香港国際ピアノコンクール(4)パスカル・ロジェ先生が語る10代の教育
佐藤圭奈さんが第2位に入賞した香港国際ピアノコンクール。前回記事(3)では膨大なレパートリーについて、審査員の一人パスカル・ロジェ先生にご意見を伺いました。(4)では続編をご紹介します。コンクール期間中に開催されたガラコンサートに二度出演され、普段もアーティストとしてのご活動で多忙なロジェ先生の視点から、コンクールは心の触れ合いが大切であること、またご自身の経験から10代に必要なこと等を語って頂きました。
コンクールでも大切なのは心の触れ合い
―2週間にわたるご審査やガラコンサートでの演奏等、誠にお疲れさまでした。このコンクールは、審査員の演奏やマスタークラス、レクチャーもあるのが特徴ですね。
そうですね。弾くこと、教えること、聴くこと、集まること、そして音楽を共有すること・・・まさに音楽の総合イベントですね。審査員も若いピアニストに歩み寄り、ただ褒めるだけでなく、今後のためになるアドバイスをします。我々審査員は壁の後ろにいるわけでなく、人間同士のコミュニケーションを交わすことを厭いません。ですから私は質問があればいつでもどうぞ、というオープンな姿勢でいます。何人かと話しましたが、こうした会話はコンクールの建設的な一面だと思います。
我々審査員のほとんどは演奏家であり、審査するよりもステージで演奏する方が自然です。ですからただ審査席に座っているだけでなく、参加者と同じく我々もステージに立ち、リスクを背負うわけです。だから審査員が演奏家であることは、同じ立場の人に対するリスペクトがあるとも言えるでしょう。またコンクールでは、たとえ入賞しなくても、人間的なコミュニケーションや心の触れ合いの方が大切です。一次予選で落ちてしまった子の中でありきたりでない演奏をしたピアニストがいましたが、「自分の考えるように弾くことは、演奏家としては決してマイナスではないから、それを失わないでほしい」と伝えました。
10代の学びとは?
―フレーズ、音色、ディナーミク、楽曲解釈など、若いピアニストの音楽作りに関してはどうお考えになりますか。
もちろんまだ学ぶべきことは多くあると思います。例えば最年少14才の彼(ミン・ハオ・ツァイさん)は自然にフレーズを作り、歌うことができます。これは生まれつきの才能でしょう。大事なのは、良い先生のもとでそれを発展させること。3位というのはまだ学ぶことがあるという情報を彼に与えてくれます。この道を歩み続けることは間違いないとしても、今はコンサートを入れず、先生のもとでしっかり勉強することが大事なのです。私自身は15歳の時に初めて受けたエネスク国際コンクール(ルーマニア)で4位に入賞しました。その時の1位はラドゥ・ルプーでした。審査員の中にナディア・ブーランジェ先生がおられまして、コンクール後に彼女が話しかけて下さいました。「あなたね、本当のことを教えてあげるわ。一次予選で私はあなたに0点をつけたの。それは才能がないということではなくて、あなたは今練習しなければならない年齢だからよ。まだ成功を追い求めて演奏する年じゃないわ。でも私以外の審査員は皆高い点数をつけたようだし、二次予選以降は私も高い点数を入れましたよ。さあ、もうこのコンクールのことは忘れて、家に帰って練習しなさいね」と仰って去っていきました(笑)。でも今、私はこの14才の男の子にそう伝えたいですね。
―ブーランジェ先生のかなり率直なアドバイス・・の後、学び方は変わりましたか?
いえ、まだ若かったですし、真実に気づくのに何年もかかりました。17歳の時、ジュリアス・カッチェン先生に師事してからですね。初めて聴いてもらった時、「君はテクニックがありすぎるね」と言われました。最初はその真意が分かりませんでした。自分が一生懸命練習して身に着けたテクニックをできる限り披露したかったのですから。でも当然ながら、その背景にフレーズや音楽的な意味がなければ、テクニックは無用の長物になってしまいます。経験を重ねるうちに、感情や表現が一番大事であることが分かってくるのですね。テクニックはあくまで表現のための奴隷であると。しかしそのことに気づくまで時間がかかりますし、それを気づかせてくれるのが指導者の役割だと思います。
―ロジェ先生はいつ、どのようにその重要性に気づかれたのでしょうか?
カッチェン先生に師事してからですので、17歳から20歳の間ですね。彼はこうアドバイスしてくれました「ピアノから離れなさい。ものを考えたり、本を読んだり、美術館で絵画を見たり、芸術、文学、哲学・・・色々なものを受け入れて視野を広げることも大事ですよ。1日10時間もピアノの前で練習していたら、他のものに対する好奇心を失ってしまう。音楽はピアノの前で考えるだけでなく、人生を知ることでもあり、他人の心情に思いをはせることでもあるのだから」とね。そういえばある日先生から「今面白い企画展が開催されているから、今日はレッスンの代わりにこれを見に行かないか?」と言われ、一緒に美術館に行ったこともありました。指導者というのは(1度のマスタークラスではなく日常的な指導者という意味)ピアノを教えるだけでなく、人間として生徒がどう進歩していくかにも関わります。だから、とても責任ある仕事なのですね。
グローバリズムが進む中で
―音楽家の両親のもとに生まれ、パリの芸術環境の中で育ち、現在はNYにお住まいというロジェ先生。NYも芸術にはオープンな街ですよね。
ええ、様々な文化が存在する、刺激に満ちた街ですね。マンハッタンだけでも76の言語が話されています。ただ私は旅が多い人生ですから、特定の場所に属しているという感覚はありません。実際香港にいても家にいるような心地がするんですよ。文化の違いは違いとして、いつでも興味深く受けとめています。ピアノとPC、そして妻(デュオのパートナーでもある)がいればどこでも生きていけると思います。彼女も同じ考え方です。
小さい頃から様々な文化に触れ、世界には自分とは異なる言語・肌の色・習慣が存在することを知れば、よりオープンマインドになれると思います。グローバリズムはどんどん進んでいますから。ただどんな現象にもプラスマイナス両局面があるように、グローバリズムが進み過ぎてアイデンティティを失いつつあるのも事実です。その点日本は新しいものを受け入れる現代社会である一方で、伝統文化も大切にしているところが素晴らしいと思います。個性があるから世界の一部になれるのです。自分のアイデンティティを失えば、何者でもなくなってしまう。私自身は特定の国や文化に属している感覚はありませんが、今まで学んだ音楽・文学・哲学が私の血肉となっています。そして母国であるフランスという存在も紛れもなく自分の一部です。
―インターナショナルな存在だからこそわかる、アイデンティティを持つことの大切さ。ご自身の体験を踏まえての、10代の才能教育に関するご意見もありがとうございました!
音楽ジャーナリストとして各国を巡り、国際コンクール・音楽祭・海外音楽教育などの取材・調査研究を手がける。『海外の音楽教育ライブリポート』を長期連載中(ピティナHP)。著書に『ハーバードは「音楽」で人を育てる~21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』(アルテスパブリッシング・2015年)、インタビュー集『生徒を伸ばす! ピアノ教材大研究』(ヤマハミュージックメディア・2013年)がある。上智大学外国語学部卒業。在学中に英ランカスター大学へ交換留学し、社会学を学ぶ。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会勤務を経て現職。2007年に渡仏し「子どもの可能性を広げるアート教育・フランス編」を1年間連載。ピアノを幼少・学生時代にグレッグ・マーティン、根津栄子両氏に師事。全日本ピアノ指導者協会研究会員、マレーシア・ショパン協会アソシエイトメンバー。 ホームページ:http://www.erikosugano.com/