今こそ音楽を!第1章:社会的観点から 6.「見えにくい力を評価すること」
本当に大事なものは何か?たとえそれが分かっていても、目に見えないと見過ごされてしまうことがある。今、その目に見えない価値を視覚化して、積極的に評価しようという流れがある。
右図は「確かな学力の氷山モデル」(梶田叡一、参照元:『〈新しい能力)と学習評価の枠組み』 松下佳代著、京都大学・高等教育研究開発推進センター)である。これは21世紀に必要な“新しい能力”をどう規定し評価するか、という調査の過程で引用されたモデルである。これによれば、「技能や知識」は見える学力、「思考力」は見えにくい学力、さらに「関心・意欲」「感性・経験」は氷山の底にあり、なかなか見えない力とされる。
「技能や知識」はまず物事を覚えることから始まる。暗記できているかどうかで判断できるのは、見えやすい学力である。一方、「思考力」は文脈を理解したり、知識をもとに自分の考えを述べるなど、物事の本質を読み解いて応用する力である。この力があれば、新しい課題に出会った時でも、自ら解決に導くことができるだろう。さらに「感性」は、物事全体のイメージや性質をぱっと把握したり、直感や想像力を生かして新たな視点からその本質をつかむ力にもなる。「思考力」や「感性」を測るのは難しいが、その力量次第で学びの深さが変わってくる。
同じことが音楽にも当てはまる。新しい曲を弾く時に、以前学んだ知識や考え方をどのように生かし、自らの力で読み解くことができるかは、学びの深さと比例する。それが、国際コンクールなどで審査の対象となる(参考:エリザベート王妃国際コンクール「個の力を引き出すシステム」)。
こちらは「個体内の音楽的発達」の図である(「ピアノにつながる!リトミックレッスン大集合」講座・神原雅之氏資料より)。リズム→旋律→ハーモニー→形式や様式→音楽を構成する様々な要素、の順に学びが進んでいくという図式である。これは自然の摂理に適っているだろう。なぜなら、音楽の歴史的変遷とほぼ一致している。
まずリズム、旋律はどちらも人間が原初的にもつ力といえる。リズムや声の調子は人間の内的律動に直結した根源的なものであり、古代ギリシア詩人は韻律と旋律によって詩を語り継いだ。一方、ハーモニーや形式・様式は、より体系的で知的な営みを象徴している。ハルモニア(調和)の概念は古代からあったが、ハーモニー(機能和声)の進行が楽曲の骨格を成すようになったのはバロック時代以降の調性音楽である。さらに時代を経て、今では形式・様式などを体系的に学ぶようになったことで、楽曲全体の構造や時代背景を読み解き、様々な楽曲解釈に応用できるようになった。
楽譜を読むということは、楽曲本来の姿を浮かび上がらせること。だからこそ、部分的な音の美しさや正確さだけではなく、その音がどのような時間的推移や時代的背景の中で生まれたのかを考えることで、より本質に迫ることができる。
この音楽的発達モデルと学力モデルを逆にして重ね合わせてみると、似通っている部分がある。「リズムや旋律」は見える学力、「ハーモニーや形式・様式」は見えにくい学力に相当すると言えるだろうか。音楽においても、後者の力を身につけたとき、学びが深まった状態だと言えるだろう。さらに知性と感性で「音楽を構成する様々な要素」を有機的に統合できれば、独自の美が生まれる。
思考力や問題発見・解決力など、見えにくい力を重視する教育プログラムがある。国際バカロレア(IB、本部:ジュネーブ)はその一つだ。全人的教育をめざし、初等教育から高等教育まで主要科目を万遍なく学び、その一環として芸術や音楽も含まれる(参考:音楽を重視するIB校・アマデウス音楽学校)。現在147カ国3,700以上の学校で導入され、117万人の生徒が学んでいるそうだ。近年は特にアジア各国での普及が進み、日本でも大学入試での IB 活用促進の方針を打ち出した。東大では推薦入試(2016 年度より導入予定)で、推薦要件を満たす根拠としてIB の成績証明を認めている学部もある。
国際バカロレアは年齢別に3段階に分類される:PYP (Primary Years Programme)は3歳~12歳、MYP(Middle Years Programme)は11歳~16歳、DP(Diploma Programme)は16歳~19歳。学際的に学んでいくシステムで、例えばPYPでは下記のようなテーマを掲げている。
「私たちは誰なのか」「私たちはどのような時代と場所にいるのか」「私たちはどのように自分を表現するか」「世界はどのような仕組みになっているのか」「この地球を共有するということ」・・・。
この問いかけは統合的かつ普遍的なものであり、どの教養科目においても、深く学ぶ力を引き出してくれる。実際、IB校のカリキュラムは総合的な成績向上にも繋がっているという報告がある。米国の IB 修了生対象に実施した調査によると、アイビーリーグ(ハーバード、イェール等、8大学)においてIB 修了生の合格率は当該大学における全体合格率と比べて 3~13%ポイント高く、また米国共通テスト(SAT, ACTなど)においても全米平均スコアより高いそうである。 (参考PDF)
またこのような問いかけは、学ぶ意味や方法を見つめ直すきっかけになる。現在、日本で進められている大学入試改革では("高大接続改革実行プラン")、個人個人の多様性に富む学習成果や能力を反映させるべく、新たな大学入学者選抜ルールが構築されている。その一つとして新テストの実施が検討されているが、従来の「教科型」だけでなく、新たに「合教科・科目型」・「総合型」の学力評価方法が導入される。「合教科・科目型」「総合型」では、どの科目にも応用できるような力、すなわち問題解決力や分析力などが評価の対象になる。このような見えにくい力をいかに評価するか、その指標の開発が現在進められている(ルーブリック等)。
全人的教育は、人間のあらゆる能力を統合的に伸ばしていく考え方である。知識や技能を実社会で生かす時に、専門科目の知識だけではなく、幅広い教養という土壌から多彩な花を咲かせてほしいという願いが込められている。そして地下水脈のようにあらゆる領域をつなぐのが、「人間とは?」という問いかけである。
では、なぜ全人的教育に音楽や芸術が含まれているのか。
音楽や芸術には、言葉になる以前の曖昧で複雑な感情を受けとめ、包み込み、解き放つ力がある。言葉にするには感情を客観視しなければならないが、音楽はただ"共にいる""共に感じる"ことができる。そして、その中で本当に大事なことに気づくことがある。それは小さな心の声かもしれないが、それが実は豊かな社会の原点でもあり、人類にとって最も大事なことであったりする。
それを感じ取る「感性」は、氷山モデルの底にある。つまり、その人自身を支える「根」だ。その根を豊かに伸ばしていくのが、音楽・芸術なのである。
- 第1章:社会的観点から
はじめに 「社会は何を求め、音楽には何ができるのか」- 1.「表現する力」
表現したい本能は赤ちゃんから大人まで
表現様式を知った先にある世界 - 2.「文脈を読み解く力、創る力」
音楽家は優れた解読者でもある!?
体系的な学びは、他分野にも応用できる - 3.「本質を問う力」 リベラルアーツしての音楽~知識を知力に
リベラルアーツとしての楽器演奏~感覚を表現に
問いかけ体験して学ぶ、アクティブ・ラーニング - 4.「協働する力」 自分の役割を知り、他者とコラボレーションする
米大学AO入試で評価されることは
PISA世界学習到達調査に新たな指標 - 5.「世界とつながる力」
小さい頃から身につく異文化理解力・受容力
世界の音楽仲間に出会い、関わること
様々な世代と接すること - 6. 見えにくい力を評価すること
音楽や勉強での見えにくい力とは
音楽を含む全人的教育では、問いかけが鍵に
言葉になる以前の、感じる力
- 1.「表現する力」
表現したい本能は赤ちゃんから大人まで
- 第2章:歴史的観点から
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1. 古代・中世では、音楽を教養として
古代ギリシアの教養人=リラが弾ける人だった
中世では、音楽を大学教養課程として学んだ -
2. 近代では、音楽を専門&教養教育として(米)
ドイツからアメリカへ渡った音楽教育
ハーバード大でカリキュラム近代化・自由選択化へ -
3. 日本では、音楽を専門&師範教育として
日本に西洋音楽を導入したのは
近代から現代へ至る歴史の中で
大学音楽教育に音楽を取り入れる新たな動きも -
4. 民間が担ってきた教養としてのピアノ学習
指導者環境の変化によって、繋がり支え合う指導者
学習者環境の整備によって、動機づけが変わった
音楽環境はどんな学びの変化をもたらしたか -
3. 日本では、音楽を専門&師範教育として
日本に西洋音楽を導入したのは
近代から現代へ至る歴史の中で
大学教育に音楽を取り入れる新たな動きも -
4. 民間が担ってきた教養としてのピアノ学習
指導者環境の変化によって、繋がり支え合う指導者
学習者環境の整備によって、動機づけが変わった
音楽環境はどんな学びの変化をもたらしたか -
5. 専門と教養が融合する時~金子一朗さんインタビュー
1.音楽と数学はなにが似ているのか?
2.全員が弾く時代に、音楽の何を学ぶべき?
3.音楽・数学・歴史・全てを関連づけながら学ぶこと
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1. 古代・中世では、音楽を教養として
古代ギリシアの教養人=リラが弾ける人だった
- 第3章:脳科学的観点から
- 第4章:経済「音楽の見えない経済的価値とは?」
- 1. 暮らしの質全体を測るべき 日本国民は教養費・教育費にどれだけかけているか?
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2. 自己成長~それは消費か投資か?
音楽を習う動機を7つに分類
人間には成長欲求がある
中高生・成人のステップ参加 - 3. 自己成長および社会との関係構築に
人間には繋がりたい欲求もある
社会への還元もステーション運営や社会貢献など
自己投資だと思える消費とは?自ら選び、自ら関わること -
4. 教養費を増やして医療費を軽減!?
教養・技能教育は1兆円、精神科病院は1.5兆円規模
高齢者×アートの取り組み、および社会的インパクト研究(英) -
5. 人的資本投資の21世紀~エコノミストに聞く
世界の新しい幸福度指標は「人」と「社会」
今現在の支出削減より、未来のための投資を -
6. 世界の文化費・教育費のトレンドは?
フランス×人間理解と能力開発
イギリス×全ての人にアートを&経済効果測定も
スウェーデン×民主主義社会の創造 -
7. 世界的に投資が進む人文学研究、音楽も力に
学際的研究が進むと、なぜヒューマニティーズが重要になるのか
ヒューマニティーズの音楽・芸術分野への応用
- 第5章:大学最新カリキュラム編
- はじめに
- 1. 音楽で思考法、実践力、創造力を養う~総合大学教養科目 慶應義塾大学~知識は実践してこそ!「身体知・音楽」
- 2. 音楽を深く学んだ社会人を育てる~総合大学音楽学部・音楽専攻
青山学院大学~芸術の学びを糧に社会へ
フェリス女学院大学~音楽が心にある豊かさ
金城学院大学~3タイプの音楽家像を想定して - 3. 音楽の可能性をさらに掘り下げて~音楽大学
音楽大学 その1「東京藝大~スーパーグローバル大学創成支援認定校に」
音楽大学 その2「東京音楽大学~演奏と作曲を同時に学ぶ」
音楽大学 その3「昭和音楽大学~博士課程&短大社会人コース」
番外編 音楽で思考法や創造力を養う~国際バカロレア東京学大付中高
- 第6章:ライフスタイル&ボディ編
音楽ジャーナリストとして各国を巡り、国際コンクール・音楽祭・海外音楽教育などの取材・調査研究を手がける。『海外の音楽教育ライブリポート』を長期連載中(ピティナHP)。著書に『ハーバードは「音楽」で人を育てる~21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』(アルテスパブリッシング・2015年)、インタビュー集『生徒を伸ばす! ピアノ教材大研究』(ヤマハミュージックメディア・2013年)がある。上智大学外国語学部卒業。在学中に英ランカスター大学へ交換留学し、社会学を学ぶ。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会勤務を経て現職。2007年に渡仏し「子どもの可能性を広げるアート教育・フランス編」を1年間連載。ピアノを幼少・学生時代にグレッグ・マーティン、根津栄子両氏に師事。全日本ピアノ指導者協会研究会員、マレーシア・ショパン協会アソシエイトメンバー。 ホームページ:http://www.erikosugano.com/