海外の音楽教育ライブリポート/菅野恵理子

耳をひらく~第5章:統合力&創造力(3)新しい音空間に向き合う

2017/09/01
何を聴いている?~グローバル時代のための聴力
5
統合力&創造力
③新しい音空間に向き合う
新しいテーマに向き合うとき

私たちは日々新しい現実に向き合っている。新しい曲に向き合う時、新しく何かに出会う時、新しい進路に進む時、今までの学びをどう統合して活かせばいいのだろうか?そうした現実に近い状態を創り出しているのが、エリーザベト王妃国際コンクールである(参考:2010年度ピアノ部門ファイナル2012年度ヴァイオリン部門ファイナル)。

ファイナル課題は新曲コンチェルトであるが、これはファイナル8日前に初めて告示される。ファイナリストたちはブリュッセル郊外の音楽学校兼寄宿舎に移動し(電話やPCなどの通信手段はすべて遮断)、今までの経験や知識を活かして、自らの力で新曲に取り組むことになる。とはいえ解釈を深めていくプロセスにおいて、作曲家と話し合ったり、ファイナリスト同志で意見交換することはできる。その環境をどのように活かすかは、各個人にゆだねられる。(参考:「作曲家が毎日来訪してアドバイス」(1989年ヴァイオリン部門第2位・諏訪内晶子さん、「食事中にも皆と議論し、8日間を楽しんだ」(2010年ピアノ部門ファイナリスト・佐藤卓史さん)

そして8日後。毎晩2人ずつブリュッセル市内のホールに戻ってファイナル本番を迎えるわけだが、一人一人が異なる個性と解釈をもって臨んでくるので、同じ曲でありながらまったく違う演奏に仕上がっている。これが聴衆にとっても刺激的で面白い!

作曲者は、楽譜をきちんと読み取った上で、多様な解釈が出てくることを期待しているようだ。「楽譜に書かれてあることを守りながら、各自の解釈を」(2012年ファイナル課題曲作曲者 酒井健治さん)、「全体の中でピアノ(自分)をどう活かすかを考えて」(2013年ファイナル課題作曲者 ペトロシアンさん)と述べている。

一方演奏者は、「音楽に何が書かれているかを読み取り、自分の体験と結びつけた」(2009年ヴァイオリン部門優勝 レイ・チェンさん)と自分の感覚を信じる強さが、自然に独自の表現へ結びついた。同年セミファイナル課題曲を作曲したクロード・ルドゥ氏は、「それぞれの音楽的体験・人間的経験知を踏まえ、独自の表現を見出して」と、解釈や表現の多様性がもたらす豊かさを尊重している。(参考:「音楽知識と感覚を結びつけるアナリーゼとは」

新しいテーマに対し、どこまで自分の感覚・知識・技術をもって臨むことができるか、それを堂々と自分らしく表現できるか・・このファイナルはまさに統合的な課題といえるのだろう。

シンプルで根源的な問いを、答えに導くのは?

コンクールや試験などでは問いや選択肢が提示されるが、現実には選択肢だけでなく、問いすら提示されないことが多くある。自ら問いを作ることは、課題設定力や課題探求力ともいわれる。これが最も難しいのであるが、じつは現実に最も近い。

人はもともと、自我が芽生え始めた頃から問いを発している。「これなあに?」という素朴な疑問だ。五感がひらかれている子どもにとって、目や耳にするものすべてが目新しく、思わず聞かずにはいられない。自分がいる空間を理解するために問うのだ。幼少期にさまざまな音に囲まれていれば、いずれそれを受け入れ、理解するようになるだろう(参考:(第1章③「聴覚には何が聞こえている?」)、④「音楽がどう知覚されるのか?」)。

では、「火星人に人間をどう説明する?」「カタツムリに意識はある?」はどうだろうか?これらは、前回記事でご紹介した英国オックスフォード大学やケンブリッジ大学での入試問題である。まるで子どもの質問のように思えないだろうか?子どものように、シンプルで、無邪気で、それでいて根源的な問い。リアルな五感の存在を感じさせる問いだ。しかしその目的は、新しいものを知ることではなく、物事のとらえ方を掘り下げることにある。したがって、どれだけ多様な切り口で考えられるか、理論や知識だけでなく実践的な探求力をもっているか、という柔軟な思考力が問われる。

一見突飛な質問に見えるが、子どもだけでなく、大人もこのようなシンプルで根源的な問いをすることがある。「この時代をどう生きればいい?」「自分らしさとはなに?」「世界の未来はどうなるの?」「この曲はなぜ生まれたの?」等など。「問いかける」ということは、ごく普通のことなのだ。とはいえこのような問いかけに本気で向き合おうとすれば、膨大な暗記力が問われる問題よりも、ある意味難しいのかもしれない。

成長していくというのは、このようなシンプルで大きなテーマに、自分なりの問いや視点をもって向き合っていくこと。様々な分野での学びはそのためにあるのだろう。そしてそれらを最終的に統合するのは、自分の感覚である。そのことをこの問いは教えてくれる。

では、五感はどのような状態でひらかれ、気づきをもたらしてくれるのだろうか?以下に2つ引用したい。

"芸術でも科学でも、特に厄介な問題の答えの追求が、レーザー光線のような集中力を見せる左半球の能力では不可能なことがよくある。手持ちの論理をありったけ当てはめ続けているのに、問題は残ったままだ。そのとき、ふっと気が緩んだ瞬間や、何か全然関連のないことをしているとき、答えが突然、意識にひょいと浮かぶ。フランスの数学者アンリ・ポアンカレが、そうした体験を述べている。"
(レナード・シュレイン著、日向やよい訳『ダ・ヴィンチの右脳と左脳を科学する』p158、ブックマン社、2016年)。

"「よく学ぶ」のは、知識の習得である。記憶によってものを覚えるのである。休みなくこの記憶活動をしていると、あるいは、やがて知識飽和状態になる。そのまま放っておくと知識過多、知的メタボリック・シンドロームになる。勉強ばかりしている優等生になる。そうした事態を避けるには、「よく遊ぶ」のが、もっとも有効になる。「よく遊ぶ」あいだは、「よく学んだ」ことを一部、忘れることができる。頭の中のものを整理するのが忘却だから、よく学んでいくらか固くなった頭を、遊びによってゆるめる。そのあと、頭は爽快になって、新しいことをとり入れることが容易になる。"
(『忘れる力、思考への知の条件』p30、外山滋比古著、さくら舎、2015年)

つまり、「よく学び、よく遊べ」である。ふと思考がゆるんだすき間に、新たな発想が浮かぶ。これは聴覚とも連動していて、真剣に考えている最中は何も耳に入ってこないかもしれないが、ふと力を緩めてリラックスすると、自然の音や自分の心の声が聞こえてきたりする。そこに新たな気づきがあるかもしれない。

INDEX

菅野 恵理子(すがのえりこ)

音楽ジャーナリストとして各国を巡り、国際コンクール・音楽祭・海外音楽教育などの取材・調査研究を手がける。『海外の音楽教育ライブリポート』を長期連載中(ピティナHP)。著書に『ハーバードは「音楽」で人を育てる~21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』(アルテスパブリッシング・2015年)、インタビュー集『生徒を伸ばす! ピアノ教材大研究』(ヤマハミュージックメディア・2013年)がある。上智大学外国語学部卒業。在学中に英ランカスター大学へ交換留学し、社会学を学ぶ。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会勤務を経て現職。2007年に渡仏し「子どもの可能性を広げるアート教育・フランス編」を1年間連載。ピアノを幼少・学生時代にグレッグ・マーティン、根津栄子両氏に師事。全日本ピアノ指導者協会研究会員、マレーシア・ショパン協会アソシエイトメンバー。 ホームページ:http://www.erikosugano.com/

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