスに継ぐ産業界の隆盛によって農村から流れ込んだ労働者や一般庶民は、共に革命の担い手であったにも関わらず政権外におかれ、革命の利益は全て銀行家や大地主など、一握りの裕福な階層の支配下に置かれてしまいました。
このように、七月王政の実態は政治的には制限選挙王政、経済的にはブルジョワ金融態勢で、選挙権は相変わらず高額納税者に限られ、政治に参加することは一部の上層ブルジョワジーしか認められていませんでした。この事実は国民の大半を占めていた農民ばかりでなく、実際に七月革命を推進した中小規模の商工業者や労働者の国政への参加拒否を意味することになりました。
こうした七月王政下での不平等な選挙制度や向上することのない生活レベルの改善を求めて、労働者や農民達は改革宴会(バンケ)と呼ばれる政治集会を度々実施し、この改革宴会(バンケ)はしだいに1848年の二月革命の要因となる選挙法改正運動へと発展していきます。そして、七月革命から18年を経た1848年2月22日、ある改革宴会が政府の命令によって強制的に解散させられたことに激高した労働者、農民、学生がデモやストライキを起こし、二月革命が勃発しました。革命勃発の翌日には首相であったギゾーが退任して沈静化が図られましたが、24日には武装蜂起へと発展。遂に国王ルイ・フィリップが退位、ロンドンに亡命して事態は終結し、同日に組織された臨時政府による1848年憲法の制定とともにフランス第二共和政が成立しました。この革命の影響は大きく、三月にはヨーロッパ中に飛び火して、ウィーン体制崩壊の要因となり、世界が国民国家の競合する激動期に入るきっかけとなりました。また、自由主義に代わって民主主義が政治風潮の主流となり、その後二度とフランスに王制の復活を許しませんでした。
ショパンはパリに住みながら、二月革命よりも、そのひと月後に起こった、当時プロイセン統治下であったポーランドのポズナニ地方の民衆蜂起により関心を抱き、祖国の再興を目指してポズナニに向かったポーランドの友人たちの安否を気遣っていたようです。そんなショパンとは対照的に、サンドは労働者や農民を擁護する社会主義運動に積極的に加わり、作品を通して改革への熱意を表明しました。ノーアンの田園地帯で少女時代を過ごしたサンドにとって、農村は身近な存在でしたが、パリの社交界(サロン)を舞台に一般大衆を意識することなく活動してきたショパンにとっては、芸術家としての自分を死の直前まで支え続けてくれたパリの上流社会と対立して、それまで接点のなかった労働者や農民での視点から社会生活を考えることは不可能であったことでしょう・・・このような社会情勢に対する二人のスタンスの違いは、既に隙間風の吹いていた二人の溝を深めるのに一役買ったといわれています。二月革命の一年後、世界が大きな変換を遂げた時期にショパンはその生涯を閉じましたが、時の流れと共に、彼の作品は国境も世代も階級も越えた、世界中の人々に愛されるようになりました・・・