今こそ音楽を! 第1章:社会的観点から 3.「本質に迫る力」
音楽の学び方は幅広い。楽譜を読み解いて音にする力だけでなく、音楽を通して思考力や生きるための力を養うこともできる。それは、リベラルアーツ(教養)としての音楽である。
ここで再び、アメリカの大学事例をご紹介したい。アメリカにおける教養とはエリート主義の残滓ではなく、「知識を備えて独立心を保ち、共感の心を持つ市民を形成するのが教養」(『経済成長がすべてか?―デモクラシーが人文学を必要とする理由』マーサ・C・ヌスバウム著、小沢自然・小野正嗣訳、2013年)という考え方が、今でも教養教育の伝統を支えている。そのため音楽学部開講科目の一部は、専攻生のみならず、教養科目として全学生が受講できる。ハーバードやスタンフォード、MITなどでは1,000~2,000人規模という。
ハーバード大学構内。
たとえばハーバード大学の教養科目には『初日~5つの世界初演(First Nights: Five Musical Premiers)』という授業がある。モンテヴェルディからストラヴィンスキーまでの5作品を取りあげながら、当時の聴衆がどのように「未知の音楽」に出会い、受けとめたのか、当時の評論記事や書簡などの一次資料をもとに考える。
- モンテヴェルディ「オルフェオ」(1607年・マントヴァ)
- ヘンデル「メサイア」(1742年・ダブリン)
- ベートーヴェン交響曲第9番(1824年・ウィーン)
- ベルリオーズ「幻想交響曲」(1830年・パリ)
- ストラヴィンスキー「春の祭典」(1913年・パリ)
担当のトーマス・ケリー教授は、学生が"傍観者としてではなく、当事者として音楽に関わること"を目指している。そしてこの授業のために毎年新作を委嘱し、その世界初演を聴いて1年間の授業が締めくくられる。つまり自分たちも「未知の音楽」が生まれる瞬間に立ち会うのだ。作曲家の大胆な発想力や繊細な表現力に驚く人もいるだろうし、芸術とは既成概念を打破し、自分の感覚や知覚を大きく広げてくれると実感した人もいただろう。リハーサル見学や作曲家との質疑応答もあり、鑑賞後はリポートが課せられる。
ハーバード大学構内にあるコンサートホール。
またスタンフォード大学では音楽、映画、絵画、彫刻、文学などあらゆる芸術作品を横断的に見渡しながら、「人はなぜそのように考え、表現したのか」「それが社会にどのような影響を与えたのか」という社会学的・哲学的視点で学ぶ。一例として、2013年に新設された『芸術へのイマージョン』を挙げてみよう。講義だけでなく実践的なプロジェクトも多い授業で、音楽家・アーティスト・学者なども外部講師として登場する(週2回講義&週2回グループワーク・討論)。このカリキュラムで音楽分野を担当する作曲家のジョナサン・バーガー教授は、次のように語る。
スタンフォード大学構内にはロダンの彫刻がある。
2014年冬学期は「厳粛さと軽妙さ」をテーマに、芸術家がいかにパロディや風刺を通して社会問題を世に訴えてきたかを学んだそうだ。資料はシェイクスピア『マクベス』、ストラヴィンスキー作曲・ニジンスキー振付『春の祭典』、マルセル・デュシャン作『泉』、ショスタコーヴィチ交響曲第7番『レニングラード』、ベンジャミン・ブリテン『戦争レクイエム』、ヴィンセント・ミネリ監督『時計』など。作品の本質を見据えながら、なぜその作品が生まれたのか、なぜその手法を用いたのか、どのような社会・時代背景があったのか、芸術と社会にはお互いどんな影響があったのかを、大局的に考えるのである。
学びがある程度進んだところで、学外へのステディツアーも実施している。サンフランシスコでは、『アゴン』(ストラヴィンスキー作曲、バランシン振付)などのバレエを鑑賞。またLAではパブリック・アート(広場、壁画、貧困街など)や美術館見学、LAフィルコンサート鑑賞、地元コメディアンとの対話、大学役員邸宅でのパーティ、などが行われたそうである。
ツアーのテーマは「芸術がコミュニティのアイデンティティにどう貢献しているか」「芸術活動に際して、周囲の建築物や都市政策はどのように影響しているか」等を検証すること。音楽や芸術作品にはどのようなコンテクストが背後にあるのかを、知識と五感を使いながら読み解くのである。まさしくアクティブ・ラーニングである。
知識として学んだことは、アクティブ・ラーニングを通して知力に変えていくことができる(参考:「感から知に変える音楽の聴き方」)。その最たる例は、パフォーマンスである。アメリカの大学で開講されている音楽科目には理論と演奏実技があり、アンサンブルグループやオーケストラの多くが単位認定されているさらに楽団所属の学生に対する奨学金授与や、個人レッスンの単位化が進んでいる大学もある。
アイビーリーグの一つ、ペンシルべニア大学でもアンサンブル実技は全学生対象に開講されており、単位取得が可能である(吹奏楽、管弦楽団、バロック&リコーダー室内楽団、室内楽団、合唱団、聖歌隊、ジャズ、アラブ・アンサンブル、サンバ・アンサンブル等。オーディションが課される場合もある)。また楽器の個人レッスンは200人以上が受講しているそうだ。さらに音楽主専攻生には特別プログラムがあり、地元フィラデルフィア管弦楽団奏者などが指導にあたることもある。
ピアノなどの楽器個人レッスンは、2008年秋から単位認定されている。かつては課外活動とみなされていたが、パフォーマンスの比重を増やす方針に変更されたそうだ。ペンシルべニア大学マイケル・ケトナー氏によれば「アメリカ独立宣言起草委員の一人で、大学創立者ベンジャミン・フランクリンは、『学校とは思想を生み出すだけでなく、それを実践する場である』と述べています。音楽も理論だけでなく、実践されるべきということではないでしょうか」。
カリフォルニア大学のバロック・アンサンブル。
また全米最大規模のリベラルアーツ・カレッジであるカリフォルニア大学(以下バークレー校)でも、アンサンブル実技のクラスが全学生対象に開講されている。こちらは現代音楽即興アンサンブル、ゴスペル合唱、ジャワ・ガムラン、アフリカ系音楽アンサンブル等も含まれ、国際色豊かだ。民族音楽学の教鞭をとるボニー・ウェイド教授は、「楽器を演奏することによって、音楽に深く入り込むことができます。ですから、音楽を通じて自分の国や他の国を知ることにもなります」という。
まさにパフォーマンスは身体知であり、それが単位として評価されているのだ。
現在日本の教育現場でも、全科目においてアクティブ・ラーニングが模索され始めている。こちらは文部科学省による定義である。
「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である」
("Learning Pyramid, National Training Laboratories ※networklessons.comより引用)
実際に学んだことを相手に教えたり、実践したり、討論することによって、学びが内在化・深化する。右図はその「学習定着率」を段階的に示したものである。(数字はあくまで便宜的なものだが、講義の受講や読書が5-10%に対して、グループ・ディスカッションで50%、実習・実践で75%、他者への指導で90%となっている)
音楽や芸術には人間の生き様が現れている。時代によって表現様式が違っても、人間の本質や物事の真理はほとんど変わらないのではないだろうか。たとえば、美しい、愛しいと感じる心、故郷を想う気持ち、喜びや苦難、自然に対する畏敬など、時代を経ても変わらない。過去の作品からそれを学び、自分の身体を使って表してみると、表現にはどのような思いや意図があるのか、表現方法がいかに多様か、などが分かってくる。
なお、今週開催されるラ・フォル・ジュルネでは、“恋、いのち、祈り”の3つの切り口で「パシオン(Passion)」が奏でられる。作曲家や演奏家によって表現が異なるので、聴き比べてみるのも面白いだろう(参考:ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン『熱狂の日』2015 、LFJ丸の内エリアコンサート)
過去の智慧を学び、現在にあてはめて考え、未来に生かすこと、それがリベラルアーツ(教養)の意義である。ピアノなどの楽器や歌は、知識を知力に変えるためのアクティブ・ラーニングといってもいいだろう。
- ※タイトルを一部変更しました。
- 第1章:社会的観点から
はじめに 「社会は何を求め、音楽には何ができるのか」- 1.「表現する力」
表現したい本能は赤ちゃんから大人まで
表現様式を知った先にある世界 - 2.「文脈を読み解く力、創る力」
音楽家は優れた解読者でもある!?
体系的な学びは、他分野にも応用できる - 3.「本質を問う力」 リベラルアーツしての音楽~知識を知力に
リベラルアーツとしての楽器演奏~感覚を表現に
問いかけ体験して学ぶ、アクティブ・ラーニング - 4.「協働する力」 自分の役割を知り、他者とコラボレーションする
米大学AO入試で評価されることは
PISA世界学習到達調査に新たな指標 - 5.「世界とつながる力」
小さい頃から身につく異文化理解力・受容力
世界の音楽仲間に出会い、関わること
様々な世代と接すること - 6. 見えにくい力を評価すること
音楽や勉強での見えにくい力とは
音楽を含む全人的教育では、問いかけが鍵に
言葉になる以前の、感じる力
- 1.「表現する力」
表現したい本能は赤ちゃんから大人まで
- 第2章:歴史的観点から
-
1. 古代・中世では、音楽を教養として
古代ギリシアの教養人=リラが弾ける人だった
中世では、音楽を大学教養課程として学んだ -
2. 近代では、音楽を専門&教養教育として(米)
ドイツからアメリカへ渡った音楽教育
ハーバード大でカリキュラム近代化・自由選択化へ -
3. 日本では、音楽を専門&師範教育として
日本に西洋音楽を導入したのは
近代から現代へ至る歴史の中で
大学音楽教育に音楽を取り入れる新たな動きも -
4. 民間が担ってきた教養としてのピアノ学習
指導者環境の変化によって、繋がり支え合う指導者
学習者環境の整備によって、動機づけが変わった
音楽環境はどんな学びの変化をもたらしたか -
3. 日本では、音楽を専門&師範教育として
日本に西洋音楽を導入したのは
近代から現代へ至る歴史の中で
大学教育に音楽を取り入れる新たな動きも -
4. 民間が担ってきた教養としてのピアノ学習
指導者環境の変化によって、繋がり支え合う指導者
学習者環境の整備によって、動機づけが変わった
音楽環境はどんな学びの変化をもたらしたか -
5. 専門と教養が融合する時~金子一朗さんインタビュー
1.音楽と数学はなにが似ているのか?
2.全員が弾く時代に、音楽の何を学ぶべき?
3.音楽・数学・歴史・全てを関連づけながら学ぶこと
-
1. 古代・中世では、音楽を教養として
古代ギリシアの教養人=リラが弾ける人だった
- 第3章:脳科学的観点から
- 第4章:経済「音楽の見えない経済的価値とは?」
- 1. 暮らしの質全体を測るべき 日本国民は教養費・教育費にどれだけかけているか?
-
2. 自己成長~それは消費か投資か?
音楽を習う動機を7つに分類
人間には成長欲求がある
中高生・成人のステップ参加 - 3. 自己成長および社会との関係構築に
人間には繋がりたい欲求もある
社会への還元もステーション運営や社会貢献など
自己投資だと思える消費とは?自ら選び、自ら関わること -
4. 教養費を増やして医療費を軽減!?
教養・技能教育は1兆円、精神科病院は1.5兆円規模
高齢者×アートの取り組み、および社会的インパクト研究(英) -
5. 人的資本投資の21世紀~エコノミストに聞く
世界の新しい幸福度指標は「人」と「社会」
今現在の支出削減より、未来のための投資を -
6. 世界の文化費・教育費のトレンドは?
フランス×人間理解と能力開発
イギリス×全ての人にアートを&経済効果測定も
スウェーデン×民主主義社会の創造 -
7. 世界的に投資が進む人文学研究、音楽も力に
学際的研究が進むと、なぜヒューマニティーズが重要になるのか
ヒューマニティーズの音楽・芸術分野への応用
- 第5章:大学最新カリキュラム編
- はじめに
- 1. 音楽で思考法、実践力、創造力を養う~総合大学教養科目 慶應義塾大学~知識は実践してこそ!「身体知・音楽」
- 2. 音楽を深く学んだ社会人を育てる~総合大学音楽学部・音楽専攻
青山学院大学~芸術の学びを糧に社会へ
フェリス女学院大学~音楽が心にある豊かさ
金城学院大学~3タイプの音楽家像を想定して - 3. 音楽の可能性をさらに掘り下げて~音楽大学
音楽大学 その1「東京藝大~スーパーグローバル大学創成支援認定校に」
音楽大学 その2「東京音楽大学~演奏と作曲を同時に学ぶ」
音楽大学 その3「昭和音楽大学~博士課程&短大社会人コース」
番外編 音楽で思考法や創造力を養う~国際バカロレア東京学大付中高
- 第6章:ライフスタイル&ボディ編
音楽ジャーナリストとして各国を巡り、国際コンクール・音楽祭・海外音楽教育などの取材・調査研究を手がける。『海外の音楽教育ライブリポート』を長期連載中(ピティナHP)。著書に『ハーバードは「音楽」で人を育てる~21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』(アルテスパブリッシング・2015年)、インタビュー集『生徒を伸ばす! ピアノ教材大研究』(ヤマハミュージックメディア・2013年)がある。上智大学外国語学部卒業。在学中に英ランカスター大学へ交換留学し、社会学を学ぶ。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会勤務を経て現職。2007年に渡仏し「子どもの可能性を広げるアート教育・フランス編」を1年間連載。ピアノを幼少・学生時代にグレッグ・マーティン、根津栄子両氏に師事。全日本ピアノ指導者協会研究会員、マレーシア・ショパン協会アソシエイトメンバー。 ホームページ:http://www.erikosugano.com/
「スタンフォードのような研究大学において、芸術の役割は複合的かつ多面的なものです。音楽学科生にとっては、学際的な繋がりの中で、音楽を含むすべての芸術の学びを深めてくれます。また全学部の学生にとっても、芸術は不可欠で不可避なものだと考えています。芸術は曖昧さを受け入れ、創造的に考え、問いかけ、また挑戦することを教えてくれます。学生自身の嗜好や思考の枠を超えるチャレンジでもあります」