今こそ音楽を! 第1章:社会的観点から 1.「表現する力」
なぜピアノを習うの?音楽が好きだから!
それで十分、それが一番!
でも今、あえてそれを問いかけてみたい。なぜピアノを弾くのか、ピアノを弾くとどう成長するのか、なぜ音楽を学ぶのか、音楽は社会の中でどんな意味を持つのか、社会は何を求めているのか、これからどのように学んでいくべきか・・・?
今、社会が大きく変化している。特に21世紀に入り、IT化やグローバル化によって社会環境は一変した。世界中の情報やモノが溢れている今、我々は消費や所有よりも、自己実現や他人との交流を通して心の充足感を求めるようになった。20世紀社会が追い求めていた経済成長モデルが、精神的な豊かさや幸福感までを保証するものではない、と気づいた結果なのである。
欧州では数年前から、個人の幸福度を測る新しい指標"超GDP"を開発し、これに沿った国家戦略が実施され始めているそうだ。国全体の経済発展よりも個人の幸福度増大を重視し、教育水準・健康度・健康寿命・安全度などを計るもので、「新指標での数字を高めることは、間接的に、迂回路を通じてではあるが、経済を発展させ、成長を続けていくことにもつながっている」(『世界で一番豊かな国日本~成長幻想を打ち壊した国連調査』福島清彦著、p91)。アメリカも非公式ながらこの重要性を認め、独自の指標を開発しているという。
日本でもワーク・ライフ・バランスを追求し、労働時間の効率化や余暇時間の充実化を求める人が増えている(参考「レジャー白書2014」)。個人の幸福度を高めることが、ひいては社会や国や地球環境にも良い影響を与える。だから、ゆっくり呼吸をし、身の回りを見つめ直し、心のあり方に気を配る、そうした目に見えない価値を大事にする人が増えているのではないだろうか。これは音楽や芸術のあり方にも通じる。
社会の変化によって、教育のグローバル化も進んでいる。といっても、単に英語や外国語の学習時間増ではない。世界中どこでも学べる、という学習環境の変化だけでもない。「学び方」や「評価の方法」が変わるということである。たとえばフランスでは学術資料や問いかけを通して、考察力・分析力を養う(参考「質問を通して学びを深める」)。アメリカで提唱された予習先行型の授業("反転授業")では、予習で知識を入れておき、授業ではグループワークを行って問題発見力・問題解決力を養う。世界中の学術情報や専門知識がオンラインで瞬時に検索できるようになった今、「知識の大量暗記」よりも「知識をどう活用して問題解決するか」という思考力や考察力が評価対象となるのは、自然な流れである。今日本で、その評価方法が開発され始めている。
このような人間本来の知能を生かす教育はますます重要になるだろう。というのも人口知能の開発が急速に進み、近い将来、一部の職業はロボットに替わるといわれている。そこで今、人間にしかできないことは何か、人間本来の感性・知能・身体をどのように生かせばいいのか、人間らしさとは何か、を問い直す時がきている。
では音楽を学ぶことによって、何が養われるだろうか。今回は「社会は何を求め、音楽には何ができるのか」という視点で考えてみたい。
人には感情や意思があり、それを伝えたい本能があり、それが身体や言語を通して表現される。赤ちゃんは手足をバタバタさせながら、お腹すいた!こっち向いて!など本能のままに意思表示する。また子どもは全身と五感を駆使しながら、遊びをとおして人や世界との関わり方を発見していく。さらに成長すると、自分の感情をより多様かつ洗練された方法で表現したい、より多くの人に意思を上手に伝えたい、もっと大きな世界を知りたい、という欲求が出てくる。その様式化されたものが音楽や芸術である。言語表現であれば文学や詩、身体表現であれば楽器演奏、舞踊、絵画などである。
表現することは、人間の成長に欠かせない。20世紀初頭の英小児科医・精神分析医ドナルド・ウィニコットは、個性の発達や民主的な市民精神の形成には、子どもにとっては遊びが、大人にとっては芸術が重要な役割を果たすとした。「人間の生における芸術の役割は、何と言っても感情移入の能力を養い、伸ばしていくことにあると考えたのです」(『経済成長がすべてか?―デモクラシーが人文学を必要とする理由』マーサ・C・ヌスバウム著、小沢自然・小野正嗣訳、2013年)。
しかし、時にそれが欠けてしまうことがある。その一例として著者は19世紀哲学者ジョン・スチュワート・ミルを挙げ、幼少期から言語・歴史・科学の優れた教育を受けていたが、想像力の資質が養われることがなく青年期に憂鬱になり、やがてワーズワースの詩に出会ってから自らの感情を開放し他人にも思いやりの心を持てるようになった、としている。
では、どのように表現の世界に入っていけばいいだろうか。全身を動かして音楽を表現するリトミックは、創造性豊かな遊びから芸術体験への一歩といえそうだ。スイスの音楽家エミール・ジャック・ダルクローズが創案し、心身の調和、音楽性、ソルフェージュ能力などを高めることを目指した音楽教育である。幼児の自律心や集中力の育成、他人との触れ合いなど様々な教育的要素を含むため、「音楽のスキルのみならず、人が人として生きていく上で大事なもの、ヒューマニズムを音楽を通して気づかせることができます」(神原雅之氏談/国立音楽大学副学長・日本ダルクローズ音楽教育学会理事)。
人は成長するにしたがって、より多様で複雑な表現を求めるようになる。ピアノやヴァイオリンなどの楽器はその可能性を大きく広げてくれる。音楽の世界には、人間の喜怒哀楽、信仰、想念、ユーモア、風刺、歴史、土地、民族、舞踊、自然、抽象的概念などあらゆるものが存在し、それが時代様式や楽曲形式にしたがって表現されている。だからこそ、その様式や語法を学ぶことによって作品の真意を知ることができる。特にピアノ曲だけでも数万曲あるが、人の表現力の幅広さ、深さ、凄みははかり知れない。(参考:ピアノ曲事典)どんな小さな曲でも、それを弾くことによって、きっと今までに経験したことのない未知の世界が広がるだろう。
では、その先に待っている世界はどんなものだろうか。そこには国籍や立場を超え、心をオープンにして共鳴しあう姿がある。こちらに、2012年度リーズ国際ピアノコンクール審査員の一言をご紹介したい。
- トップページ写真は2013年度エリザベート王妃国際コンクールです(photo:Queen Elisabeth Competition)。
- 第1章:社会的観点から
はじめに 「社会は何を求め、音楽には何ができるのか」- 1.「表現する力」
表現したい本能は赤ちゃんから大人まで
表現様式を知った先にある世界 - 2.「文脈を読み解く力、創る力」
音楽家は優れた解読者でもある!?
体系的な学びは、他分野にも応用できる - 3.「本質を問う力」 リベラルアーツしての音楽~知識を知力に
リベラルアーツとしての楽器演奏~感覚を表現に
問いかけ体験して学ぶ、アクティブ・ラーニング - 4.「協働する力」 自分の役割を知り、他者とコラボレーションする
米大学AO入試で評価されることは
PISA世界学習到達調査に新たな指標 - 5.「世界とつながる力」
小さい頃から身につく異文化理解力・受容力
世界の音楽仲間に出会い、関わること
様々な世代と接すること - 6. 見えにくい力を評価すること
音楽や勉強での見えにくい力とは
音楽を含む全人的教育では、問いかけが鍵に
言葉になる以前の、感じる力
- 1.「表現する力」
表現したい本能は赤ちゃんから大人まで
- 第2章:歴史的観点から
-
1. 古代・中世では、音楽を教養として
古代ギリシアの教養人=リラが弾ける人だった
中世では、音楽を大学教養課程として学んだ -
2. 近代では、音楽を専門&教養教育として(米)
ドイツからアメリカへ渡った音楽教育
ハーバード大でカリキュラム近代化・自由選択化へ -
3. 日本では、音楽を専門&師範教育として
日本に西洋音楽を導入したのは
近代から現代へ至る歴史の中で
大学音楽教育に音楽を取り入れる新たな動きも -
4. 民間が担ってきた教養としてのピアノ学習
指導者環境の変化によって、繋がり支え合う指導者
学習者環境の整備によって、動機づけが変わった
音楽環境はどんな学びの変化をもたらしたか -
3. 日本では、音楽を専門&師範教育として
日本に西洋音楽を導入したのは
近代から現代へ至る歴史の中で
大学教育に音楽を取り入れる新たな動きも -
4. 民間が担ってきた教養としてのピアノ学習
指導者環境の変化によって、繋がり支え合う指導者
学習者環境の整備によって、動機づけが変わった
音楽環境はどんな学びの変化をもたらしたか -
5. 専門と教養が融合する時~金子一朗さんインタビュー
1.音楽と数学はなにが似ているのか?
2.全員が弾く時代に、音楽の何を学ぶべき?
3.音楽・数学・歴史・全てを関連づけながら学ぶこと
-
1. 古代・中世では、音楽を教養として
古代ギリシアの教養人=リラが弾ける人だった
- 第3章:脳科学的観点から
- 第4章:経済「音楽の見えない経済的価値とは?」
- 1. 暮らしの質全体を測るべき 日本国民は教養費・教育費にどれだけかけているか?
-
2. 自己成長~それは消費か投資か?
音楽を習う動機を7つに分類
人間には成長欲求がある
中高生・成人のステップ参加 - 3. 自己成長および社会との関係構築に
人間には繋がりたい欲求もある
社会への還元もステーション運営や社会貢献など
自己投資だと思える消費とは?自ら選び、自ら関わること -
4. 教養費を増やして医療費を軽減!?
教養・技能教育は1兆円、精神科病院は1.5兆円規模
高齢者×アートの取り組み、および社会的インパクト研究(英) -
5. 人的資本投資の21世紀~エコノミストに聞く
世界の新しい幸福度指標は「人」と「社会」
今現在の支出削減より、未来のための投資を -
6. 世界の文化費・教育費のトレンドは?
フランス×人間理解と能力開発
イギリス×全ての人にアートを&経済効果測定も
スウェーデン×民主主義社会の創造 -
7. 世界的に投資が進む人文学研究、音楽も力に
学際的研究が進むと、なぜヒューマニティーズが重要になるのか
ヒューマニティーズの音楽・芸術分野への応用
- 第5章:大学最新カリキュラム編
- はじめに
- 1. 音楽で思考法、実践力、創造力を養う~総合大学教養科目 慶應義塾大学~知識は実践してこそ!「身体知・音楽」
- 2. 音楽を深く学んだ社会人を育てる~総合大学音楽学部・音楽専攻
青山学院大学~芸術の学びを糧に社会へ
フェリス女学院大学~音楽が心にある豊かさ
金城学院大学~3タイプの音楽家像を想定して - 3. 音楽の可能性をさらに掘り下げて~音楽大学
音楽大学 その1「東京藝大~スーパーグローバル大学創成支援認定校に」
音楽大学 その2「東京音楽大学~演奏と作曲を同時に学ぶ」
音楽大学 その3「昭和音楽大学~博士課程&短大社会人コース」
番外編 音楽で思考法や創造力を養う~国際バカロレア東京学大付中高
- 第6章:ライフスタイル&ボディ編
音楽ジャーナリストとして各国を巡り、国際コンクール・音楽祭・海外音楽教育などの取材・調査研究を手がける。『海外の音楽教育ライブリポート』を長期連載中(ピティナHP)。著書に『ハーバードは「音楽」で人を育てる~21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』(アルテスパブリッシング・2015年)、インタビュー集『生徒を伸ばす! ピアノ教材大研究』(ヤマハミュージックメディア・2013年)がある。上智大学外国語学部卒業。在学中に英ランカスター大学へ交換留学し、社会学を学ぶ。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会勤務を経て現職。2007年に渡仏し「子どもの可能性を広げるアート教育・フランス編」を1年間連載。ピアノを幼少・学生時代にグレッグ・マーティン、根津栄子両氏に師事。全日本ピアノ指導者協会研究会員、マレーシア・ショパン協会アソシエイトメンバー。 ホームページ:http://www.erikosugano.com/
「ピアニストがステージに出てくるたびに、私は自分の心をオープンにし、彼らが私の心に語りかけ、自然に涙をもたらしてくれる瞬間を待っているのです。「この人こそ私が待っていたピアニストだ」と。そのピアニストが心から愛している曲を弾き、そこから愛情と高揚感が自然に溢れ出て、我々もそれを愛さずにはいられない、それはまさに魔法の瞬間です」(ロバート・レヴィン氏、ピアニスト・元ハーバード大学音楽学科教授)