チャルトリスキ公 (1770ワルシャワ-1861パリ) |
ショパンが到着した頃のパリには、ポーランド人による国民政府の樹立を願って独立運動に参加した結果、その敗北によってロシアの官憲に追われ、パリ亡命を余儀なくされた、夥しい数のポーランド人たちが避難してきていました。
バルト海に面し、さまざまな国と国境を接しているポーランドは、モンゴルの侵入以来、常に隣国の干渉や圧力を受け、王は時代によって、最も影響力のある国の後押しで決定されていました。ショパンは、ポーランドがロシア、プロイセン、オーストリアに3度に 亘って分割された結果、国が地図上から消えた時代に生まれ、当時、ロシア帝国の支配下にあったワルシャワで青春時代をおくります。 ショパンの時代のヨーロッパ地図(クリックで拡大)
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そして、国内がフランスの七月革命に呼応して独立の気運が高まっていた時期に、周囲から背中を押されるようにしてワルシャワを旅立ち、ウィーンの街へ到着した一週間後の1830年11月にワルシャワ蜂起の知らせを受けています。ショパンが到着した時期のパリには、この独立蜂起の結果、さらに強化されたロシアの弾圧から逃れようと、ポーランドの大貴族や政治家、軍人などが続々とパリに亡命してきていました。こうして、ショパンはパリという異国の地にありながら、国を代表するレベルのポーランド人たちに街角で出会い、彼らに囲まれて過ごすことが出来たのです。
中でも、ワルシャワ蜂起の求心的存在であったポーランドの亡命貴族、チャルトリスキ公はパリの亡命ポーランド人社会の統率者となり、ポーランドの亡命者集団は彼を中心に多岐に渡る活動を展開しました。ポーランド人の為の学校や組織、施設が創られ、出版や報道が整備され、1832年に亡命中のあらゆる芸術家を糾合する「ポーランド文芸協会」が発足すると、ショパンはいち早く入会して、協会の運営するさまざまな慈善活動に積極的に貢献します。会員たちは、祝祭日を共にし、ことあるごとに集っては結束を固めていきました。さらに、ショパンは独立を目指す政府派遣使節としてロンドンで西欧の支持獲得のために尽力し、チャルトリスキ公同様にポーランドから亡命していたプラテル伯爵(1774‐1846)家にも出入りして知己を広げます。「夫にはショパン、お友達ならヒラー、愛人にするならリスト」という台詞は、このプラテル伯爵夫人の言葉です。プラテル伯爵家はショパンを家族同然に扱い、才能ある青年音楽家たちの来訪をいつでも歓迎しました。また、ユダヤの大富豪、ロスチャイルド男爵家のサロンに招かれて演奏したのは、ショパンのワルシャワ時代からの庇護者のひとり、ラジヴィウ公の紹介でした。
アダム・ミツキェヴィチ Adam Mickiewicz(1798-1855)
ポーランドを代表する国民的ロマン派詩人であり、政治活動家。
1832年にパリに移り住んだミツキェヴィチは1834年に著名ピアニスト、シマノフスカの娘と結婚している。
ショパンは、リトアニアと十字軍の戦いの中で活躍し、最後に裏切り者として処刑された騎士の物語がモチーフになっている彼の詩にインスピレーションを得て、 ト短調のバラード作品23を作曲した。 |
1834年にロシア皇帝は「ポーランド王」として、フランス領内に滞在中のポーランド人全員に旅券延長手続きの為のロシア大使館への出頭を要請しましたが、ショパンはこれに応じることなく、数年後にロシア政府から提案された「皇帝お抱え宮廷ピアニスト」の地位にも靡かずに、自らの運命は亡命者たちと共にあるという立場を明確にしました。
チャルトリスキ公は、1842年にフォブール・デュ・ロール通り(現在のフォブールサントノーレ通り)25番地からサン・ルイ島のセーヌ沿いに位置するランベール館を買い取って、パリに暫定的に樹立したポーランド亡命政府の拠点とし、館内で頻繁に会合やサロンを開いたり、慈善舞踏会やポーランドの国民記念行事を取りまとめます。以後、ランベール館は、革命詩人と呼ばれたミツキェヴィチをはじめ、パリ在住のさまざまな分野で活躍するポーランド亡命文化人たちの中心となりました。ショパンもランベール館に毎週通っては、度々、演奏を披露しています。
「ショパンのポロネーズ」ランベール館の舞踏会(1859)
テオフィル・クフィアトコフスキTeofil Kwiatkowski (1809‐1891)による油彩画 |
ランベール館
Hotel Lambert
2, rue Saint-Louis en l'ile
75004 Paris
地下鉄 :7号線Pont Marie ポン・マリ
1号線Saint-Paul サン・ポール下車
建築家、ルイ・ル・ヴォー Louis Le Vau(1612-1670) によって設計され、1640年頃に完成。
ランベール館の見取り図 (クリックで拡大) |
ルイ13世の秘書官、ランベールの私邸であったが、その後さまざまな所有者を経て、1842年にチャルトリスキ家の居館としてパリにおけるポーランド亡命政府の活動の拠点となった。
チャルトリスキ家以前の歴代所有者の一家族であった徴税請負人のデュパン家は、偶然にもショパンの恋人となるジョルジュ・サンドと縁戚関係にあたる。
1950年よりロスチャイルド男爵家の所有となっていたが、2007年の6月にカタール航空(アラブ湾岸カタール国の国営航空会社)によって8000万ユーロで買い取られた。
現在は残念ながら非公開。
ヘラクレス・ギャラリー
La Galerie d'Hercule
ランベール館の2階東側に位置する大回廊。
ヴェルサイユ宮殿の鏡の間も担当したシャルル・ル・ブランCharles Le Brun (1619-1690) による美しい天井画は1842年、ショパンの親しい友人、画家のドラクロワによって修復された。
チャルトリスキ家はここで、夜会や慈善バザーを主催し、ショパンも度々招かれて協力していた。
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ローザン館
Hotel Lauzun
Quai d'Anjou 17
75004 Paris
地下鉄 :7号線 Pont Marie ポン・マリ、1号線Saint-Paul サン・ポール下車
ルイ14世の側近、ローザン公爵の邸宅として、1656年から1657年頃に建てられた館。
内装は17世紀の個人宅としては最高の贅を極める。
チャルトリスキ大公がランベール館を購入した翌年、詩集『悪の華』で知られるシャルル・ボードレールCharles Baudelaire(1821‐1867)が移り住み、奔放な芸術家の溜り場となる。ボードレールはドラクロワが死去した直後に『ウジェーヌ・ドラクロワの作品と生涯』(1863)を発表した詩人。
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パリ・ポーランド歴史文芸協会
La Societe Historique et Litteraire Polonaise
6, quai d'Orleans
75004 PARIS
+33 (0)1 55 42 83 83
+33 (0)1 46 33 36 31
www.bibliotheque-polonaise-paris-shlp.fr
b.skrzypek@bplp.fr
地下鉄:7号線Pont Marie ポン・マリ、1号線Saint-Paul サン・ポール下車
博物館への見学は木曜の14時15分、15時、15時45分、16時半、17時15分 及び土曜の9時、10時、11時、12時
内部にはショパンやミツキェヴィチゆかりの品を展示した小さな博物館も。 |
ショパンが1833年から会員になっていたパリ・ポーランド歴史文芸協会本部。膨大な蔵書に加えて、フランスに移民してきたポーランド人たちの記録やポーランドが他国支配に対して提起したあらゆる文書のほか、貴重な美術品も保管されている。
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こうして、パリというヨーロッパで最もコスモポリタンな都市に生活していながら、パリのポーランド亡命社会に支えられて活動していたショパンの愛国心は、祖国再建の悲願のもとに高鳴り続け、ポーランドの民族精神とアーチストとしての創造力とが連動し、古典的であると同時に前衛的なショパン固有の作曲技法で独自の作風を確立していきました。
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