海外の音楽教育ライブリポート/菅野恵理子

リスト国際コンクール審査員インタビュー ニコライ・デミジェンコ先生

2011/04/22
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第9回リスト国際コンクールは既に終了しましたが、ここで審査員インタビューをもう一つご紹介します。音楽に対する妥協ない姿勢と真摯な眼差しが印象的なニコライ・デミジェンコ先生。来日機会も多く、「ニホン、ダイジョウブデスカ?」と日本を常に案じていました。優勝した後藤さんに関しては「自分の中の境界線を越えた」と高く評価。若い頃から自分の道を切り拓いてきた先生ならではのメッセージをご紹介します(決勝前日にインタビュー)。

「ただ、勇気を出せばいいのです」

―長時間のご審査お疲れ様です。幅広い視野と洞察力をお持ちの先生ですが、若いピアニストが世界でより力を発揮するために必要なことを、お聞かせいただけますか。

日本には才能ある若い演奏家が多くいますね。あるところまでは大変優れた成果を挙げ、非常にプロフェッショナルであり、音楽に対する深い理解力も兼ね備えています。一つだけ足りないとすれば、それは心理的なものでしょうか。若いピアニストの演奏を聴いていて時々感じるのは、途中でコミュニケーションがストップしてしまうことがあるのです。日本では伝統的に、自分の感情や意見を人々に向けて発信することをあまり良しとしない傾向があります。しかし音楽とはコミュニケーションの芸術です。鍵盤を押すことは物理的な動作であり、楽譜に書かれてある音符も物にすぎません。それを本物の音楽をするためには、感情を出してコミュニケーションすることが大事です。もちろんこれは一朝一夕に変えられるものではありませんし、乗り越えるには多くの時間が必要です。しかし世界には、勇気を振り絞り想像力を駆使して壁を乗り越え、劇的な変貌を遂げたアーティストが何人もいます。私の友人である富田勲氏もそうでした。だから、音楽家として強い個性を持ち、かつ寛容な人柄で、一緒に仕事をするのが楽しいのです。自分がこう感じるという内面の感情を人々に伝えることは、何ら悪いことではありません。ただ、勇気を出せばいいのです。
この傾向は、初期の教育にも要因があると思います。もちろん先生や周囲の言うことも聞かなくてはなりませんが、同時に自分自身の中に、世界を批判的に見る力を育てることも大切です。グレン・グールドを例に挙げましょう。彼は意図的に、他人とは違う形で音楽を創造しました。それによって、音楽に新しい世界を開いたのです。だから彼はオンリーワンの存在なのですね。

―デミジェンコ先生は幼少時代、どのような初等教育を受けられましたか?

私はロシアで教育を受けました。もちろん先生のレッスンも大事でしたが、同時に、音楽や芸術、人生に対して自立した思考を持つことを教えられました。(どのように?)それはとてもシンプルです。常に子供に対して、「選択の自由」を与えることです。「これをやりなさい」という代わりに、良い指導者は「あなたはこうできますよ。あるいは、こうもできますよ。その結果は、こうなります。どちらを選ぶかは、あなたの自由ですよ」と言うのです。すると子供はその選択行為を通して、心理的に自由を感じることができます。そして数年もすれば、選択する能力が磨かれるでしょう。判断が理性的とはいえない時もあるかもしれませんが、その結果や反響を知ることで自ら学ぶことができます。それがあなたを次の段階へ押し上げてくれます。最も重要なのは、もし誰かを感動させたい、誰かと感情のコミュニケーションを発展させたい、自分の芸術を進化させたいと思ったら、まずそのスタートラインに立つことです。

―先生の指導者やご両親は、選択の自由を与えてくれましたか?

ええ。私は小さい頃から音楽に魅せられ、その世界で今まで生きてきました。そんな私に対して、両親はいつでも「そうやってもいいわよ」と選択の自由を与えてくれました。もちろん先生もです。
実は12歳の時、私は音楽院の校長先生にあるお願いをしました。「先生、僕をコースからはずしてくれませんか?」と。私はスケール等の課題より、もっと本質的な音楽の勉強をしたかったのです。校長先生や私の担任はとても賢明で、「君の言い分はわかった。ただ試験はきちんと受けなさい。でもそれ以外は自分の好きな音楽を勉強していいですよ」と認めてくれたのです。まあ、とはいえ12歳ですから、ブラームスの第3番ソナタなどはさすがに「行き過ぎでは?」と諌められましたけどね(笑)。でもこれが我々の間の取り決めで、それがずっと続きました。

―自由を与えてくれたのは、信頼が根底にあったからですね。


音楽家も「今」を生きている―時間の観念・楽器・聴衆の変遷

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もう一つ重要なのは、我々音楽家は「今」を生きている存在です。今のように録音技術が開発される前は、例えばサンクト・ペテルブルグに行ってシューマンやジョン・フィールド、リストが演奏するのを聴いていたわけです。その体験や印象は他人と共有できるものではありません。その後録音産業が発達しましたが、我々の演奏と、ラフマニノフやホフマン、リヒテル、ホロヴィッツ等を比べようとしても、それは無理な話です。1920年代と同じ演奏はできませんし、我々自身も10年前と同じ演奏はできません。時間は刻々と過ぎてゆくもので、我々はその一部です。若い演奏家も、どのように時間を捉えるのかを慎重に考える必要があると思います。(写真:ユトレヒト市内。リストは1842年にこの街でコンサートを行った)

また、楽器やホールも変わっています。例えば我々がショパンやシューマン、バッハの音楽を弾く時、どの作品を弾こうと、それは「編曲」といえるかもしれません。なぜなら、当時とは全く違う楽器で弾くわけですから。皮肉なことに、ブゾーニのバッハ編曲作品は、厳密に言うならばもはや編曲ではありません。現代の楽器を効果的に用いた作品に仕上げているので、これはオリジナルの芸術作品と言えます。
ショパンの時代のピアノは、小さいながら信じられないほど多彩な色彩と繊細な音を出せました。当時のピアノで歌わせるためには、ペダルを常に踏み続けないといけません。でも今同じようにすると、音は濁ってしまいます。ほとんどの現代ピアノは、当時よりも発達していてパワフルになっています。それを現代のピアニストは考慮する必要があるでしょう。

また時代によって聴衆も変化しています。聴衆には受け入れられる音の許容範囲があります。19世紀の聴衆はよく教育されていて、コンサートに楽譜を持参し、音楽を耳だけでなく、目で追いながら楽しんでいました。1930‐40年代もオーケストラの総譜を持って聴いていました。また聴衆自身の嗜好を、間接的に他の聴衆にも影響を与えることができました。しかし音楽を専門的に理解する力は次第に後退していき、今はより受動的になっていますね。以前ほど音楽を話題にすることが少なくなっています。

ですから、もし演奏家が自分の信念や考え方を誰かに伝えたいのであれば、自分でその道を見つけなければなりません。だからこそ、日本人も感情の境界線を越えて、聴衆にコミュニケーションを取ることが求められていると思うのです。どの程度、精神と感情を世界に向けて表現できるのか。これは一つの挑戦だと思います。そう、勇気を持てばいいのですよ。

―感情を外に向けて表現すること。これから才能ある若いピアニストが世界を目指すにあたり、ますます自己表現は大事になっていきますね。貴重なご意見ありがとうございました!


ご自分で録音用マイクを開発するなど、常に研究を欠かさないデミジェンコ先生。国際時事問題にも大変詳しく、音楽以外のトピックについても視野の広さと冷静な視点を感じさせます。そのデミジェンコ先生に結果発表後、後藤さんの決勝での演奏についてご意見をお伺いしました。
「自分の中にある境界線を越えることは、芸術家として最も大事で難しいことです。後藤さんはそれができたから勝者になれたのです。彼の中で一段高みに達したのではないでしょうか。コンクールはスタートに過ぎません。その後どうなるかが重要です。彼は覚悟ができていますし、将来彼の望むところに到達できるでしょう。ぜひ今後も活躍してほしいと思います」。
ニコライ・デミジェンコ先生、6月来日公演予定
http://www.triphony.com/concert/20101226topics.php
「私はコンサートが行われる限り、必ず日本に行きますよ」と力強いメッセージ。

菅野 恵理子(すがのえりこ)

音楽ジャーナリストとして各国を巡り、国際コンクール・音楽祭・海外音楽教育などの取材・調査研究を手がける。『海外の音楽教育ライブリポート』を長期連載中(ピティナHP)。著書に『ハーバードは「音楽」で人を育てる~21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』(アルテスパブリッシング・2015年)、インタビュー集『生徒を伸ばす! ピアノ教材大研究』(ヤマハミュージックメディア・2013年)がある。上智大学外国語学部卒業。在学中に英ランカスター大学へ交換留学し、社会学を学ぶ。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会勤務を経て現職。2007年に渡仏し「子どもの可能性を広げるアート教育・フランス編」を1年間連載。ピアノを幼少・学生時代にグレッグ・マーティン、根津栄子両氏に師事。全日本ピアノ指導者協会研究会員、マレーシア・ショパン協会アソシエイトメンバー。 ホームページ:http://www.erikosugano.com/

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