05.トロンシェ通り5番地 / ピアノの発達
5, rue Tronchet
75009 Paris 地下鉄 :8・12・14号線 Madelaineマドレーヌ下車 1839 年10月から1841年11月まで
健康を危惧したヴォジンスキ家から、マリアとの婚約を破棄されたショパンは心に深い傷を負いますが(※)、ほどなく女流作家、ジョルジュ・サンドと恋に落ち、子供達の保養にスペインのマヨルカ島へ旅立つサンドに同行します。しかし、この旅はショパンの健康状態に決定的なダメージを与え、ジョルジュ・サンドの実家、ベリー地方のノアンの館でしばらく静養することになりました。サンドの献身的な看護ですっかり健康を取り戻したショパンは、パリでの生活を一新しようと、サンドとショパンの共通の友人で全信頼を寄せていたポーランド貴族、ヴォイチェフ・グジマワとワルシャワ時代からの学友、ユリアン・フォンタナに新居探しを託します。二人がショパンの為に見つけたのは、当時、ポーランド人倶楽部があったゴドー・ド・モロワ通りRue Godot de Mauroyにほど近い、マドレーヌ寺院の裏手に位置するトロンシェ通り5番地の1階(日本での2階)でした。
フランスの女流作家。1833年から1834年にかけて詩人のアルフレッド・ド・ミュッセと1838年から1847年にかけてショパンと交際。初期の女性解放運動家としても知られる。
ヴォイチェフ・グジマワ伯爵(1793‐1871)の肖像 ウクライナ生まれ。軍人としてのキャリアを積んだ後、銀行家としてワルシャワ貴族社会のリーダー的存在に。1830年のワルシャワ蜂起に参加した後、パリに亡命。ワルシャワ時代から音楽批評なども執筆して、ショパンをはじめとする多くの芸術家を擁護していたが、パリでもサンドとショパンの共通の友人として、二人の恋の相談役となった。
ウジェーヌ・ドラクロワ Eugene Delacroix (1789‐1863) ナダール撮影のポートレート(1858) サンドを通して知り合ったショパンとドラクロワは、生涯の友情で結ばれる。二人との友情を大切にしていたドラクロワは、愛し合う二人の姿をキャンバスに留めた・・ ショセ・ダンタンからほど近いノートル・ダム・ロレット通りにあったドラクロワのアトリエ(1852年9月)
二人が出会った頃、ドラクロワが描いたサンドとショパン(1838)
「ジョルジュ・サンドとショパンの肖像」 二人の肖像は100X150センチのキャンバスに描かれ、ドラクロワの死後、今も残るサン・ジェルマン・デ・プレのアトリエに置かれたままの状態で発見された。その後、切り取られてショパンの部分はルーブル美術館所蔵に、サンドの部分は競売でデンマークの実業家に買い取られ、現在はオードルップゴー・コレクションと名付けられてコペンハーゲンから30分ほどの距離にある屋敷に展示されている。
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ショパンの暮らしていた1830年代のパリは、まさにピアノの都でした。時代を代表する演奏家の活躍やサロンの発達、一般家庭への音楽の普及に伴って数多くのピアノ製造業者が競合し、ピアノは人々から最も愛される楽器となり、目覚しい発達を遂げます。 中でも、エラールとプレイエルは、フランスの二大ピアノ・メーカーとして、激しく競い合っていました。両社とも、19世紀には10万台のピアノを製造したといわれています。ショパンの「調子のいい時はプレイエルで弾き、悪い時はエラールで弾く」という発言からも伺えるように、一般に、エラールのピアノが華麗な音色で音量も豊かであったのに対し、プレイエルの楽器は優美で洗練された響きを持ち、非常に繊細で、僅かなタッチの変化にも敏感に反応したといわれています。ショパンはこのプレイエルのピアノがお気に入りで、生涯これを愛用しました。
1807年にパリにピアノ工房を開いたプレイエル商会の創設者、イグナツ・プレイエル(1757?1831)は、自らもハイドンに師事したコンポーザー・ピアニストでした。オーストリアに生まれ、1783年にフランスのストラスブールに移りますが、大革命の混乱を避けて産業革命の波に乗っていたイギリスに渡り、その後、フランスに帰国して楽譜出版を営み、次いでピアノ製作の世界に身を投じます。プレイエルは厳選した素材とイギリス仕込の卓越した技術で作曲家や演奏家の要求に応える楽器造りを目指し、そのピアノへの限りない可能性を求める姿勢は各方面で強い支持を得、ヨーロッパ王室御用達の由緒ある逸品として国際的に高く評価されるようになりました。イグナツの健康の悪化を機に、長年の友人で、当時、パリ音楽界の中心的存在で音楽院教授でもあったピアニスト、カルクブレンナーが共同経営者としてピアノの製造や販売に加わり、跡を継いだ長男のカミーユ・プレイエル(1788?1855)と共に着実に業績を伸ばしていきます。彼らはそれまでオーケストラの代用品でしかなかったピアノを独立した楽器として扱い、ピアノ固有の響きとタッチ、音色の多様性を追及して、ニュアンスの微妙な表現を可能にしました。 ショパンが愛用していたプレイエルのグランド・ピアノは、鍵盤が鍵で音域が6オクターヴ+五度、ペダルは2本、弦は1本から3本と、限りなく今のピアノに近いものでした。ショパンが「ピアノの詩人」として今日まで広く一般に知られるようになったのは、ピアノが歌わせる楽器としての性能を備えて成熟していった時期に音楽家としてのキャリアを積み始め、その発達と共に彼自身の創作も発展していったからでしょう。 一方、エラール商会は1796年にピアノ工房の職人であった、セバスティアン・エラール(1752?1831)によってパリに創設されました。エラール社による数々の発明の中で最も重要なものに、1821年に特許が下りた「ダブル・エスケープメント」装置があります。これは鍵盤が半分ほど戻った時に既に次の打鍵ができるように工夫されたもので、この装置によってはじめてトリルやトレモロなどの連打がピアノの鍵盤ですばやく出来るようになりました。 リストは1824年の6月29日のロンドン王立劇場における演奏会の時に、このエラールが開発した「ダブル・エスケープメント」機能を備えた新しいグランド・ピアノを弾いて大成功を収めました。エラールのピアノはリストの演奏と作曲の可能性を広げるにあたって大きな役割を果たし、リストが長く愛用する楽器のひとつとなります。 このように、演奏家と楽器製作者はそれぞれの世界を表現するパートナーとして強い絆で結ばれ、互いに協力しながら次々と優れたメカニズムを生み出していきます。フレームやハンマーには新しい材質が用いられるようになり、ペダルの本数とその機能、ピアノの大きさと弦を張る方式が変わり、弦の張力と鍵盤の数が増しました。楽器の向上は、ピアノ奏法とピアノ曲の作曲法を発展させただけでなく、演奏会の内容や雰囲気にも大きな変化をもたらします。ピアノは大音量のオーケストラと共演できるようになり、これによって演奏会はサロンのみならず、大きなホールや会場で開かれるようになりました。
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