海外の音楽教育ライブリポート/菅野恵理子

脳と身体は演奏家にどう影響?~古屋晋一先生×ハノーファー音大留学生3名対談

2012/11/03
脳と身体は演奏家にどう影響しているのか?
~古屋晋一先生・尾崎有飛さん・佐藤圭奈さん・保屋野美和さん
研究所内に4人に集まって頂きました!この部屋では音楽生理学の講義が行われ、筋肉の人体モデル等が置かれてある。
研究所内に4人に集まって頂きました!この部屋では音楽生理学の講義が行われ、筋肉の人体モデル等が置かれてある。

脳と身体の動きから演奏家が抱える諸問題解決を試みる、興味深いご研究をされている古屋晋一先生。ピアニストに特化した研究は世界で唯一の存在だそうだ。一方ハノーファー音楽演劇大学に留学して5年以上経つ尾崎有飛さん(07特級グランプリ)・佐藤圭奈さん(08特級グランプリ)・保屋野美和さん(06特級銅賞)。いずれもピティナに馴染みのあるお名前である。今回その3人に、古屋先生が勤務する同大付属「音楽生理学・音楽家医学研究所」に集まって頂いた。3人ともそれぞれ古屋先生とはよくお話をしたり、研究所を訪ねたりするそうだ。その目的とは・・?また「良い緊張感」「ステージ上でリスクを取るか取らないか」、その時の脳の活動状態などについても話して頂いた。

ハノーファー音大で「上手な演奏」の模範データを取りたい
左より、尾崎さん、佐藤さん、保屋野さん、古屋先生。
左より、尾崎有飛さん、佐藤圭奈さん、保屋野美和さん、古屋晋一先生。
―ハノーファー音楽大学では、音楽生理学の授業があると伺いました。実際に授業を受けて知識を得たことで、どのような意識が高まりましたか?練習の効率性を良くしたいとか。

尾崎有飛さん:学部課程の時、半年間必修で音楽生理学の授業を受け、神経と筋肉などについて勉強しました。演奏に繋がったこととしては、練習しすぎない、またよく休みをとることですね。効率よく練習しなくてはならないことは、ドイツ留学当初から思い始めたことではありました。日常生活の中で家事などもこなさなければならず、時間も体力もかかりますので。授業の方は何とか難しいドイツ語の専門用語を覚えて試験にパスしましたが、昨年古屋さんがいらっしゃってから色々な話を聞くうちに、改めて勉強できた気がします。

―予防に関してお伺いしますが、ちょっと手が痛くなったら研究室を訪ねて診て頂くことはありましたか。

佐藤圭奈さん:痛いんですけど・・と言ったことはあります。「揉まないでね」とか(筋肉の動かし方)をこうしてみたらとアドバイス頂きました。

尾崎さん:あまり痛くならないですね。でも手が痛いと古屋先生に見せただけで、どこがどうなっているかすぐに気づいて下さいました。

古屋晋一先生:データを沢山取っていくと、目が高速度カメラのようになってきて、瞬時に症状が予測できるようになります。たとえば医者の中には患者さんがドアをノックして入ってくる瞬間に、身体がどう歪んでいるのか分かることがあるようです。私はまだそこまで分かりませんが。

保屋野美和さん:私は、痛くて弾けなくなるということはないですね。

―古屋先生にお伺いしますが、学生の皆さんに実験にご協力して頂く目的を教えて頂けますか?
高速度カメラ11台で、ピアニストや楽器奏者の演奏中の身体の動きを撮影する。
高速度カメラ11台で、ピアニストや楽器奏者の演奏中の身体の動きを撮影する。

古屋先生:患者さんとの違いを見るためですね。正しい弾き方をしているモデルとして皆さんを調べさせて頂いているので、正しいのとそうでないのが比較できると予想ができます。たとえば患者さんが弾いた時のデータをそこに入力すると、「あなたはジストニア気味です」という結果が導き出すことができます。それで9割くらい分かります。1年間皆さんに来て頂いたおかげで、こうしたデータが取れるようになりました。

今後行いたい実験は、ハノーファー音大ピアノ科の学生さん全員のデータを採って、何が弾ける人はどういう弾き方をしているのかを調べたいです。これだけ弾けるのにさらに上手くなりたいと練習しているわけなので、例えば「あの子みたいに弾けるようになりたい」といったニーズに応えてあげられるようになりたいです。高いレベルの中での僅かの差だと思います。今はまだ15~20人ですが、いずれ50名くらいはデータを採りたいですね。皆さんまた来てくださいね(笑)。

ステージ上でのあがり、または良い緊張がもたらすもの
―ピアニストは身体を使う仕事ですが、脳と身体の関係という点において、あがり症の克服方法なども研究をされていますか?

古屋先生:非常に研究したいのですが、アプローチしにくい問題ではありますね。こうしたらあがらないとか、なりにくい方法はそれぞれありますか?

尾崎さん:あがらないだけの準備をしておくことでしょうか。

佐藤さん:自分の場合は直前にならないと分かりません。舞台袖にきて初めて自分がどれだけやってきたかが分かるし、鍵盤の前でそれが表れます。でも、ここまでやったと思ったところでそれは関係ない時もあります。深層心理が関係しているのかもしれませんね。

古屋先生:蓄積があると予測がつきやすいでしょうか?これくらい練習していればこれくらい弾けるだろうとか。

佐藤さん:昔よりはそういう傾向が増えたとは思いますが、でもやはり予測はつかないです。

―佐藤さんは昨年香港国際コンクールで2位入賞しましたが、その時はいかがでしたか?とても堂々としているように見えました。緊張感は集中力とも関係があると思います。

佐藤さん:あの時は良い緊張感でしたね。緊張にも様々な種類があって、心臓がバクバクしてどうにもコントロールがつかなくなる緊張と、どこかで第三者が見てくれているという良い緊張感です。大体弾き始めたら分かります。

ハノーファー音大の前庭から研究所を眺めて。道路を挟んですぐ向かい側にあるので学生さんも利用しやすい。もちろんプロの音楽家も足を運ぶという。
ハノーファー音大の前庭から研究所を眺めて。道路を挟んですぐ向かい側にあるので学生さんも利用しやすい。もちろんプロの音楽家も足を運ぶという。
―保屋野さんは現在ハノーファー音大で伴奏ピアニストとして活躍されていますが、他人と合わせる時、その人の緊張が伝わってきたり、また逆に良い緊張感を二人の間で作っていくことはありますか。

保屋野さん:緊張される方はいますが、私はあまりそれに影響されないですね。こちらがアプローチしたらのってくる方もいます。またお互いの意見を言い合い、一緒に作り上げていく中で良い緊張感が自然にできてくることも多々あると思います。
もちろん準備にどれだけ時間をかけられたかというのは大事だと思いますが、自分の中で演奏のプランがしっかりあって、聞きたい音が聞こえている時は練習期間が短くてもなんとか乗り切れます。弾く前に「どれだけ音が聞こえているのか」が私にはとても重要です。練習の段階でも(自分と相手の)音が聞こえていれば、もっと楽しいことがステージの上でできると思います。

―心理的な要素もあるかもしれませんが、これをしたいという意志が緊張感を上回ると、演奏に集中できるものでしょうか。何かを克服する時も同じかもしれませんが、こうしたいという意欲が強ければ強いほどその手前にある障壁を乗り越えることができますよね。

保屋野さん:そうかもしれません。私の場合は本番前に「あともう一つ」が来るのです。その課題を乗り越えるようにしています。舞台に立つイメージが鮮明になるにつれ、緊張や不安もありますが、「こうする」と決めて楽しむことで乗り越えているのかもしれません。

本番中に生まれる新しい考えに、トライするかしないかの分岐点

尾崎さん:投げ出して帰りたくなるくらい緊張する時もあるし、ほとんど緊張しない時もありますが、本番前に感じていた「程よい緊張感」に関しては、4~5年前と今とでは違う気がします。たとえばここ1年は、程よい緊張感より、逃げ出したくなるほど緊張している時の方がうまくいっているような気がします。

―音楽の大きさや奥深さ、それに対する畏怖のような感覚が芽生えたからでしょうか。

尾崎さん:本番5日前くらいになってから、自分が練習してきたものと全然違う弾き方が頭の中に出てきたりします。新しくぱっと思いついたものや、本番中にぱっぱっと変えながら弾いている方がうまくいっているような。そういう時の録音は気に入らないことの方が多いですが、聴いて下さった方々には評判が良いようです。

古屋先生:本番の最中に新しいインスピレーションが出てきた時にチャレンジするかしないかという問題と近いですよね。やってみるか、やらないか。皆さんはやってみますか?

尾崎さん:やってみます。逆に新しい考え方が出ているのに、今まで弾いていた通りに無理やり弾こうとすると失敗するように思います。例えば間の取り方やルバートのかけ方等、ある部分で新しいものが思いついたら、その次もうまく繋がっていくことが多い。結局準備できているかどうかは、本番でぱっと対応できるか、適応力がついているかどうかだと思います。特にメトネルは弾いている途中でぱーっと新しいアイディアが出てきますね。

―その場で出てきた発想を尊重する。それは良い意味での緊張感があるからですね。

尾崎さん:ただそれがいつもうまく行くわけではないので、最近は投げ出したくなるように緊張するのかもしれません。

古屋:あるコンサートの前に針を打って臨んだことがありましたが、全然緊張しませんでした。でも何を弾いていても淡淡としてインスピレーションも湧かない。そういう意味で、緊張というのはそれをくれるきっかけ、種のようなものですね。

―今はそういう瞬間が訪れてほしいと思いますか。

尾崎(&全員):思いますね。バーンスタインは著書で「本当に上手く行っている時は、熟知している曲をその場で作曲しながら弾いているような気分になった時の演奏はうまくいっている」と言っています。まだそんな境地には遠いですが、たまにインスピレーションが出てくるのはその片鱗なのかなと思います。

古屋先生:そういうことはレッスンで教えてくれますか?本番でどう精神を高めるか、インスピレーションの対処法など。

保屋野さん:ベルント・ゲツケ先生は、本番直前の極度な練習は避け、散歩をするなどリラックスして楽しんで、と伝えて下さったことがありました。

佐藤さん:マルクス・グロー先生は彼自身もピアニストなので、演奏中にそんな現象があるんでしょうし、「前回と違うけど今の方がいいよ」とか「君の中からちゃんと表現が出てきているからいいんじゃない」という肯定的な捉え方をして下さるので、不安が軽減されて本番に臨めます。

リスクを許してくれる社会は、自己成長や音楽作りにどう繋がったか
―脳科学的にはインスピレーションがわく瞬間には脳波に変化が起きるのでしょうか。

「帯状回」(脳の前方にある部位?)を電気刺激して活動を抑制すると、決まったパターンの行動しかしなくなります。そこは創造を司る部位だと言われています。そこを刺激したら新しいインスピレーションが湧くかもしれない(笑)。

―新しいアイディアやインスピレーションが湧いた時、トライする人としない人がいると思いますが、トライしないとその部位が発達しないものでしょうか。

古屋先生:それは大きさで決まっていて、大きい人の方がトライしやすいという文献があります。リスクを取るか取らないかに近いですね。新しいことや予測不可能なことにチャレンジするかしないかは、構造で分かることがあります。

―構造的な要因なのですね。ということは、きっと皆さんのは大きいですね!

佐藤さん:昔はそういった考えはなかったですね。ひらめきや今感じているようなことは、ドイツに来てからです。

保屋野さん:私もそうです。

―たとえば異文化に触れることや違う環境に入ることで、その脳の部位が活性化されることはありますか。

古屋先生:それは確実にあるのですが、恐らく何らかのきっかけで初めてチャレンジした時に、「うまくいった」「良かった」「面白かった」という経験があり、だからもう一度やってみようという考えになったと思います。そのきっかけは何だったのか。それがなぜ日本ではなかったのか?

佐藤さん:日本でも先生はそういうのが必要だと仰っていましたし、その片鱗はあったと思います。でもドイツに来てから、日本では触れられなかった音楽や演奏家のアイディアや演奏を聞くことによって、今まで何千回も聞いたことのある曲でも新しい解釈の幅が広がっている気がします。それをどこかで消化して、いつの間にか出てきているのかもしれません。

保屋野さん:ドイツと日本では環境も気候も人も音楽に対する姿勢も違うと思うのですが、こちらではより自由でいられます。私が最初に驚いたのは、受験の時も先生方が「じゃあ、弾いてみれば」とプッシュがなかったこと。また留学直後にイタリアのコンクールを受けに行ったのですが、鐘の音がホール内まで聞こえてきたり、自然に呼吸するように音楽が存在しているのが感動的でした。ハノーファーは演奏も上手い人が多いのですが、それだけでなく意志がある。基本的なことが出来ている上に、表現や発言の自由がある。自分の音楽もそこから少しずつ変わってきたと思います。音楽の基礎の部分と、それぞれ違っていて良い部分と、その両方がバランスよく学べたのが良かったと思います。

―リスクを取ることを許してくれる社会ですね。初めて何かに挑戦する時にそのような環境にいることは大事ですね。

尾崎さん:日本では高校生だったこともあって、多少自分で作りきれてない状態でレッスンに行っても先生が方向性をつけて下さっていましたが、こちらではそれがまるっきりない。自分である程度の水準まで仕上げていかなくてはなりません。そう考えるようになってから、本番でぱっぱっと自由にチャレンジするようになってきた気がします。

―自分で考え、悩みながら選択し、決断して前に進むという思考回路ができ、それがステージの上でも瞬時に行われているわけですね。それは神経も体力も使うことなので、ステージが以前よりも大変なものになってきたのでしょう。でも同時に喜びや大きな興奮でもあるから、立ち向かっていきたいのだと思います。
3人ともこの5~6年でとても成長された気がします。古屋先生とピアニストの皆さん、本日は貴重なお話をありがとうございました。
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菅野 恵理子(すがのえりこ)

音楽ジャーナリストとして各国を巡り、国際コンクール・音楽祭・海外音楽教育などの取材・調査研究を手がける。『海外の音楽教育ライブリポート』を長期連載中(ピティナHP)。著書に『ハーバードは「音楽」で人を育てる~21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』(アルテスパブリッシング・2015年)、インタビュー集『生徒を伸ばす! ピアノ教材大研究』(ヤマハミュージックメディア・2013年)がある。上智大学外国語学部卒業。在学中に英ランカスター大学へ交換留学し、社会学を学ぶ。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会勤務を経て現職。2007年に渡仏し「子どもの可能性を広げるアート教育・フランス編」を1年間連載。ピアノを幼少・学生時代にグレッグ・マーティン、根津栄子両氏に師事。全日本ピアノ指導者協会研究会員、マレーシア・ショパン協会アソシエイトメンバー。 ホームページ:http://www.erikosugano.com/

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