01.ポワソニエール大通り27番地 / 七月革命の余波
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ショパンがワルシャワで幸せな幼年期を送っていた1814年以降、パリではルイ18世による、フランス大革命以来の王政が復活していました。ルイ18世というのは、大革命でマリー・アントワネットと共に処刑されたルイ16世の弟で、かつてプロヴァンス伯と呼ばれていた人物です。1789年の大革命によって共和制に移行したフランスは、ナポレオンの出現によって軍事独裁政権となります。ナポレオンは縦横無尽に活躍し、ヨーロッパ中を征服しますが、次第に勢力を弱め、周囲の圧力によって退位を迫られます。ナポレオンによって混乱したヨーロッパの後始末をするために、近隣諸国が開いたのがウィーン会議です。この会議によってフランス国内を再生するために諸外国から支持を受けたのが、ブルボン王朝直系のルイ18世による王政の復活でした。 さらに、1824年にルイ18世の後を継いだ弟のアルトワ伯がフランス王・シャルル10世 を名のり、まるで大革命以前の状態に逆行するような貴族や聖職者を優遇する政策を とり始めて、新興ブルジョワと呼ばれる中産階級や一般市民の反感を高めます。シャルル10世は、それに拍車をかけるように1830年の7月に出版の自由を停止し、大幅な選挙権の縮小を命ずる勅令を発しました(七月勅令)。この勅令に反発した民衆が立ち上がって3日間にわたる武装蜂起によって王政を倒したのが、七月革命です。ショパンがポーランド出国を目前に控えた年のことでした。
この結果、国王シャルルはイギリスに亡命し、共和派の反対を押しきって大資本家に支持されたオルレアン家(ブルボン家の分家)のルイ=フィリップが即位して立憲君主制の七月王政を成立させます。 「フランス人民の王」と称したルイ・フィリップは、実質的にはブルジョワを擁護する王で在った為、市民たるブルジョワジーの不満は徐々に解消されていきます。このフランス7月革命の影響は各国に波及し、ポーランドではロシア帝国による支配に対しての不満という形で民族主義者や自由主義者がワルシャワで蜂起(十一月蜂起)して革命政府を樹立し、1831年1月に独立を宣言しましたが、同年9月にロシア大軍によって再び占領され、以後、ポーランドの民族 運動は徹底的に弾圧されることになりました。ショパンが、パリに向かう途中のシュ トゥットゥガルトでワルシャワ陥落の報を聞き、その衝撃から「革命」のエチュードを作曲したことは有名なエピソードになっています (PTNAピアノ曲事典参照)。 ショパンが到着した頃のパリは、このように七月革命の余熱がまだ残り、あらゆる主義や主張が錯綜し、至るところで暴動が発生する一方、人々は自由への期待でいっぱいで、最高の贅沢と悪徳の氾濫する それに加え、パリでは現在でも居住地が階級によって分かれていますが、当時、ショパンの住んだアパートは、西のマドレーヌ寺院から東のサン・ドニ門を結ぶ、大きな並木道と遊歩道を備えたグラン・ブルヴァールと呼ばれるパリでもっとも賑やかな大通りのひとつに面し、西に向かえば銀行家や実業家の住む、流行の最先端をいくカフェや大劇場の集まる区域、東に向かえば職人や労働者の住む、芝居小屋が立ち並ぶ庶民たちの歓楽街という、中産階級と労働者階級の境に位置する刺激的なエリアでした。 ショパンはこのポワソニエール大通り27番地を出発点に、スターダムへの階段を昇り始めます・・・自室5階へのアパルトマンの階段と共に! |