フランスでは、歴史的に音楽は独立したものではなく、宗教儀式や演劇と結びついて発達してきましたが、19世紀前半のパリはヨーロッパの代表的なオペラ都市として、黄金期を迎えていました。軽妙で喜劇的内容のオペラ・コミックに対して新たに生まれた、大規模な合唱やバレエと豪華絢爛な舞台装置によるグランド・オペラという様式がパリ全体を風靡して、さまざまな国籍の作曲家がパリを拠点に活躍していました。
中でも、ドイツ出身のマイヤベーア(1791-1864)とイタリア生まれのロッシーニ(1792-1868)の人気は圧倒的で、モーツァルトの死の翌年に生まれたロッシーニの評判は、その後継者としてロマン派初期のヨーロッパ全土を駆け廻り、ベル・カント唱法の巨匠としてロッシーニ旋風を巻き起こしていました。ロッシーニは1824年から1836年に至る最後の活動期をイタリア座の総支配人としてパリに定住し、本質的には古典派として、当時の主流になりつつあったロマン派の理念や題材に18世紀の精神と思想を導入して継続させようと考えていた作曲家でしたが、1829年にパリで初演されたオペラ『ウィリアム・テル』において駆使した管弦楽の新しい手法でロマン主義的な色合いや雰囲気を表現し、その後のフランス・グランド・オペラに多大な影響を与えることになりました。彼はコロラトゥーラ(ソプラノによって表現されるトリルのような技巧的で華やかな装飾)の究極美を追及すると同時に、朗唱的な表現に重点をおいたレチタティーヴォにも豊かな音楽的生命を与え、モーツァルトが展開したオペラ・ブッファの伝統を継承しながらも初期ロマン派に位置づけられる重要な作曲家として音楽史上にその名を留めました。
イタリア劇場内部~出演者への喝采~(1842)E.ラミによるリトグラフ
終演後のオペラ座(1842)E.ラミによるリトグラフ |
一方、ドイツに生まれ、1825年以降、パリへ活動の場を移してフランスのグランド・オペラの立役者となったマイヤベーアは、1831年にオペラ座監督に任命されて国から多額の補助金を得ることに成功したルイ・ヴェロンの新しい経営方針の下、豪華絢爛な舞台装置と壮大なオーケストレーションによる5幕オペラ『悪魔のロベール』や『ユグノー教徒』などの典型的グランド・オペラ形式の作品を発表して絶賛され、興行的にも大成功を収めます。彼は、ドイツ風の重厚な和声とイタリア歌唱的な旋律を得意としてスター歌手による声の饗宴とシンフォニックで壮大な構想による作品で一大センセーショナルを捲き起こし、当時のフランスで最も影響力のあるオペラ作家となりました。
オペラは主にイタリア座、国立オペラ座、オペラ=コミックの3つの劇場で上演され、イタリア座は特権階級が通うパリで最もエレガントな劇場として、貴族の社交サロン的な役割も果たしながら、10月1日から3月いっぱいの火、木、土の曜日にイタリア・オペラを、ブルジョワ階級も集う国立オペラ座ではもう少し長い6月前後までを公開シーズンとして毎週月・水・金・日の曜日にグランド・オペラを上演していましたが、週末の金曜日に鑑賞するのが最先端でした。流行のドレスに身を包み、香水の香りを漂わせながら鑑賞し、幕間には歌い手や作品の評価と共に、社交界の噂話に花を咲かせ、それぞれに情報を交換するのが常でした。ボックス席の値段は10フラン前後で、社交界の名士たちは定期会員としてたいていボックス席をひとつ、年間契約で借りていました。それに対してオペラ=コミック座は、上流階級に反発する中流ブルジョワたちを常連に、フランス風エスプリを湛えた国内作品のみに限定して上演していました。
ショパンが早い時期からオペラに親しみ、パリでは毎晩のように劇場に通って声のヴィルトゥオーゾたちに心酔していたことが友人や家族宛ての手紙を通して既に周知のことですが、私生活でも、彼の身近には常に歌姫の存在がありました。ピアノ協奏曲第2番の2楽章はワルシャワ音楽院の声楽科に在学していた初恋の相手、コンスタンツィア・グウァドコフスカへのラヴ・レターといわれていますが、生涯の友情を結ぶプリマ・ドンナのヴィアルドや死の床にあったショパンに乞われて歌ったというパリでのショパンの後見者のひとり、デルフィナ・ポトツカ伯爵夫人も素晴らしい声の持ち主だったといわれています。
パリでショパンの自宅を訪ねたマイヤベーアが、ショパンの4分の3拍子のマズルカを4分の4拍子と主張して言い争ったエピソード(『パリのヴィルトゥオーゾたち』88ページ参照)は今なお語り継がれていますが、パリ到着後、ショパンは相次いで知遇を得たマイヤベーアやロッシーニ、ベッリーニ(1801-1835)などのパリを代表する花形オペラ作家と個人的にも親交を深めました。当時の作曲家のほとんどがパリでオペラを上演して成功することを夢見ていたにもかかわらず、また、祖国ポーランドを代表するような国民的なオペラ作家になって欲しいというワルシャワ音楽院での恩師、エルスナーの願いも空しく、ショパンは生涯、一曲もオペラを残さず、代わりにオペラからヒントを得たさまざまな声のテクニックをピアノという楽器を通して表現する道を選びました。ショパンの作品には、イタリア・オペラのベル・カント唱法を思わせるメロディーの合間に、あたかもコロラトゥーラ・ソプラノによる転がす様なパッセージが随所に散りばめられ、メロディーと同等の価値を放って輝いています・・・
パリ・オペラ座
パリ・オペラ座(パレ=ガルニエ)
Opéra nationale de Paris
Palais-Garnier
place de l'Opéra
75009 Paris
地下鉄(メトロ):3・7・8号線Opéraオペラ下車
郊外線RER:A線 Auberオベール下車
毎日10時から16時半まで劇場内見学可(所要時間約2時間・入場料8ユーロ)
ナポレオン3世による19世紀後半の大規模なパリ都市改造計画の象徴としてシャルル・ガルニエの手で完成され、1875年の開場以来、壮麗な外観や大理石をふんだんに使った内装とシャガールの天井画(1964)で常に観客を魅了してきた現在のパリ・オペラ座(2156席)。
オペラ・バスティーユ
Opéra Bastille
120, rue de Lyon
75012 Paris
地下鉄(メトロ): 1・5・8号線Bastille バスティーユ下車
劇場内見学可(所要時間約2時間・入場料8ユーロ)
問い合わせ+33 (0)1 40 01 19 70
一方、より近代的な機能を備えた迫力あるステージで聴衆を魅了しているのは1989年に新しく誕生したオペラ・バスティーユ(2700席)。
オペラ座の演目はこの2つのオペラ座で分担して上演され、シーズンは9月下旬に始まり、翌年の7月中旬に終了
しますが、年間プログラムは例年4月頃に オペラ座のホームページにアップされます。 |
旧イタリア座(サル・ヴァンタドール)
かつてのイタリア座(1833) |
Ancien Théâtre des Italiens (Salle Ventadour)
3 rue Dalayrac(rue Méhul) 75002 Paris
1829年に建てられたジャンージャック・マリー・ユヴェの設計による幅34,5メートル、長さ52メートルの1700席の長方形の劇場で、正面の通りの名からサル・ヴァンタドールと呼ばれていた。パリで最も優雅な劇場として名高く、贅を凝らしたロビーや階段の造りと馬蹄形の美しい客席は劇場というよりサロンのような趣で、エリートたちはここのボックス席を購入することをステイタスにしていた。
現在はフランス銀行の社員食堂となり、馬車から雨に濡れずに会場へ入れるようになっていた外観は昔の面影を偲ばせるが、当時の栄華を思うとなんとなく侘しげな雰囲気も感じられる旧イタリア座。 |
オペラ・コミック(サル・ファヴァール)
Théâtre national de l'Opéra-Comique(Salle Favart)
5, rue Favart
75002 Paris
+33 (0)8 25 01 01 23
予約+33 (0)1 42 44 45 47
http://www.opera-comique.com
地下鉄(メトロ):8・9号線Richelieu Drouotリシュリュウ・ドゥルオ下車
3号線Quatre-Septembreキャトル・セプタンブル下車
1783年に創設され、劇作家で初代の支配人だったシャルル・シモン・ファヴァール氏の功績に敬意を表して、サル・ファヴァールと呼ばれた。
主としてイタリア座の上演劇場であったが、ショパンは此処で1833年の4月2日に、ベルリオーズが熱愛していたハリエット・スミッソンの事故の為に開いた救済演奏会でリストと共演し、1835年4月5日にはチャルトリスカ夫人の主催による亡命ポーランド人のための慈善演奏会でピアノ協奏曲ホ短調を演奏している。1838年に焼失した後、1840年よりオペラ・コミック座の本拠地となる。1887年の2度目の火災によって再び焼失し、現在の建物は1898年に開場したベルニエLouis Bernier設計による1330席の劇場。2005年1月、オペラ=コミック座は、国立オペラ=コミック劇場(Théâtre national de l'Opéra-Comique)となり、その演目はオペラや演劇からコンサートまで、多岐にわたる。 |
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