耳をひらく~第5章:統合力&創造力(4)音の断片に未来を見出す
音楽には、音楽になる前の時間がある。はじめはすべて、音の断片であった。作曲家の感性と思考によって、その断片同士がつながり、一つの流れができ、ある時点で終止符が打たれ、楽曲という形が完成する。その時間的推移の中で、断片はさまざまな形に変化していく。
ではその断片には、何が投影されていたのだろうか?それはまだはっきりとした形をなしてはいない、エネルギーの源のようなものである。湧き上がる情熱。溢れ出る愛。踊り出したくなるような喜び。軽い冗談。漠然とした不安。衝動的な怒り。ふと感じる哀愁。深い祈り。心の開放と許し。新しい音色やリズムの発見。自然への感謝。すぐには解けない疑問。言葉にならない信念。一筋の希望。うっすらとした予感。ちょっと奇抜なアイディア。革新的な試み。未来への問いかけ・・・等など。こうした瞬間的で原始的で純粋なインスピレーションやエモーションの源を、我々はどこまで捉えられるだろうか。
このことを思う時、いつかフランスで行われた催し物を思い出す。2008年秋、ピエール・ブーレーズがプロデュースした『断片(fragments)』という企画展だ。これをテーマにした演奏会、映像上映、展示会、パネルディスカッションなどが、ルーブル美術館で行われた。作曲家やアーティストが残した断片とは何か。たしか副題には次のように書かれてあった。
"断片化する世界を表現する芸術。どこから生まれ、どこへたどり着くのか。完成することを拒んでいるのか、あるいは時空間にしばられずに開かれているのか?"
特設展では、作曲家ストラヴィンスキー、バルトーク、ベリオ、ブーレーズなどの草稿や、画家ドラクロワ、カンディンスキー、ピカソ、クレーなどの素描や習作が展示されていた。どれも"断片"である。
ストラヴィンスキー『春の祭典』に関するノートなどは147ページに及び、様々な楽想が音符や文字で走り書きしてあった。こうした断片の数々が作曲家の頭の中で行き交い、膨らみ、整えられ、あの曲に繋がったのである。またブーレーズ自身が3回に渡って書きなおした楽譜『Le visage nuptial』(version1946, 1948/1951-53, 1986-89)が展示されており、自分自身こそがまだ変容の可能性を秘めた断片なのだ、と静かに訴えているようだった。
またこのプロジェクトのための特別企画演奏会も開かれ、ルーブル美術館とルツェルン音楽祭アカデミーが若手作曲家に委嘱した4曲と、モーツァルトやバルトークなど4曲が演奏された。とくに面白かったのが委嘱作品『金管楽器8重奏による飛翔』(O.Adamek)。金管の音がうねり、膨らみ、縮み、絡み合い、拡散し、次第に音の断片が音色となって流れてゆき・・・気がつくと、ルネサンス期の作曲家ジョバンニ・ガブリエーリ『金管楽器8重奏によるカンツォーネ』になるという構成だった。
これらを見て思ったこと。断片とは、全体から切り離されたものではなく、全体を生み出していく根源なのである。それ自身に力が宿っており、自由に変容したり、お互いに結びつくことによって、姿形を変えながらも新しい世界観がゆるやかに創られていく。形になる前の断片や、形になる過程で消えた断片にこそ、そうした原始的な創造のエネルギーが宿っているのではないか、と問いかけられているようだった。
なおドラクロワやピカソの習作には、視覚がとらえた対象物のエネルギーが、そのまま形に置き換えられたプロセスが見られた。後にはそのプロセス自体が芸術様式となり、より純粋で単純化された表現方法が生まれていった。断片そのものが力となった瞬間である。
人は胎内にいる時から、多くの音を受けとっている。自分のいる空間がどのようなものか、どこに向かっているのかを感じとっているのは、聴覚である。音の断片や空間全体からさまざまな情報を感じ取っているのだ。空間にはまだ認知・表現されていない音が多く存在する。作曲家はそれらを鋭敏な感覚で感じ、読み解き、予感し、音に託した。さまざまな空間で聴き取った音の断片が、いつしか脳内で融合し、新しい音として生まれ変わる。その時には認知されてないハーモニーや不協和音とされた和音にも、新しい美を感じて音楽に織り込んでいった。
たとえばストラヴィンスキーは、異教の大掛かりな祭事の光景(『春の祭典』)や、吊ひもを解かれたあやつり人形の姿(『ペトル―シュカ』)が、ある日ふと思い浮かび、頭から離れなくなったという。
“耳に聞こえてきたものを信じ自分の耳だけが頼りであった。私はよく聴き、そしてまさに聞こえてきたものを書いたのである。”
(ヴォルフガング デームリング著、長木誠司訳『大作曲家 ストラヴィンスキー』p56、音楽之友社、2001年)
作曲家の内的世界に鳴り響いた音は、はじめはとても小さくて曖昧な断片だったかもしれない。外の世界へ解き放つのに戸惑ったかもしれない。でもそれを丁寧に拾い上げ、結びつけ、形にしていった。一つの音、一つの和音、一つのフレーズ・・・。それが、今我々の心にすっと入ってくるのである。
まもなく新刊『音楽で未来型人材を育てる!5つのリベラルアーツ・マインドを学ぶ(仮題)』が、アルテスパブリッシング社より出版されます。どうぞお楽しみに!
“古今東西の芸術作品には、過去の音楽家や芸術家が発揮してきた才能や感性の断片が刻まれている。彼らは鋭い感性をもって、多くの人が気づかない音色や色彩を発見し、自己や他人の心像風景を読み解き、世の中の動きを察知し、物事の本質や自然の摂理を見抜き、作品を通して人々に伝えた。音楽や芸術の歴史とは、それらが積み重なってできた人類記憶の宝庫であり、さらには「新しい未来を創造したい」という想念も刻まれている。そこに、これからの時代を生き抜くヒントがあるのではないだろうか? 本書では、「未来世代はどんなマインドや思考を、教養として身につけるべきか」 を5つ挙げた。過去の音楽家の作品や生き様からヒントを得ながら、未来社会を考えるきっかけにできれば幸いである。”(まえがきより)
- 第5章 ③
- 第5章 ⑤
音楽ジャーナリストとして各国を巡り、国際コンクール・音楽祭・海外音楽教育などの取材・調査研究を手がける。『海外の音楽教育ライブリポート』を長期連載中(ピティナHP)。著書に『ハーバードは「音楽」で人を育てる~21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』(アルテスパブリッシング・2015年)、インタビュー集『生徒を伸ばす! ピアノ教材大研究』(ヤマハミュージックメディア・2013年)がある。上智大学外国語学部卒業。在学中に英ランカスター大学へ交換留学し、社会学を学ぶ。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会勤務を経て現職。2007年に渡仏し「子どもの可能性を広げるアート教育・フランス編」を1年間連載。ピアノを幼少・学生時代にグレッグ・マーティン、根津栄子両氏に師事。全日本ピアノ指導者協会研究会員、マレーシア・ショパン協会アソシエイトメンバー。 ホームページ:http://www.erikosugano.com/