03.ショセ・ダンタン5番地 / サロンの繁栄
5, rue de la Chaussee d'Antin
75009 Paris 地下鉄 :7・9号線Chaussee d'Antin La Fayette ショセ・ダンタン・ラファイエット下車 1833 年6月から1836年9月まで 新しいシテ・ベルジェールの隠れ家のような住まいは狭くて日当たりが悪く、夏にはその蒸し暑さに閉口していたところ、ショパンは高級住宅街、ショセ・ダンタン5番地のアパートに住むヘルマン・フランク博士というドイツ人科学者と知り合い、彼の留守中、度々このアパートを間借りすることになります。当時、ショセ・ダンタンは金融界や実業界で成功した裕福なブルジョワ階級の居住区として、地理的な意味の他にパリで最も繁栄し、さらに変貌を遂げる新しい富と権力を象徴するエリアでした。ショパンは、博士のアパート解約をきっかけに洗練された趣味の家具を入れ、ワルシャワからの古い知り合い、アレクサンダー・ホフマン医師をルームメイトとして秋に正式に移転し、洗練された趣味の家具を入れたり高価な調度品と花々で飾って、名実共に上流社会の仲間入りを果たします。 ホフマン医師は主治医として、また保護者として、ショパンの健康管理に気を配る理想的な同居人でしたが、やがて地方に職を得てパリを離れていきました。代わりに、
フランスでは七月王政下の1830年から1840年代にかけて、イギリスに追随する産業革命により繊維業が好景気を迎えてファッション産業と結び付き、在庫を抱えた流行商店が百貨店の前身としてショセ・ダンタン周辺の大通りやパッサージュのアーケードに立ち並び、華やかな流行を生み出しました。このバザールが生まれた界隈は、現在もパリの重要なショッピング・スポットとして健在です。
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ショパンの時代、パリの社交界の中心となったのは、産業界で成功して富を得た、新興ブルジョワといわれる中産階級によるサロンでした。
サロンとは17世紀頃から発達した、宮廷や貴族の夫人の邸宅で互いの交流を深めるために開かれた社交の場です。
ショパンをはじめ、当時のコンポーザー=ピアニストはこの音楽サロンを拠点とし、批評家や出版者と交流して情報を得ながら政財界のトップと親交を深め、支持者や後援者を増やしたり弟子を獲得してそれぞれの活動の基盤を固めていきます。サロンは音楽家にとって自分の腕前を披露するだけでなく、あらゆるチャンスと出会う特別な場所でした。 それまでの音楽家はたいてい宮廷か政府か教会関係のいずれかに属し、契約には必ず老齢年金と遺族年金が含まれていましたが、雇用者としての貴族の宮廷が衰退し、度重なる革命で市民階級が台頭し始めると、市民生活における演奏団や合唱団が増加し、多くの音楽家が専門教育に必要とされて、市民の管轄化に組み込まれるようになります。さらに、ロマン派の時代になると芸術至上主義の風潮から音楽家の職業価値は高くなり、音楽家の需要は増え続ける一方でその保障制度はなかなか確立せず、19世紀半ばから音楽家を擁護する組合や団体が誕生するものの、本格的には浸透していませんでした。
作曲の才のみならず、サロンの
ショパンがワルシャワ時代からの庇護者のひとり、ラジヴィウ公の紹介で、ユダヤの大富豪、ロスチャイルド男爵家のサロンで演奏した際、男爵夫人からレッスンを依頼されてパリでピアノ教師として活動するきっかけとなったことは有名なエピソードになっていますが、永遠のライヴァル、リストと出会ったのはポトツカ伯爵夫人のサロン、長年の恋人となる6歳年上の女流作家、ジョルジュ・サンドと出会ったのは、当時リストの恋人であったマリー・ダグー伯爵夫人が主催していた音楽サロンでした。1836年にリストとスイスへの愛の逃避行からパリへ戻って来たマリー・ダグー伯爵夫人はラフィット通り23番地(現在のラファイエット通りとの交差点)にあったフランス館に居を構え、ほどなく同じ館内に移転してきたジュルジュ・サンドと共同でサロンを開いていたのです。ここにはリストやショパンの他に、作曲家のベルリオーズやドイツの詩人、ハインリッヒ・ハイネ、ショパンがバラードを
ジョルジュ・サンドの回想に依ると、ショパンの存在と才能は、人数の多い格式ばった社交界より、少人数のサロンにおいて最も光輝いていたようです。ショパンの珠玉の名作のほとんどは、サロンという親密な空間で演奏されることを想定して作曲されました。作品の中に投影されている知的で洗練されたショパン固有の美意識は、サロンに招待されるに相応しい教養ある聴き手にこそ理解され、受け入れられたのでしょう。こうして、社交界の寵児と謳われたショパンのパリでの生活は名実共にサロンを舞台に展開していきました・・・ |