パリ発ショパンを廻る音楽散歩

02.シテ・ベルジェール4番地 / オペラの全盛

2008/02/01
シテ・ベルジェール4番地 オペラの全盛
クリックで大きい地図(別窓) シテ・ベルジェール4番地
4, cité Bergère
75009 Paris
地下鉄(メトロ) : 8・9号線Grands Boulevards
グラン・ブルヴァール下車
1832年2月-1833年6月まで
シテ・ベルジェール4番地のプレート(現在はヴィクトリア・ホテルの一部)シテ・ベルジェール4番地のプレート(現在はヴィクトリア・ホテルの一部)
シテ・ベルジェールの入り口
シテ・ベルジェールの入り口
シテ・ベルジェール通路
シテ・ベルジェール通路

 パリで、ショパンは出版社との契約金や演奏・レッスンの謝礼で生計を立てていましたが、ポワソニエール大通りのアパートの5階までの階段がレッスンを受けに来る上流階級のご婦人方には不都合なことから、ポワソニエール大通りから歩いて10分足らずの大きな中庭が道になっている、シテ・ベルジェール内の階段をひとつ上がるだけのお部屋に引っ越しました。

ヴィクトリア・ホテルヴィクトリア・ホテル
Hôtel Victoria**
2 Bis Cité Bergère
75009 PARIS
TEL +33 (0)1 47 70 20 01
FAX +33 (0)1 48 01 08 43
地下鉄 :8・9号線Grands Boulevards
グラン・ブルヴァール下車

 現在はヴィクトリアという二つ星ホテルになっています。
此処にはショパンと同じ頃、ユダヤ人差別を逃れてパリへやってきたドイツの詩人、ハインリッヒ・ハイネも1836年から1838年にかけて、向かいの3番地に居住していました。

ショパン・ホテル 入り口ショパン・ホテル
Hôtel Chopin**
10, Boulevard Montmartre
46, Passage Jouffroy
75009 Paris
TEL +33 (0)1 47 70 58 10
FAX +33 (0)1 42 47 00 70
http://www.hotel-chopin.com
地下鉄 : 8・9号線Richelieu-Drouot
リシュリュウ・ドウルオ下車下車

 ショパンの住んでいたシテ・ベルジェールのすぐ近く、1847年以来、存在しているパッサージュ・ジョフロワ内にショパンと名付けられたプチ・ホテルがあります。
中に入ると、アップライト・ピアノの上にショパンの像が在る...
中に入ると、アップライト・ピアノの上にショパンの像が在る...
シャルチエ・レストラン内部シャルチエ・レストラン
Restaurant : Bouillon Chartier
7, rue du Faubourg Montmartre
75009 Paris
地下鉄 : 8・9号線Grands Boulevards
グラン・ブルヴァール下車
TEL +33 (0)1 47 70 86 29
http://www.restaurant-chartier.com
メイル : direction@restaurant-chartier.com
予約: bouillon.chartier@wanadoo.fr

シャルチエ・レストラン入り口 創業1896年、フォブール・モンマルトル通り沿いのシテ・ベルジェール向かいに位置する、19世紀の雰囲気をそのまま残した伝統あるレストラン。
フランスの詩人で、20世紀のシュルレアリスム文学に大きな影響を与えた『マルドロールの歌Les Chants de Maldoror』の作家として名高いロートレアモン伯爵Le Comte de Lautréamont1846-1870)が謎の死を遂げた場所としても知られている建物。

オペラ

 フランスでは、歴史的に音楽は独立したものではなく、宗教儀式や演劇と結びついて発達してきましたが、19世紀前半のパリはヨーロッパの代表的なオペラ都市として、黄金期を迎えていました。軽妙で喜劇的内容のオペラ・コミックに対して新たに生まれた、大規模な合唱やバレエと豪華絢爛な舞台装置によるグランド・オペラという様式がパリ全体を風靡して、さまざまな国籍の作曲家がパリを拠点に活躍していました。
中でも、ドイツ出身のマイヤベーア(1791-1864)とイタリア生まれのロッシーニ(1792-1868)の人気は圧倒的で、モーツァルトの死の翌年に生まれたロッシーニの評判は、その後継者としてロマン派初期のヨーロッパ全土を駆け廻り、ベル・カント唱法の巨匠としてロッシーニ旋風を巻き起こしていました。ロッシーニは1824年から1836年に至る最後の活動期をイタリア座の総支配人としてパリに定住し、本質的には古典派として、当時の主流になりつつあったロマン派の理念や題材に18世紀の精神と思想を導入して継続させようと考えていた作曲家でしたが、1829年にパリで初演されたオペラ『ウィリアム・テル』において駆使した管弦楽の新しい手法でロマン主義的な色合いや雰囲気を表現し、その後のフランス・グランド・オペラに多大な影響を与えることになりました。彼はコロラトゥーラ(ソプラノによって表現されるトリルのような技巧的で華やかな装飾)の究極美を追及すると同時に、朗唱的な表現に重点をおいたレチタティーヴォにも豊かな音楽的生命を与え、モーツァルトが展開したオペラ・ブッファの伝統を継承しながらも初期ロマン派に位置づけられる重要な作曲家として音楽史上にその名を留めました。

イタリア劇場内部~出演者への喝采?(1842)E.ラミによるリトグラフ(※クリックで大きい画像)
イタリア劇場内部~出演者への喝采~(1842)E.ラミによるリトグラフ


終演後のオペラ座(1842)E.ラミによるリトグラフ(※クリックで大きい画像)
終演後のオペラ座(1842)E.ラミによるリトグラフ

 一方、ドイツに生まれ、1825年以降、パリへ活動の場を移してフランスのグランド・オペラの立役者となったマイヤベーアは、1831年にオペラ座監督に任命されて国から多額の補助金を得ることに成功したルイ・ヴェロンの新しい経営方針の下、豪華絢爛な舞台装置と壮大なオーケストレーションによる5幕オペラ『悪魔のロベール』や『ユグノー教徒』などの典型的グランド・オペラ形式の作品を発表して絶賛され、興行的にも大成功を収めます。彼は、ドイツ風の重厚な和声とイタリア歌唱的な旋律を得意としてスター歌手による声の饗宴とシンフォニックで壮大な構想による作品で一大センセーショナルを捲き起こし、当時のフランスで最も影響力のあるオペラ作家となりました。

 オペラは主にイタリア座、国立オペラ座、オペラ=コミックの3つの劇場で上演され、イタリア座は特権階級が通うパリで最もエレガントな劇場として、貴族の社交サロン的な役割も果たしながら、10月1日から3月いっぱいの火、木、土の曜日にイタリア・オペラを、ブルジョワ階級も集う国立オペラ座ではもう少し長い6月前後までを公開シーズンとして毎週月・水・金・日の曜日にグランド・オペラを上演していましたが、週末の金曜日に鑑賞するのが最先端でした。流行のドレスに身を包み、香水の香りを漂わせながら鑑賞し、幕間には歌い手や作品の評価と共に、社交界の噂話に花を咲かせ、それぞれに情報を交換するのが常でした。ボックス席の値段は10フラン前後で、社交界の名士たちは定期会員としてたいていボックス席をひとつ、年間契約で借りていました。それに対してオペラ=コミック座は、上流階級に反発する中流ブルジョワたちを常連に、フランス風エスプリを湛えた国内作品のみに限定して上演していました。
ショパンが早い時期からオペラに親しみ、パリでは毎晩のように劇場に通って声のヴィルトゥオーゾたちに心酔していたことが友人や家族宛ての手紙を通して既に周知のことですが、私生活でも、彼の身近には常に歌姫の存在がありました。ピアノ協奏曲第2番の2楽章はワルシャワ音楽院の声楽科に在学していた初恋の相手、コンスタンツィア・グウァドコフスカへのラヴ・レターといわれていますが、生涯の友情を結ぶプリマ・ドンナのヴィアルドや死の床にあったショパンに乞われて歌ったというパリでのショパンの後見者のひとり、デルフィナ・ポトツカ伯爵夫人も素晴らしい声の持ち主だったといわれています。
パリでショパンの自宅を訪ねたマイヤベーアが、ショパンの4分の3拍子のマズルカを4分の4拍子と主張して言い争ったエピソード(『パリのヴィルトゥオーゾたち』88ページ参照)は今なお語り継がれていますが、パリ到着後、ショパンは相次いで知遇を得たマイヤベーアやロッシーニ、ベッリーニ(1801-1835)などのパリを代表する花形オペラ作家と個人的にも親交を深めました。当時の作曲家のほとんどがパリでオペラを上演して成功することを夢見ていたにもかかわらず、また、祖国ポーランドを代表するような国民的なオペラ作家になって欲しいというワルシャワ音楽院での恩師、エルスナーの願いも空しく、ショパンは生涯、一曲もオペラを残さず、代わりにオペラからヒントを得たさまざまな声のテクニックをピアノという楽器を通して表現する道を選びました。ショパンの作品には、イタリア・オペラのベル・カント唱法を思わせるメロディーの合間に、あたかもコロラトゥーラ・ソプラノによる転がす様なパッセージが随所に散りばめられ、メロディーと同等の価値を放って輝いています・・・


パリ・オペラ座
パリ・オペラ座(パレ=ガルニエ) パリ・オペラ座(パレ=ガルニエ)
Opéra nationale de Paris
Palais-Garnier
place de l'Opéra
75009 Paris
地下鉄(メトロ):3・7・8号線Opéraオペラ下車
郊外線RER:A線 Auberオベール下車
存在自体が美術品と云われるパレ・ガルニエ内部
存在自体が美術品と云われるパレ・ガルニエ内部
毎日10時から16時半まで劇場内見学可
(所要時間約2時間・入場料8ユーロ)

ナポレオン3世による19世紀後半の大規模なパリ都市改造計画の象徴としてシャルル・ガルニエの手で完成され、1875年の開場以来、壮麗な外観や大理石をふんだんに使った内装とシャガールの天井画(1964)で常に観客を魅了してきた現在のパリ・オペラ座(2156席)。

建築家カルロス・オット設計のオペラ・バスティーユ
建築家カルロス・オット設計のオペラ・バスティーユ
オペラ・バスティーユ
Opéra Bastille
120, rue de Lyon
75012 Paris
地下鉄(メトロ): 1・5・8号線Bastille バスティーユ下車
劇場内見学可
(所要時間約2時間・入場料8ユーロ)
問い合わせ+33 (0)1 40 01 19 70

一方、より近代的な機能を備えた迫力あるステージで聴衆を魅了しているのは1989年に新しく誕生したオペラ・バスティーユ(2700席)。
オペラ座の演目はこの2つのオペラ座で分担して上演され、シーズンは9月下旬に始まり、翌年の7月中旬に終了 しますが、年間プログラムは例年4月頃にオペラ座のホームページにアップされます。

旧イタリア座(サル・ヴァンタドール)
旧イタリア座(サル・ヴァンタドール)
かつてのイタリア座(1833)
かつてのイタリア座(1833)
Ancien Théâtre des Italiens (Salle Ventadour)
3 rue Dalayrac(rue Méhul) 75002 Paris


1829年に建てられたジャンージャック・マリー・ユヴェの設計による幅34,5メートル、長さ52メートルの1700席の長方形の劇場で、正面の通りの名からサル・ヴァンタドールと呼ばれていた。パリで最も優雅な劇場として名高く、贅を凝らしたロビーや階段の造りと馬蹄形の美しい客席は劇場というよりサロンのような趣で、エリートたちはここのボックス席を購入することをステイタスにしていた。
現在はフランス銀行の社員食堂となり、馬車から雨に濡れずに会場へ入れるようになっていた外観は昔の面影を偲ばせるが、当時の栄華を思うとなんとなく侘しげな雰囲気も感じられる旧イタリア座。

オペラ・コミック(サル・ファヴァール)
オペラ・コミック(サル・ファヴァール) Théâtre national de l'Opéra-Comique(Salle Favart)
5, rue Favart
75002 Paris
TEL +33 (0)8 25 01 01 23
予約+33 (0)1 42 44 45 47
http://www.opera-comique.com
地下鉄(メトロ):8・9号線Richelieu Drouotリシュリュウ・ドゥルオ下車
3号線Quatre-Septembreキャトル・セプタンブル下車


 1783年に創設され、劇作家で初代の支配人だったシャルル・シモン・ファヴァール氏の功績に敬意を表して、サル・ファヴァールと呼ばれた。
主としてイタリア座の上演劇場であったが、ショパンは此処で1833年の4月2日に、ベルリオーズが熱愛していたハリエット・スミッソンの事故の為に開いた救済演奏会でリストと共演し、1835年4月5日にはチャルトリスカ夫人の主催による亡命ポーランド人のための慈善演奏会でピアノ協奏曲ホ短調を演奏している。1838年に焼失した後、1840年よりオペラ・コミック座の本拠地となる。1887年の2度目の火災によって再び焼失し、現在の建物は1898年に開場したベルニエLouis Bernier設計による1330席の劇場。2005年1月、オペラ=コミック座は、国立オペラ=コミック劇場(Théâtre national de l'Opéra-Comique)となり、その演目はオペラや演劇からコンサートまで、多岐にわたる。

中野真帆子
なかのまほこ◎4歳よりピアノを始め、10歳の時、NHK教育TV「ピアノのおけいこ」にレギュラー出演。ウィーン国立音楽芸術大学を経て、パリ・エコールノルマル音楽院コンサーティストを審査員全員一致で修了後、カナダ・バンフセンターにて研鑽を積む。ロヴェーレ・ドーロ国際音楽コンクール優勝をはじめ、アルベール・ルーセルピアノ国際音楽コンクール第4位、及びルーセル賞、マスタープレイヤーズ国際音楽コンクールピアノ部門第1位など、ヨーロッパ各地のコンクール入賞を機に、ソリスト・室内楽奏者としてアジア・カナダ・ヨーロッパの音楽祭に参加。帰国後はフェリス女学院大学音楽学部で後進の指導にあたる傍ら、国内外での演奏、各種コンクールの審査員、TV・ラジオへのメディア出演、音楽雑誌への執筆・翻訳など、多方面で活躍し、2016年秋に国連帰属の世界公益同盟より日本人として初めてのメダル受章。著書に『ショパンを廻るパリ散歩』(2009)、翻訳書に『パリのヴィルトゥオーゾたち』(2004)、『ショパンについての覚え書き』(2006)、録音にキングインターナショナルより『LIVE』(2015)、『ロマンチック・タイム』(2016)。◆ Webサイト
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