耳をひらく~第4章:推察力&発想力(3)音空間を多面的に関連づける(世界観)
音楽は、神や信仰の対象に捧げられていたり、自然を描いていたり、あるいは、個の意思や心理を表現している。音楽がなぜ生まれ、どこに立脚しているのかを探っていくと、作曲者の世界観や思想が見えてくる。深い問いかけは単に楽曲構造から導き出されるだけでなく、自らの内から湧き出てくる疑問や知的好奇心でもある。1曲ごとに探究することもできるし(第3章④)、プログラムとして複数曲をまとめることによって、世界観を描き出すこともできる。
欧米で開催される音楽祭には、そのような世界観や時代感覚が反映されていることがある。たとえばザルツブルグ音楽祭は、その成り立ちからして明確な世界観がある。第一次世界大戦後の1920年、精神的に分断されたヨーロッパ社会に再び平和と友好をもたらすため、作曲家リヒャルト・シュトラウス、詩人ヒューゴ・フォン・ホフマンスタール、俳優マックス・ラインハルトらは、音楽祭という形で人々の心をつなげようとした。それがザルツブルグ音楽祭の始まりである。その精神を忘れまいと、初回に上演されたホフマンスタールの劇「イェーダーマン(あらゆる人)」は以後、同音楽祭開幕時に上演されている。
1978年に創設されたドレスデン音楽祭にも、ドイツやヨーロッパが辿ってきた時代や、その時々の思想が反映されている。音楽祭初期はドレスデンにまつわる音楽や作曲家のテーマや、東独時代に関するテーマなどがあった(「40年に渡る社会主義圏の音楽文化について(1989年)」など)。1989年ベルリンの壁崩壊後は、ヨーロッパの再定義にともなって音楽の領域も広げつつ(「エルベ川のフローレンスにおけるイタリア人(1994年)」「スペイン(1999年)」など)、より普遍性の高いテーマも出現しはじめた(「啓発-理由の夢(1996年)」「出発(2001年)」「未知の歓び(2005年)」「信念―理解・寛容・批判(2006年)」など)。さらにこの10年は、開けた新しい世界観を模索しようという意志が感じられる(「ユートピア(2008年)」、「新世界(2009年)」ではヨーロッパとアメリカ、「5大要素(2011年)」ではヨーロッパとアジアがテーマ)。
「ヨーロッパの心」をテーマに掲げた2012年には、同音楽祭音楽監督・チェロ奏者のヤン・フォーグラー氏が、ヨーロッパ諸都市と音楽の結びつきについてこう述べている。
「なぜ音楽家は皆ウィーンやハンガリー、プラハを訪れるのか、そこで音楽を書いたのか。それは大都市における君主政治や宮廷文化と、民族音楽とのマリアージュなのです。たとえばドヴォルザークはチェコの民族音楽に、ブラームスやハイドンはハンガリーの民族音楽に影響を受けていますし、ジプシー音楽の影響も広範囲にわたっています。上流階級の高踏な趣味と一般庶民のバイタリティの結合、それが音楽に特別なものをもたらしていると思います」。(音楽祭と社会(3)ヨーロッパの心を映し出す―ドレスデン音楽祭)
またルツェルン音楽祭は、まさに「今」と向き合ったテーマが多い。2017年夏のテーマは「アイデンティティ」。グローバル化が進んで久しいが、近年ヨーロッパでは移民・難民を含めて人の動きがさらに流動的になり、一方では新たな分断も発生している。人、コミュニティ、文化を特徴づけているのは何か?人は何をもってアイデンティティとしているのか?
いくつかプログラムをご紹介しよう(テーマは要約したもの)。葛藤するアイデンティティ& 様々なアイデンティティとの戯れ(チャイコフスキー『マンフレッド交響曲』、メンデルスゾーン『真夏の世の夢』)がテーマのプログラム。民族や民族音楽が獲得したアイデンティティ(スク『コラール「聖ヴァーツラフ」の主題による瞑想曲』、ドヴォルザーク『森の静けさ』『スラヴ舞曲』、ヤナーチェク『草陰の小道にて』)がテーマのプログラム。また圧政から自己を守るための仮面(ショスタコーヴィチ『ピアノとトランペットと弦楽合奏のための協奏曲』& 現実逃避と幻想・過去への回帰(ラヴェル『クープランの墓』)&自己への批判受容(ベルク『管弦楽のための3つの作品』)をテーマしたプログラム・・・等など。詳しくは、こちら2017年度プログラム一覧をご覧頂きたい。
なぜこのようなテーマが生まれるのだろうか?それはテーマの中心に、人間性への問いかけがあるからである。これは、人間の再発見といわれたルネサンス時代に似ている。神を中心とした中世的世界観から、その反動のように出現した、人間を中心としたルネサンス的世界観。印刷技術の発明によって古代ギリシア・ローマ時代以降の著作が広まり、人々はあらゆる角度から、人間とは何かを探究し、人間を表現するようになった。
レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』『ウィトルウィウス人体図』などは、それを象徴している。ダ・ヴィンチは、人間を描くために、あるいは人間や人体そのものへの好奇心のために、人体解剖の現場に立ち会いスケッチを多数残している。彼が求めていたのは、単なる表層の美しさではない。人体の調和や完全なる均衡(『ウィトルウィウス人体図』)や、あるいは繊細で微妙で曖昧な表情(『モナ・リザ』)といった、人間の肉体の神秘的なまでの奥深さである。また宗教画(『最後の晩餐』『受胎告知』『岩窟の聖母』など)では、登場人物の心理描写、背景の物語、寓意、キリスト教の世界観に至るまで、その小さな空間に描き切っている。眼の表情や視線ひとつ、指の動きひとつ、置かれた物ひとつ・・その奥に物語が雄弁に語られているのである。
表層の奥にある、普遍的な原理や法則。その根源に到達するまで、ダヴィンチは「なぜそうなるのか?その奥はどうなっているのか?」と問いを重ねていったに違いない。そして、この問いかけが普遍的であるからこそ、彼の探求心は美術だけでなく、音楽、建築、天文学、物理学、工学など、多岐にわたることになった。ダヴィンチの脳内では何も区分されることなく、すべては一つまたはいくつかの根本原理から派生したもの、という考え方だったのだろう。神話や宗教の世界を描いていても、人間そのものを深く探求していたダヴィンチだからこそ、そこに内的宇宙を描くことができた。
このような「人」を中心とした問いが反映されているのが、全人教育である。人間のあらゆる能力を統合的に伸ばしていく考え方で、最近日本でも注目されている。様々な教科での学びを最終的に統合するため、「人間とはなにか?」という問いかけがすべての根底にある。(『今こそ音楽を』第1章「見えにくい力を評価すること」)
国際バカロレア(IB、本部:ジュネーブ)を例に挙げよう。国際バカロレアの学びは学際的・統合的である。初等教育から高等教育まで主要科目を万遍なく学び、その一環として芸術や音楽も含まれる(参考:音楽を重視するIB校・アマデウス音楽学校)。例えば3歳~12歳までのPYP(Primary Years Programme)では、下記のような問いをテーマにしている。
「私たちは誰なのか」「私たちはどのような時代と場所にいるのか」「私たちはどのように自分を表現するか」「世界はどのような仕組みになっているのか」「この地球を共有するということ」・・・。
この問いかけは統合的・普遍的なものであり、どの科目においても深く学ぶ力を引き出してくれる。近年はアジア各国での普及が進み、日本でも大学入試での IB 活用促進の方針が打ち出され、東大推薦入試などで推薦要件として採用されている。
2020年度大学入試改革では、このような統合的な問いが増えるとされている。新たな大学入学者選抜方法の一つとして新テストが検討されているが、従来の「教科型」だけでなく、新たに「合教科・科目型」「総合型」の学力評価方法が導入される見通しだ。大学入試改革については、第5章で述べたい。
全人教育への関心にともない、その土台となるリベラルアーツ教育も見直されてきている。リベラルアーツは古代ギリシアに生まれた概念で、自由人のための諸技芸といわれる。肉体労働から解放され、知性を磨いて精神性を高める教育である。自由七課ともいい、言語に関する3科目(文法、修辞学、論理学)と数学に関する4科目(数学、幾何学、天文学、音楽)に集約され、中世の大学ではこれらを教養課程として全員が学んだ。その後、リベラルアーツの構成要素は、時代・国・教育機関によって変わっていく。たとえばアメリカの大学には音楽学科があり、音楽専攻生だけでなく、リベラルアーツ科目としてどの学生でも科目履修することができる。音楽を他の科目と関連させたり、創造力を高めるような手法を導入したり、それぞれユニークな工夫がある(『ハーバード大学は音楽で人を育てる』菅野恵理子著、アルテスパブリッシング、2015年)。
何より、アメリカの大学では音楽学科が人文学部に属しているのが特徴である。つまり「人間とは何か?」「人間が営む社会とは何か?」といった命題を掲げる学部の一環として、音楽という側面から人間を探究する、という姿勢が見える。同じく人文学部に属する文学・哲学・心理・文学・美術・・などと並列に扱うことで、相互の関連性もわかり、世界が複層的に成り立っていることを学ぶには最適であろう。カリフォルニア大学バークレー校で民族音楽学を教えるボニー・ウェイド教授は、「民族音楽学は社会科学と人文学の組み合わせであり、文化研究の一つであると考えています」と述べている(『アメリカの大学にはなぜ音楽学科があるのか』②、③)。
またリベラルアーツ発祥の地であるヨーロッパにも当然ながらその考え方が根底にあるため、音楽院や芸術学校が独立して存在していても、どこかで他分野や総合大学と連携があったりする。フランスもその一例だ(Paris Sciences et Lettre研究大学)。 そして近年は日本でも、総合大学の芸術学科で音楽を学際的に学んでいる例がある(『今こそ音楽を!』第5章 総合大学音楽専攻1. 青山学院大「芸術を糧に社会へ」)
一見自分とは関係ない、あまり興味ないと思われる分野のことでも、背景にある思想や世界観につながりを見出すこともできる。リベラルアーツ教育でこのような共通項が見いだせるのは、表層は全く異なっていても、その奥にある構造や世界観が似ているからだ。たとえばドビュッシーが象徴主義に魅せられたのは、「象徴主義者たちは、世界のあらゆる要素が互いに結ばれあっているという、確信を持っていた」からである(『ドビュッシィ 印象主義と象徴主義』p76-77、ステファン・ヤロチニスキ著・平島正郎訳、音楽之友社、1986年)。象徴主義とは19世紀末に出現した、美術や文学を中心とする芸術思潮である。事物の表層ではなく、その深層にある魂の躍動を隠喩的に表現した彼らに、ドビュッシーは大いに共鳴し、音楽にもその思想が反映されている。
なお数学と音楽の共通点については、こちらのインタビュー(『今こそ音楽を!第2章 5.音楽と数学の共通点から探る教養体系』)もご参照頂きたい。
音楽ジャーナリストとして各国を巡り、国際コンクール・音楽祭・海外音楽教育などの取材・調査研究を手がける。『海外の音楽教育ライブリポート』を長期連載中(ピティナHP)。著書に『ハーバードは「音楽」で人を育てる~21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』(アルテスパブリッシング・2015年)、インタビュー集『生徒を伸ばす! ピアノ教材大研究』(ヤマハミュージックメディア・2013年)がある。上智大学外国語学部卒業。在学中に英ランカスター大学へ交換留学し、社会学を学ぶ。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会勤務を経て現職。2007年に渡仏し「子どもの可能性を広げるアート教育・フランス編」を1年間連載。ピアノを幼少・学生時代にグレッグ・マーティン、根津栄子両氏に師事。全日本ピアノ指導者協会研究会員、マレーシア・ショパン協会アソシエイトメンバー。 ホームページ:http://www.erikosugano.com/