古屋晋一先生インタビュー~独ハノーファー音大・音楽生理学研究所を訪ねて
~脳と身体の科学が音楽家にもたらすものとは
脳と身体の働きを知ることは、音楽家にどのような影響をもたらすのだろうか。長年その研究をされている古屋晋一先生は、約1年前に米ミネソタ大学から独ハノーファー音大付属の音楽生理学・音楽家医学研究所に移籍された。ハノーファー音大は1980年代に世界に先駆けて同研究所が設立され、現在もこの分野における最先端である。効果的に身体を使いながら演奏するにはどうすればよいのか、どのようにしたら手や指の故障を防げるのか。音楽生理学の内容とは?今年11月日本で開催されるワークショップに先駆けて、古屋先生の研究室でお話をお伺いした。
ミネソタ大学神経科学部ではピアノを弾く手の動きの研究をしていました。しかし全米にジストニアを患った音楽家の方は数多くいらっしゃるのですが、一か所では集中して実験を行う」のが難しい環境にありました。ハノーファー音大のエッカルト・アルテンミュラー博士(Eckart Altenmüller、音楽生理学・音楽家医学研究所所長)とは2005年から一緒に仕事をしていまして、こちらで患者さんのために一緒に仕事がしたいという話になり、昨年ハノーファーに移りました。
アメリカではミネソタ大音楽学部アレクサンダー・ブラギンスキー先生の学生さんなどが実験に来てくれたりしていましたが、研究所自体は音楽の現場とは孤立している感じでした。ここハノーファー音大の研究所は特別ですね。すぐ向かいに音大がありますし、患者さんといつでも話ができますので、アクセスが良くコミュニケーションもしやすいです。
学生さんの中ではアジア系が多いですね。ピアノに限らず他楽器でも同じです。時期的にはコンクールの時期や試験前に患者さんが増えますね。
そうですね。でも予防でいらっしゃる方はまだ少ないです。どうしても限界まで頑張って我慢してしまう。早い段階であれば治りますが、発見が遅くなると治療に時間がかかるので、そうならないようにしましょう、と授業で学生さんに伝えています。
解剖や生理学の授業や、「なぜ疲れるのか」「疲れた時、筋肉や脳はどうなっているのか」「予防するにはどんな弾き方や身体の使い方をすればいいのか」という予防策と、自分たちで考えてもらうためのワークショップ形式のディスカッションを行っています。たとえば20名を5名×4グループに分けて、自分たちで発見したことを1~2週間後に発表・議論してもらっています。
筆記試験があります。例えば「あなたの友人が『手が痛い』と言っています。あなたはどうアドバイスしますか?」という問題。正しい答えがあるわけでないのですが、授業を受けていれば大体答えが分かってきます。正しくない答えの典型例としては「もっと練習しても大丈夫だよ」というもの。またよくありがちなのが、上手くなる過程で痛みがあると、筋肉が発達しているからだと勘違いすることですね。これは単なる炎症なのでやめなくてはなりませんが、それを我慢したらもっと上にいけると誤解するケースもあります。「我慢してもっと頑張ってね」というのは誤りです。
アジア出身の患者さんが多いのは、それも一つの要因だと思います。中には倒れるまで練習する方もいらっしゃいます。また偉い先生に対して、痛みがあることを告げづらいという風習もあるようですね。
ハノーファーにいる間はいいのですが、別の場所に行ってしまうと継続的な治療ができないのが残念です。
日本の大学では患者さんを直接研究する機会はありませんでしたが、プロやアマチュアの方を調べたり、上達の過程を明らかにすることによって、「『上手い』とは何だろう、どうしたら上手くなるんだろう」ということを調べていました。
はい、大学院の授業ではそのようなことを教えています。まず学生全員に概論を教え、あとは個人的に学生さんがコンタクトを取ってくるので、研究室で実際にピアノを弾いてもらい、「ここが弾きにくい、ここが痛い」といった問いかけに対して「こうしたら?」というコンサルテーションをしています。
皆さんそう仰ってくれていますね。ハノーファーは音楽生理学の世界発祥地で、ここからまずドイツ国内に広まり、ベルリンやドレスデン音大の中にクリニックを設立する動きが出てきました。ドイツ以外ではカナダのオタワにも一か所ありますが、実はアメリカにはないのです。
ドイツはもともと医学の発祥地でもありますから(カルテというのはドイツ語です)。それに加えて興味深いのは、クラシック音楽には深い歴史があり、それを守るということをよく考えているなと思います。新しいものを入れて歴史が守られるのであれば、取り入れようと。ある意味でそれはラディカルなことだと思います。
そうですね。もちろん批判も沢山ありました。前任者の方は整形外科の先生だったので、筋肉や骨の仕組みは分かってもそれを動かす脳はどうなのか、という医学的な批判が一つ。また音楽家も慣れていないので、どう付き合っていいか分からないという戸惑いがありました。
高速度カメラ11台で撮影し、演奏中の身体の動きを3Dで描き出す。左は奥様の絵理さん。現在ハノーファー音大でチェロ科コレペティトゥアを務めている。
古屋先生が独自に開発したセンサー付グローブ(写真では右手に着用)で、指の動き方を精査する。
高速度カメラのある部屋は身体の動きを描写するもので、動きから脳の仕組みを探っていきます。例えば脳に問題があるから手や指に震えがくる。しかし震えの原因は脳波だけではわかりません。その場合には動き方を見て、震えがどの関節に出るのか、どういう時に出るのか・・・そこから脳の働きを知るわけです。これは「ボトムアップ」と呼ばれているアプローチです。また脳を直接調べる、つまり脳波を調べたりMRIを取ることは「トップダウン」と言います。そして双方向的に見るというのがこの研究所のアプローチです。
脳波が先です。所長のアルテンミュラー博士はもともと脳波で歩行の研究をしており、それを音楽家にも応用しようと試みています。一方、高速度カメラ(2年前に設置)を使った動きの研究は私の専門分野なので、動きからボトムアップを広げていこうというのが彼の思惑だったようです。
はい。研究の成果をすぐに現場に還元する仕組みがあります。ジストニアにおける脳の過剰な活動を抑制するためのリハビリや治療法を開発することが現在の私の研究テーマで、それをすぐに患者さんに還元することで、どう症状が改善されたかという経過を見ていきます。
ジストニアと分かっているのはシューマンですね。文献を探っていくと、最初は腱鞘炎と診断されていたのですが、実はジストニアだったようです。あとはベートーヴェンの耳鳴りですね。
すごく多いのでそれが問題ですね。これから予防にも力を入れていきたいと思います。
音楽ジャーナリストとして各国を巡り、国際コンクール・音楽祭・海外音楽教育などの取材・調査研究を手がける。『海外の音楽教育ライブリポート』を長期連載中(ピティナHP)。著書に『ハーバードは「音楽」で人を育てる~21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』(アルテスパブリッシング・2015年)、インタビュー集『生徒を伸ばす! ピアノ教材大研究』(ヤマハミュージックメディア・2013年)がある。上智大学外国語学部卒業。在学中に英ランカスター大学へ交換留学し、社会学を学ぶ。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会勤務を経て現職。2007年に渡仏し「子どもの可能性を広げるアート教育・フランス編」を1年間連載。ピアノを幼少・学生時代にグレッグ・マーティン、根津栄子両氏に師事。全日本ピアノ指導者協会研究会員、マレーシア・ショパン協会アソシエイトメンバー。 ホームページ:http://www.erikosugano.com/