ザルツブルグ音楽祭(2)キーシン、ソコロフ、シフ・・祝祭大劇場3人のリサイタルから
ザルツブルグ音楽祭のプログラムは、「オペラ」「演劇」「コンサート」の3つに大別される。今年のコンサート数は約70公演で、リサイタルはキーシン、ツィメルマン、ポリーニ、ソコロフなどが、シューマンとショパンを始めとするプログラムで臨んだ。またアルゲリッチ、グリモー、アンスネスなどが室内楽、またオーケストラはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団始め、ロイヤル・コウセルトヘボウ管弦楽団、ベルリン・フィルハーモニー、スウェーデン室内楽管弦楽団、グスタフ・マーラー・ユーゲント管弦楽団など、世界の一流オーケストラが集う。
さて、同音楽祭会場の中でも最大規模の祝祭大劇場(Grosse Festspielhaus・2179席)ではエフゲニー・キーシン、グリゴリー・ソコロフ、アンドラーシュ・シフのソロ・リサイタルが、それぞれ8月第1・2週目に行われた。若くした花開いた才能がさらなる高みに上ろうとする途上にあるキーシンと、完全に独自の世界観を持つ約30歳上のソコロフとシフ。三者三様の演奏は、ほぼ満席の会場を大いに沸かせた。
まずキーシン(8/2)はシューマン幻想小曲集op.12とノヴェレッテop.21-8、ショパンのバラード全曲を組み合わせたプログラムでザルツブルグに臨んだ。前半のシューマンでは彼なりの解釈があまり見えてこない演奏だったが、後半のショパン・バラードはミスタッチこそ散見されたものの、演奏は秀逸。細かい性格描写よりも、大きなフレーズ感で巨大な音楽をつかんでいく方が合っている。テンポの揺れが少なく、フレーズの連なりを大きな呼吸で描ききるため、全体像がつかみ易い。最高の頂点はバラード3番に。またアンコールで弾いたスケルツォ2番は歯切れよく、中間部への導入箇所はえもいわれぬ極上の美しさだった。奇をてらわない自然でスケールの大きい感性は、これからどのように熟成されていくのか。
対して、ソコロフ(8/5)は分厚い手から生み出される素晴らしく弾力性がある音、瑞々しい響きと、フェルトを1枚はさんだような優しい音色・・指の下で音楽が息づいているのが伝わる。全てが「ジャスト」であり、いつの間にかこちらの鼓動まで同調してしまう音楽の力がある。今年還暦60歳を迎えるが、身体・精神的にも衰えるどころか音楽から新たなエネルギーを得ながら、進化し続けているようだ。プログラムはバッハのパルティータ2番、ブラームス幻想曲集op.116、後半はシューマンのソナタop.14。バッハは各声部にそれぞれドラマがあり、繊細かつ明瞭に、そして気品を持って歌わせる。ソコロフの内省的で優れたバランス感覚が際立つ。ブラームスはやや客観的なアプローチで、もう少し叙情性があってもよいだろうか。音楽に忠実でよく練られた表現が貫かれ、シューマンのソナタなど大曲ほどそれが発揮されていた。対して、アンコールのショパン前奏曲などはやや作りこんだ表現に思えた。
一方アンドラーシュ・シフ(8/11)はまるで別世界を描く。ピアノに向かって真摯に親密に独白しているようなソコロフと対照的に、シフは聴衆とのコミュニケーションに熱心である。まず聴衆に挨拶し、ドイツ語で説明を始める。その後簡単に本人が英訳したところによると、当夜弾かれるベートーヴェンop.27は「月光ソナタ」と名称がついているが、ベートーヴェン本人がつけたのではない、それは忘れて聴いてほしいということ。また第1楽章では一度もペダルの踏み換え指示がないのでその通りに弾くが、これは決して私のアイディアではありませんよ(笑)という2点。ユーモアを交えた説明の後、赤い布地カバーのイスに腰をかける。
ソナタop.27は説明通り、ペダルを一度も踏み変えずに最後まで弾きとおした。現代ピアノで弾くと音が濁りまくるが、その中でぽーんと響く高音は不気味で、かつ美しい。第2楽章はガラッと雰囲気を変えて軽快に。第2主題の左手の旋律線を強調し、その余韻を残したまま第3楽章の冒頭の音へ。ディナーミクこそ比較的小さいが、安定した左手と音質を自在に変幻させる右手で、一つ一つのフレーズに多彩な表情をつけていく。それはシューマンのソナタop.11も同様で、同型のリズムパターンや音の跳躍を強調したり、旋律を最高の美音で歌い上げるなど、一つ一つの楽想の妙味を最大限に引き出す。続くシューマンのダヴィッド同盟舞曲集に至っては、軽妙洒脱の極み。時に真珠の艶のような音色を配しながら、一瞬一瞬に幅広い表現を試みる。そのため例えばワルトシュタイン・ソナタなどは全体像が見えづらい傾向もあるが、重厚感や深刻さといった直接的表現を避け、軽やかな美しさの中に憂いや哀しさが感じられる表現は彼ならでは。その精神は、モーツァルトと近いのかもしれない。・・・さらにステージから三方向に向かって深々とお辞儀をするシフを見て、思わずチャプリンとも重なった。
なお今回3人3様のシューマンを聴いたが、キーシンはぜひソナタを聴きたかった。3人の中で最も安定感があったのはソコロフで、特に印象に残ったのはシフのダヴィッド同盟舞曲集。会場はいずれもほぼ満席でスタンディング・オベーションが出たが、ショパン・スケルツォやマズルカを含むアンコール5曲を弾いたキーシンが最も聴衆を熱狂させたようだ。
音楽ジャーナリストとして各国を巡り、国際コンクール・音楽祭・海外音楽教育などの取材・調査研究を手がける。『海外の音楽教育ライブリポート』を長期連載中(ピティナHP)。著書に『ハーバードは「音楽」で人を育てる~21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』(アルテスパブリッシング・2015年)、インタビュー集『生徒を伸ばす! ピアノ教材大研究』(ヤマハミュージックメディア・2013年)がある。上智大学外国語学部卒業。在学中に英ランカスター大学へ交換留学し、社会学を学ぶ。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会勤務を経て現職。2007年に渡仏し「子どもの可能性を広げるアート教育・フランス編」を1年間連載。ピアノを幼少・学生時代にグレッグ・マーティン、根津栄子両氏に師事。全日本ピアノ指導者協会研究会員、マレーシア・ショパン協会アソシエイトメンバー。 ホームページ:http://www.erikosugano.com/