チャイコフスキー国際コンクール(7)100年で欧州を凌駕する芸術大国に.1
バレエ、オペラは18世紀、器楽は19世紀から
チャイコフスキーといえばやはりバレエ音楽。器楽曲であっても、どことなく幻想的な情景が目に浮かぶようである。18世紀に輸入されたバレエやオペラは、約1-1世紀半ほどでロシア人作曲家による傑作が生み出されている。器楽楽器の歴史は少し後になるが、19世紀半ばにロシア初となる音楽院が創設され、今日に至るまで世界最高峰の演奏家や作曲家を数多く生み出してきた。ロシアではなぜ芸術がこれほど早く本家を凌駕するまで発展したのか?まずはバレエ、オペラの歴史を簡単に振り返ってみよう。
バレエの変遷--徹底した文化受容、そして国内での創造へ
音楽でいえばバロック期の最中。1721年ピョートル1世(ピョートル大帝)によりロシア帝国が誕生した。以後約200年にわたり、帝国はその力を誇示するかのように諸分野で発展を遂げた。ピョートル大帝は欧州風にリベラルアーツ(音楽を含む自由七科)を学んで育った人物であり、地理的・文化的に欧州の辺境地であったロシアにおいて、さらに西欧化政策を徹底した。それは政治経済や軍事だけでなく、科学技術や芸術にも及んだ。中でもバレエは、帝政ロシアでいち早く花開いた芸術である。
1738年に初めてバレエ学校が開かれた(後にペテルブルグ帝国バレエ学校)。当初はフランスなど外国から輸入作品がほとんどで、バロック様式が主だった。19世紀に入るとフランス人舞踊家・振付師ディドゥロが場面転換やソリストを起用したロマン派様式の作品を生み出していく。また1828年にはプーシキンの詩を題材にした『カフカスの捕虜』を制作するなど、自国芸術家の起用も始めた。しかし音楽はまだ外国人が手掛けていた。
フランス人舞踊家・振付師マウリス・プティパ(1818-1910年)は、人物描写や音楽と物語の融合など総合的完成度を高めるため、全体構成のバランスに配慮した舞台創りを手がけた。そして『ドン・キホーテ』(1869年、レオン・ミンクス作曲)、『ラ・バヤデール』(1877年、レオン・ミンクス作曲)を製作・振付。またパリで上演されて成功を収めた『ジゼル』や『コッペリア』も、プティパの導きによってロシアで上演された。今でもなお世界的人気を誇る一連の作品は、19世紀後半に次々と生み出されていった。チャイコフスキーは、『コッペリア』によってバレエに魅了されたそうだ。参照:"The History of Russia Ballet", Woodiands Civil Ballet参照)
バレエ音楽作曲に目覚めたチャイコフスキーは、『白鳥の湖』(1877年初演)、『眠れる森の美女』(1890初演、『くるみ割り人形』(1892年初演)などの傑作を次々と世に生み出していく。この頃に作曲されたピアノ協奏曲第2番(1880年)なども、バレエ音楽のように情景描写的・祝祭的である。
以降バレエ音楽を手がけるのはロシア人作曲家のお家芸となり、グラズノフ『ライモンダ』(1898年)、20世紀初頭にはバレエ・リュスがパリを始め欧州を席巻する。興行主ディアギレフの依頼により、ストラヴィンスキーは『火の鳥』(1910年)、『ペトルーシュカ』(1911年)、『春の祭典』(1913年)、『プルチネラ』(1920年)などを作曲した。またプロコフィエフは『道化師』(1921年)や『鋼鉄の歩み』(1927年)などがバレエ・リュスによって初演され、その後も『ロミオとジュリエット』(1938年初演)、『シンデレラ』(1945年初演)などを書いた。
オペラの変遷--徹底した文化受容、そして国内での創造へ
バレエとほぼ同時期にオペラも輸入され、1730年代にはイタリアの宮廷オペラ団による作品が上演されている。1779年にはロシア人作曲家と脚本家による音楽と台本によって、ロシア独自のオペラ作品が製作された。音楽や芸術に関心の高い王侯貴族も多く、啓蒙専制君主とされるエカテリーナ2世自身もコミカルなオペラ脚本を書いたという。その頃はまだフランス、イタリア、ドイツの劇団が混在していたが、19世紀に入るとミハイル・グリンカ(1804-1857)がプーシキンの詩に基づく『ルスランとリュドミラ』を作曲し、本格的なロシア・オペラの幕開けとなる。キエフ大公国を舞台にしたこの作品によって、スラブ風の挿話や民族音楽の採用、色彩豊かな舞台演出が実現された。(参照:Russia Info Center)
19世紀前半といえば、欧州諸国では王侯貴族の退廃と市民勢力の台頭が顕著になった時代。ロシアでは1812年にナポレオン戦争勝利(ロシアでは1812年祖国戦争と呼ぶ)によって民族主義が高揚し、1861年には封建制度の象徴であった農奴制が解かれた。そのような社会情勢を背景に、ロシア五人組などに代表されるように、自国作曲家による音楽および総合芸術制作の機運が高まってきた。
以降、グリンカの弟子バラキレフを中心として、ボロディン(『イーゴリ公』)、リムスキー・コルサコフ(『サトコ』『皇帝の花嫁』『金鶏』)、ムソルグスキー(『ボリス・ゴドゥノフ』『ホヴァーンシチナ』)、キュイからなるロシア五人組が、国民楽派としてロシア音楽独自の道を追究していく。
また国民楽派の流れとは異なるが、ロシア国内で演奏家・声楽家・作曲家を育成したいという願望も、この頃現実のものとなる。アントン&ニコライ・ルービンシュタイン兄弟は1862年にサンクト・ペテルブルグ音楽院、1866年にモスクワ音楽院をそれぞれ創設した。これについては次ページにて述べる。
音楽ジャーナリストとして各国を巡り、国際コンクール・音楽祭・海外音楽教育などの取材・調査研究を手がける。『海外の音楽教育ライブリポート』を長期連載中(ピティナHP)。著書に『ハーバードは「音楽」で人を育てる~21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』(アルテスパブリッシング・2015年)、インタビュー集『生徒を伸ばす! ピアノ教材大研究』(ヤマハミュージックメディア・2013年)がある。上智大学外国語学部卒業。在学中に英ランカスター大学へ交換留学し、社会学を学ぶ。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会勤務を経て現職。2007年に渡仏し「子どもの可能性を広げるアート教育・フランス編」を1年間連載。ピアノを幼少・学生時代にグレッグ・マーティン、根津栄子両氏に師事。全日本ピアノ指導者協会研究会員、マレーシア・ショパン協会アソシエイトメンバー。 ホームページ:http://www.erikosugano.com/