ヨーロッパにおけるロマン派の時代は、コンサートの運営がサロンや慈善演奏会から音楽ホールや市民組織による音楽団体主催の定期演奏会へと移行し、内容も数人の賛助出演者を招いてさまざまな楽器の組み合わせによる曲目を無秩序に並べるだけのコンサートから、単一楽器による統一の取れたプログラムで構成されるリサイタル形式が誕生して、作曲家と演奏家が分離していく過程に在りました。
19世紀初頭の音楽界において、ピアニストは他の楽器奏者や歌手、室内楽団と競演して自ら作曲した作品を演奏するのが常識でした。一人のピアニストがほかの音楽家の作品を主として演奏する現在のようなソロ・コンサート、いわゆるリサイタルはまだ存在していなかったのです。
ショパンが1832年2月25日、22歳の時にプレイエル・ホールで演奏したパリでのデビュー・コンサートは、以下のような形態で演奏されていました。
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ショパンのデビュー・コンサートのプログラム |
第一部:
1. バイヨー、ヴィダル、ウルアン、ティルマン、ノルブリンによる
ベートーヴェン作曲「五重奏 ハ長調 作品29」
2. トメオーニ嬢とイザンベール嬢による二重唱
3. ショパン自身の演奏による≪ピアノ協奏曲 へ短調≫
4. トメオーニ嬢によるアリア
~休憩~
第二部
1.カルクブレンナー、スタマティー、ヒラー、オズボーン、ソヴィンスキ、ショパンによる≪六台のピアノの為の序奏と行進曲付きグラン・ポロネーズ≫、
2.イザンベール嬢によるアリア、
3.ブローニによるオーボエ独奏
4.ショパン自身の演奏による≪モーツアルトの主題による華麗なる大変奏曲≫
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リサイタル形式の演奏会を始めたのは、1827年にロンドンで開いた演奏会で、短い声楽曲を4曲入れながらも過去の作曲家の作品からピアノ曲だけを選んで演奏したイグナーツ・モシュレスです。ところが、リストはその2年後の1839年3月8日に「音楽のモノローグ(独白)」と名付けた史上初めての自作単独演奏会をローマで開き、翌年の1840年6月9日にロンドンのスクエア・ルームズで、告知に英語のリサイタル(独奏)という用語を史上初めて用いた自作自演の単独コンサートを開きました。曲目はベートーヴェン作曲『田園』からスケルツォとフィナーレ、続いてシューベルトのセレナードとアヴェ・マリア、リスト自身の作曲によるヘクサメロン、ナポリのタランテラ、半音階的大ギャロップで、このコンサートは、さまざまなジャンルの作品を複数の演奏家が演奏するという今までの演奏会の常識を覆した画期的な出来事になりました。
リストのミュンヘン公演プログ ラム(1843年10月21日) |
リストはバッハから当時の作品までをレパートリーとし、楽譜を見ての演奏から原則として暗譜で演奏して、徐々に現代のピアノ・リサイタルのスタイルを確立していきました。
例えば、ミュンヘンの公演はベートーヴェンの≪悲愴≫ソナタで始まり、リストの自作自演による≪夢遊病の女の主題による幻想曲≫、続いてロッシーニ作曲の≪タランテラ≫、ショパンの≪マズルカ≫と≪清教徒からのポロネーズ≫、バッハの嬰ハ短調フーガ、最後はウェーバーの≪舞踏への勧誘≫という曲目、
リストのウィーン公演プログラム (1846年3月5日) |
ウィーンでのリサイタルは、ロッシーニ作曲の≪ウィリアム・テル≫序曲をリストがピアノに編曲して演奏し、次に、リスト自身の作曲による≪ヴァレンシュタットの湖で≫と≪泉のほとりで≫、そして、シューベルトの≪さすらい人幻想曲≫、ショパンの2つのエチュードを経て、最後は≪ノルマ幻想曲≫の自作自演で締めくくられています。
空前の大成功として伝えられる1841年12月27日から3月初旬にかけてベルリンで行われた一連の演奏会では、リストは約80曲を弾き、そのうち50曲は暗譜だったと伝えられています。さらにピアノの蓋を開け、客席に向かって右側に置いて弾き始めたのもリストです。彼は自らの演奏活動を通してこれらのことを各地で一貫して実践し、現在に至るピアノ・リサイタルの様式を定着させました。
一方、ショパンは作曲技法においては前期ロマン派の最先端を歩んでいましたが、演奏会の形態においては従来の形を踏襲しました。これは彼自身の選択というよりは、健康状態やサンドとの関係の悪化と別れにより、晩年にはリサイタルどころか演奏会自体を開く気力も体力的な限界を超えてしまった為でしょう。
マネージメントが確立していなかったロマン派の時代において、演奏家が全て自身の手でお膳立てしなければ成り立たなかったコンサートの在り方は、ショパンにとって体力的にも精神的にも負担が重く、彼は次第に作曲に専念し、作品の出版を通して自らの音楽を表現していく道を選びます・・・
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