海外の音楽教育ライブリポート/菅野恵理子

ザルツブルグ音楽祭(5) なぜ今「神話」なのか?オペラ2作品より

2010/08/20
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2010年の音楽祭テーマが「神話」であると知った時、なるほどと思った。
プログラムには、こう書かれてある。「神と人間が対立するところに、悲劇が生まれる」。これはミシェル・コールマイヤーの言葉である。

ギリシャ神話において神は自然や真理を象徴し、人間と相対する概念である。そして人間の利己的な振る舞いや、神と対立したり超越しようとする行為に対して報復を行う一方、試練を乗り越えた愛や友情には祝福をもたらす。これは人間の原初的な体験を擬人化したものであり、その神話が語り継がれている社会において普遍的価値観の拠り所となっている。

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photo:Ruth Walz

さて21世紀が10年が過ぎた今、20世紀を牽引してきた価値観は根底から揺らぎを見せている。ザルツブルグ音楽祭芸術監督を10年ほど務めるユルゲン・フリム氏(演出家・ドイツ)は、過去3年間でこのようなテーマ設定をしてきた。「理由の闇たる部分」(2007)、「愛は死を超えるか」(2008)、「巨大な力の戯れ」(2009)。理屈ではなく、人間を無意識的に動かす価値観などに焦点を当てている。

そして今年は「神話」。このテーマに沿い、「エレクトラ」「ドン・ジョヴァンニ」「ノルマ」「ロミオとジュリエット」などが今年のプログラムに組まれた。また開催90周年を記念して、ドイツの現代作曲家ウォルフガング・リームにオペラ作品を委嘱し、ニーチェの思想を踏まえた「ディオニソス」が世界初演された。

この時代において神話が語られるということは、何を意味するのだろうか。


究極の愛を美麗な音楽にのせて 「オルフェオとエウリディーチェ」

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photo:Hermann und Clärchen Baus

今回グルックの「オルフェオとエウリディーチェ」、ベルクの「ルル」を鑑賞した。
クリストフ・ヴィリバルト・グルック作曲「オルフェオとエウリディーチェ」(1762)は、リッカルド・ムーティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で上演された(オリジナル版)。

第一幕、妻の死を嘆き悲しむオルフェオを演じるのは、黒のスーツ姿が凛々しいメゾ・ソプラノのエリザベート・クルマン(Elisabeth Kulman)。体格はやや小柄だが声はしっかり出ている。数年前にソプラノからメゾソプラノに転向したそうだ。
舞台装置は非常にシンプルである。半円上の壁にドアが数箇所ついており、それが地上と冥界、男と女、人間と精霊といった対になるものを行き来することを象徴しているようだ。最愛の妻エウリディーチェ(Genia Kühmeier)が亡くなり冥界に消え、赤いドレスだけがオルフェオの手元に残る。嘆き悲しむオルフェオの背後で、琴を持ちオルフェオと同じ格好をした精霊が数人乱舞するが、これはオルフェオの精神が混乱し、さ迷っていることを現しているのか。

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photo:Hermann und Clärchen Baus

冥界に召された妻を偲んで、オルフェオは妻にもう一度会いたいと神に請う。すると愛の神アモーレが登場し、オルフェオにある条件を提示し、冥界へ行く許可を与える。アモーレ役のクリスティーネ・カーグ(Christiane Karg)は、厳しくも温情ある通りの良い声でこの役にぴったり。ちなみにオルフェオ役とエウリディーチェ役は共にオーストリア出身、アモーレ役はドイツ出身、ザルツブルグ音楽院で教育を受けている。

はたして冥界にたどり着いたオルフェオは、地獄での試練を乗り越え、エリゼの園にたどりつく。時空を超えた時の流れと、魂の永遠性を象徴する演出とライティングはシンプルながら見事。そしてムーティの指揮も、天国のような柔らかさを演出する。そこで二人は再会を果たすが、「決してエウリディーチェの顔を見てはいけない」というアモーレの約束に背き、背後を振り返ったオルフェオは永遠にエウリディーチェを失う。アリア「エウリディーチェを失って(Che farò senza Euridice?)」は、ハ長調だからこそ伝わる再会の喜びと切ない悲しみに満ちているが、クルマンは激情を理性で抑えながら歌い上げる。

このクルマン演じるオルフェオはどちらかというと精神的な愛の過酷さを表現し、エウリディーチェ役は肉体的な愛の喪失を感じさせ、両者の表現の食い違いが気になった。この舞台演出はシンボルのみにそぎ落とした現代絵画のようであり、描き出されている究極の愛の姿も叙情的というより観念的、音楽も優雅で理性的である。その点においては、オルフェオ役の方がこの演出に適していたかもしれない。

愛の神アモーレは、約束を破ったとはいえオルフェオの真実の愛を確認し、エウリディーチェを生き返らせる。すると、次々に恋人や夫婦がよみがえり、生きていた頃と同じように喧嘩し、愛を確かあう。それと同時に、第一幕で登場したオルフェオと同じ格好をした精霊は、黒スーツから赤いドレスに変わり、琴を持ったエウリディーチェ(の精霊)へと変身する。そしてエウリディーチェは赤から白のドレスに変わる。それは何を意味するのか?
2人は男女という対になる存在だが、試練を乗り越えて同質の愛を獲得し、崇高な幸福感の中でフィナーレを迎える。白黒のドレスで並び立つ二人は、まさに一心同体。そしてエウリディーチェとなった精霊たちがステージ前に並び、完全無欠な神話的絵図で幕は閉じられた。

グルックの音楽は、指揮者ムーティの感情と質感のコントロールが効いた指揮と演出によって、精神愛を説く絵巻物語へと昇華した。カーテンコールではマエストロも壇上に上がり、満席の会場は拍手喝采に包まれた。


男女関係のヒエラルキーを破る「ルル」、その顛末

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photo:Salzburger Festspiele / Monika Rittershaus

一方、アルバン・ベルク作曲の「ルル」。「オルフェオとエウリディーチェ」では愛しい女性の名を男性が呼ぶが、それから約200年後に作曲されたこの作品では、主人公は自分で「私はルル」と名乗る。女性性の変容とその顛末が描かれる。

主人公を演じるのは、フランスのソプラノ歌手パトリシア・プティボン。第一幕は白い羽根がついた白い下着姿で登場。プティボンの透き通るような白い肌と足、透明感ある声は、意図的に男性を誘惑して破滅させる典型的ファム・ファタルというよりは、悪意なき無意識や無自覚といったものを感じさせる。天使の羽根にも象徴されるように、ルルの精神は常に遠い理想の世界へと羽ばたき、現実感も罪の意識もない。プティボンの醸し出す浮世離れした雰囲気と透き通るようなソプラノは、まさにルルであった。

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photo:Salzburger Festspiele / Monika Rittershaus

このルルの演出・舞台装置はミラ・ネミロヴァという新進演出家が手がけているが、ドレスリハーサルの時点でかなり不評だったようだ。舞台装置は全体的にシンプルでやや稚拙、舞台転換も黒子が見えてどことなくぎこちない。しかし作品全体を通してみると、一つのメッセージがメタファーとした込められていたように思う。

第一幕ステージ右におかれた、丸いオブジェを積み上げたような3メートル前後の物体、そして第二・三幕では黒い三角錐の物体が中央に配置され、第三幕ではそれが灰色の三角錐のテントに変わる。
これは男性と女性のシンボルを表しているのではないかと解釈した。第一幕でルルの結婚相手は彼女の素性を知って自殺し、さらにルルはシェーン博士を完全に征服するが、横に置かれた巨大なオブジェがゆっくり倒されたのは、女性性による男性の凌駕を意味したのではないだろうか。第二幕でルルはシェーン博士を射殺するが、黒く尖った三角錐のオブジェは度を越す攻撃性を有した女性性を象徴しているようだ。そして、黒い衣装で現れたルルは、「自由!」と叫ぶ。が娼婦に身を落とす第三幕では、三角錐のオブジェはそのまま灰色のテントへと変わり、ルルは一連の行為の審判を受ける。本来はロンドン下町の設定ではあるが、背景をテントと雪山にしたことで、ルルの運命を視覚的に暗示していた(賛否は別として)。そこに切り裂きジャックが客としてやってきて、ルルを一突きし絶命する。

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photo:Salzburger Festspiele / Monika Rittershaus

回文構造になっているベルクの音楽と同様に、演出にも鏡が使われた。第一幕から二幕への転換時、背景の絵は裏返されて、中央に血染めの円が描かれている鏡となり、高く吊り上げられていった。そこに投影されたのは、シェーン博士を屈服させているルルの後姿であり、ルル自身もいずれ何らかの超越的な力により屈服させられることを暗示していた。第三幕ではシェーン博士と同じ俳優が演じる切り裂きジャックによってルルは絶命するが、この反社会的存在の男にもまた罪の意識がなく、法の裁きを受けず生き延びようとしたルルと対になる存在。またルルを追ってきた同性愛者の伯爵令嬢は、「ルル、私の天使!」と叫び音楽は終わるが、これは第一幕でルルが天使の羽根を身につけたことで対のイメージが強調されている。

ルルは神話ではない。が、神話のような存在ということで今回プログラムに組まれた。ギリシャ神話では嫉妬や不信などから悲劇は連鎖的に起こり、最後は神から審判が下される。ルルも同様に。。

音楽はマルク・アルブレヒト指揮のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。全体を支配する決して重々しくない響き、ヴィブラホンや金管楽器の効果、それがかえって現実感を打ち消し、ルルの夢想と虚構の世界を表現しているように感じた。そしてルルを演じきったプティボンの終始衰えぬソプラノの威力は、ストーリーに説得力を与えていた。こちらも万雷の拍手に包まれた。


神話の引用と、新しい世界観の構築へ

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では改めて、なぜ今「神話」なのか。今年はザルツブルグ音楽祭90周年にあたり、いつにもまして音楽祭の存在意義を自ら問い直している。1920年の創始当初、第一次世界大戦後の混迷を極めたヨーロッパにおいて、精神的な柱を作ることが目的のひとつでもあった。そして現在においても、その存在意義は変わっていない。「神話」というテーマにヒントがあるならば、それは、普遍的な価値観の見直しだろうか。たとえば、社会や自然には抗えない力があること、そして愛の価値は普遍だということ。

人は皆、自然のサイクルの中で生きている。が昨今、自身の欲望に忠実になりすぎるあまり、自然の摂理を軽視したり、超越しようとする動きがないだろうか。2010年の音楽祭テーマが「神話」であると知った時、これは「もう一度、自然をよく見よ」という警鐘だと思った。そして同時に、ここからまた新しい世界観を創り上げようと。

2011年は芸術監督が交代する(現芸術監督ユルゲン・フリム氏は次期ベルリン国立歌劇場総監督へ)。来年はどのようなテーマで音楽や歌劇が繰り広げられるだろうか。音楽に込められたテーマ、音楽と音楽の組み合わせから生まれるメッセージ、それも各アーティストの考えが反映されていて興味深い。
そして、何より音楽を純粋に楽しむ空気がここにある。「オルフェオとエウリディーチェ」を観にきたザルツブルグ在住のある親子は、「20年前にもこのオペラを観たの。懐かしいわね、舞台演出はだいぶシンプルになったけど本当に今日は楽しんだわ!」とお母様。またウィーン行きの電車内で隣り合わせた20歳の大学生も、「私の妹(14歳)は演劇が好きで、11歳の頃から毎年この音楽祭に行ってるの。私の家族と親しい友人が毎年誘ってくれるのよ。今年は「イェーダーマン」とコンサートを聴いたそうよ」。確かに地元に根付いているのを感じる。また日本や中国などアジア各国からの聴衆も、多く会場で見られた。来年もまた楽しみ!である。

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*なお今年のザルツブルグ音楽祭は8月30日まで開催中。最終日はオープニングと同じ、「イェーダーマン」で締めくくられる。また、米シカゴのラジオ番組98.7WFMTでは、同音楽祭を特集。2011年1月、4回にわたり放送予定(各2時間)。WFMTホームページで音声が試聴可能。ぜひお聴き下さい!

リポート:菅野恵理子/Eriko Sugano


菅野 恵理子(すがのえりこ)

音楽ジャーナリストとして各国を巡り、国際コンクール・音楽祭・海外音楽教育などの取材・調査研究を手がける。『海外の音楽教育ライブリポート』を長期連載中(ピティナHP)。著書に『ハーバードは「音楽」で人を育てる~21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』(アルテスパブリッシング・2015年)、インタビュー集『生徒を伸ばす! ピアノ教材大研究』(ヤマハミュージックメディア・2013年)がある。上智大学外国語学部卒業。在学中に英ランカスター大学へ交換留学し、社会学を学ぶ。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会勤務を経て現職。2007年に渡仏し「子どもの可能性を広げるアート教育・フランス編」を1年間連載。ピアノを幼少・学生時代にグレッグ・マーティン、根津栄子両氏に師事。全日本ピアノ指導者協会研究会員、マレーシア・ショパン協会アソシエイトメンバー。 ホームページ:http://www.erikosugano.com/

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