耳をひらく~第4章:推察力&発想力(7)1曲から音空間を広げよう・思想編
「1曲から広げよう」シリーズ第3弾は、思想編をお届けしたい。古今東西の作曲家は、音符を通して、何らかの感情、思考、思想、思念、理念、世界観を託した。だから、それを丁寧にすくい上げ、音に投影した演奏には、心を打たれるのである。
そこで今回は「思想」をテーマに、1曲から様々に展開していきたい。今回選んだ曲は、シューマン=リスト『献呈』(2017年度ピティナ・ピアノコンペティションE級課題曲)。
作曲家たちは自分の作品を特定の誰かに捧げることで(dedication)、愛や感謝を表現し、それを楽譜に刻んだ。献呈から、実に様々な人間模様が見えてくる。ただし「献呈」といっても、献呈対象によって意味合いは異なる。そこで対象を4つに分類してみた。それぞれどのような想いが投影されているのかを聴き、4つの"A"を考えて頂きたい。
⇒Love,
音楽は古来より、愛情や親愛の情を伝えるためのものだった。旧人ネアンデルタール人は毛づくろいのほかに、音を用いて情を伝えあったとされる(第1章④)。時代が遡ってもそれは変わらない。たとえば世界最古の楽譜は古代ギリシアのものとされているが、これは亡き愛する妻へ送った挽歌であった。またシューマン『献呈』(『ミルテの花』第1曲)は、結婚前夜に妻となるクララに送った愛の歌であり、エルガー『愛の挨拶』も同じく結婚前夜に婚約者へ送った曲である。その他、恋人へ送った曲、最愛の人へ送った曲、家族への親愛の情、子どもの成長を願って書いた曲など、枚挙にいとまがない。音からあふれ出る感情を聴いてみよう。
- ベートーヴェンから(不滅の)恋人へ:WoO59「エリーゼのために」調
- ショパンから(元)婚約者マリアへ:「ワルツOp.69?1 調」「ノクターン第20番遺作KK.IVa/16 (lento con gran espressione)調」
- シューマンから妻クララへ:『ミルテの花』Op.25 第1曲「献呈」調
- エルガーから妻へ:ヴァイオリンとピアノのための小品Op.12『愛の挨拶』調
- ブラームスからクララへ:弦楽六重奏第2番Op.36 第3楽章Adagio(旋律の一部を付記し、「折々の手紙の代わりに歌か旋律をお送りしたいと目論んでいます。・・このほうが僕の言葉よりいつもずっと多く語ります」と手紙に綴っている)
- J.S.バッハから息子たちへ:『ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのためのクラヴィーア小曲集』(後に『』『』としてまとめられた)
ベートーヴェンから(不滅の)恋人へ:バガテルWoO59「エリーゼのために」イ短調 | 音源 | |
ショパンから(元)婚約者マリアへ: | 「ワルツ第9番Op.69?1変変イ長調」 | 音源 |
「ノクターン第20番遺作KK.IVa/16 (lento con gran espressione) 嬰ハ短調」 | 音源 | |
シューマンから妻クララへ:『ミルテの花』Op.25 第1曲「献呈」変イ長調 | 音源 | |
エルガーから妻へ:ヴァイオリンとピアノのための小品Op.12『愛の挨拶』ヘ長調 | 音源 | |
ブラームスからクララへ:弦楽六重奏第2番Op.36 第3楽章Adagio | 音源 | |
J.S.バッハから息子たちへ:『ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのためのクラヴィーア小曲集』(後に『インヴェンション』『シンフォニア』としてまとめられた) |
⇒Respect, Homage,
音楽家同士、お互いに尊敬し、インスピレーションを与え合い、作品を献呈しあった。同時代に生きた同志や恩師だけでなく、過去の作曲家という場合もある。単に献呈先として相手の名を刻むだけでなく、相手に敬意を表している。たとえば相手の作品からテーマを借用したり、相手が演奏家の場合には技巧や表現力を存分に発揮できる曲にしたり。編曲やパラフレーズも、形を変えた献呈といえるだろう。
- モーツァルト「弦楽四重奏曲K387, 421, 428, 458, 464, 465(・セット)」⇔:モーツァルトと長く交友関係を結び、死後には曲目目録を取り寄せて広めようとした。
- シューマン「」⇔ショパン「」
- シューマン「」⇔リスト「」
- リストからへ:『の回想』
- ブラームスからヴァイオリン奏者へ:「Op.77」「Op.102」
- ラヴェルから過去の作曲家、大戦で亡くなった友人達へ:ピアノ組曲「」
- ストラヴィンスキーから恩師へ:「葬送曲Op.5」
※2015年に楽譜発見 - プーランクからへ:即興曲第12番「を讃えて」
- プーランクからへ:即興曲第15番「を讃えて」
モーツァルト「弦楽四重奏曲K387, 421, 428, 458, 464, 465(ハイドン・セット)」⇔ハイドン:モーツァルトと長く交友関係を結び、死後には曲目目録を取り寄せて広めようとした。 | |
シューマン「クライスレリアーナ」Op.16⇔ショパン「バラード第2番Op.38」 | 音源音源 |
シューマン「幻想曲Op.17 ハ長調」⇔リスト「ピアノソナタ ロ短調S178/R21」 | 音源音源 |
リストからモーツァルトへ:『「ドン・ジョヴァンニ」の回想S418/R228』 | 音源 |
ブラームスからヴァイオリン奏者ヨアヒムへ:「ヴァイオリン協奏曲Op.77」「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲Op.102」 | 音源音源 |
ラヴェルから過去の作曲家、大戦で亡くなった友人達へ:ピアノ組曲「クープランの墓」 | 音源 |
ストラヴィンスキーから恩師リムスキー=コルサコフへ:「葬送曲Op.5」※2015年に楽譜発見 | |
プーランクからシューベルトへ:即興曲第12番「シューベルトを讃えて」 | |
プーランクからピアフへ:即興曲第15番「エディット・ピアフを讃えて」 | 音源 |
⇒Gratitude,
献呈といえば、まず思い浮かぶのがパトロンかもしれない。つまり芸術の支援者・依頼者などである。古代から近代まで、王侯貴族がパトロンとなることが多かった。当時は音楽や舞踊などの芸術は上流階級の嗜みであり、J.S.バッハが謁見したプロイセンの啓蒙専制君主もフルートの名手であった。下記の問いは、大王からあるモチーフでの即興を頼まれ、それに応えたのを曲として仕上げたものである。また19世紀になると新興のブルジョワ階級も台頭してくる。たとえばショパンがパリ社交界にご縁ができ、以後作曲家・演奏家・指導者として活躍するきっかけを作ったのは、19世紀初頭に銀行家として成功を収め、爵位を授与された一族であった。ショパンは彼等を含め、友情や厚意への感謝を込めて、その曲を十分に演奏できるピアニストの友人・知人、弟子(貴族の夫人や令嬢が多い)に献呈することが多かった。
- J.S.バッハから
大王へ:「
」BWV1079
- ハイドンから 侯爵へ:ミサ曲第9番ニ短調「ネルソン・ミサ」Hob. XXII-11」など
- ベートーヴェンから
侯爵へ:「ミサ曲」Op.86ハ長調
- ベートーヴェンから
伯爵へ:
Op.
59
「
」、交響曲第
番、第
番
- ショパンからカルクブレンナーへ:ピアノ協奏曲第1番Op.11、ショパンからヒラーへ:3つのノクターンOp.15
- ショパンから
男爵夫人へ:バラード第4番Op.52、ワルツOp.64-2
- チャイコフスキーから
夫人へ:交響曲第 番Op.36
J.S.バッハからフリードリヒ大王へ:「音楽の捧げもの」BWV1079 | 音源 |
ハイドンからエステルハージ侯爵へ:ミサ曲第9番ニ短調「ネルソン・ミサ」Hob. XXII-11」など | 音源 |
ベートーヴェンからエステルハージ侯爵へ:「ミサ曲」Op.86ハ長調 | 音源 |
ベートーヴェンからラズモフスキー伯爵へ:弦楽四重奏Op.59「ラズモフスキー」、交響曲第5番『運命』Op.67、第6番『田園』Op.68 | 音源音源音源 |
ショパンからカルクブレンナーへ:ピアノ協奏曲第1番Op.11、ショパンからヒラーへ:3つのノクターンOp.15 | 音源音源 |
ショパンからロスチャイルド男爵夫人へ:バラード第4番Op.52、ワルツOp.64-2 | 音源音源 |
チャイコフスキーからフォン・メック夫人へ:交響曲第4番Op.36 | 音源 |
⇒Prayer,
献呈とは少しニュアンスが異なるが、作曲家は特定の個人に対する感情や思慕だけでなく、理念や志を共有する多くの人々に向けても曲を書いた。例えばベートーヴェンの「歓喜の歌」(交響曲第9番第4楽章)は、ショパンのポーランド民謡由来の曲は、誰に向けてなぜ書かれたのだろうか?それぞれどのように理念が表現されているだろうか?
- ベートーヴェンから人類へ:交響曲第9番Op.125第4楽章は、の詩『歓喜に寄せて』("(独)")に触発された。すべての人々が友愛でつながろうと高らかに謳われている。
- ショパンから同胞へ:母国を愛しながらも戻ることができなかったショパンは、望郷の念を音楽に託した。ポーランド特有の民謡やそのリズムをモチーフにし、「英雄ポロネーズ」Op.53などの や などを多く作曲した。また同胞の詩人(ヴィトフィッキ、ミキエヴィチなど)の詩に共感し、ポーランド語による歌曲も書いている。
- から自由を求める人々へ:1943年に書いたカンタータ『人間の顔』では、ナチに対抗してレジスタンスの文筆組合を組織した詩人ポール・エリュアールの詩を採用した。最終曲「自由」は、同じく自由を希求した画家 に献呈されている。
ベートーヴェンから人類へ:交響曲第9番Op.125第4楽章は、シラーの詩『歓喜に寄せて』("An die Freude")に触発された。すべての人々が友愛でつながろうと高らかに謳われている。 | 音源 |
ショパンから同胞へ:望郷の念が募るショパンは、ポーランドのリズムや民謡をモチーフにし、「英雄ポロネーズ」Op.53などのポロネーズやマズルカなどを多く作曲した。また同胞の詩人(ヴィトフィッキ、ミキエヴィチなど)の詩に共感し、ポーランド語による歌曲も書いている。 | 音源 |
プーランクから自由を求める人々へ:1943年に書いたカンタータ『人間の顔』では、ナチに対抗してレジスタンスの文筆組合を組織した詩人ポール・エリュアールの詩を採用した。最終曲「自由」は、同じく自由を希求した画家ピカソに献呈されている。最後の音にもぜひ耳を傾けて。 | 音源 |
- 展開1~表現されているのはどんな愛?曲から溢れ出る感情を味わい、また表現方法の違いにも着目してみよう。
- 展開2~献呈した相手への敬意は、それぞれどのような形で表現されている?
- 展開3~献呈に至った背景を調べてみよう
- 展開4~詩の意味を調べてみよう。
- 他にどんな曲がありますか?自分でもいくつか挙げてみよう。
今回はピアノ作品以外も多く取り上げましたので、各種音源を扱っているナクソス・ミュージック・ライブラリへのリンクを掲載させて頂きました(要有料会員登録・最初15分間の無料体験あり)。
ピティナ・ピアノ曲事典にもピアノ作品の録音や曲目解説が多く紹介されていますので、ぜひ合わせてご参照下さい。
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音楽ジャーナリストとして各国を巡り、国際コンクール・音楽祭・海外音楽教育などの取材・調査研究を手がける。『海外の音楽教育ライブリポート』を長期連載中(ピティナHP)。著書に『ハーバードは「音楽」で人を育てる~21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』(アルテスパブリッシング・2015年)、インタビュー集『生徒を伸ばす! ピアノ教材大研究』(ヤマハミュージックメディア・2013年)がある。上智大学外国語学部卒業。在学中に英ランカスター大学へ交換留学し、社会学を学ぶ。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会勤務を経て現職。2007年に渡仏し「子どもの可能性を広げるアート教育・フランス編」を1年間連載。ピアノを幼少・学生時代にグレッグ・マーティン、根津栄子両氏に師事。全日本ピアノ指導者協会研究会員、マレーシア・ショパン協会アソシエイトメンバー。 ホームページ:http://www.erikosugano.com/