ザルツブルグ音楽祭(1)音楽祭から発信するグローバルなメッセージとは
90年の伝統を誇るザルツブルグ音楽祭。リヒャルト・シュトラウスらの呼びかけにより、1920年に創設されて以来、毎年この地に一流アーティストが集い、数十万人もの聴衆が音楽の夕べを楽しむ。ロングドレスやタキシードに身を包む聴衆も多く、まさにクラシック音楽殿堂の地という印象である。今回はザルツブルグから数回に分けてリポートします。
世界大戦直後のヨーロッパで、人心を結びつけた音楽祭
現在のザルツブルグ音楽祭は、90年前に第1回目が開催された(前身となる音楽祭は1887年開始)。この音楽祭が他と一線を画すのは、純粋に最高の音楽を楽しむ場を提供するほか、政治的なメッセージを含んだものだったこともあろう。
時は1920年。人類史上初の世界大戦(第一次世界大戦)が1914年に勃発し、1917年に終息したものの、時代は混迷を極め、ヨーロッパの精神は分断された。そこで、作曲家リヒャルト・シュトラウスはじめ、詩人ヒューゴ・フォン・ホフマンスタール、俳優マックス・ラインハルトらは、ヨーロッパに平和と和解をもたらすために、音楽祭という形で人々の心を一つにしようと試みる。それがザルツブルグ音楽祭の始まりである。その時に上演されたホフマンスタールの道徳劇「イェーダーマン(Everyman)」は以後、同音楽祭開幕時に上演されている。
その後、第二次世界大戦下ではオーストリアはドイツに併合され、同作品が上演禁止になったり、音楽祭出演歌手への干渉など憂き目に遭うが、戦後はカラヤンの登場やウィーン交響楽団を始め他楽団の出演機会も増え、黄金期を迎える。その後もプログラムの拡大など多くの変遷を経て、今日に至っている。
ヨーロッパの中央に位置し、常に複雑な政治事情に影響を受けながらも、時代の変化を敏感に感じ取ってきたザルツブルグ。だからこそ、この音楽祭では「今」という時代性をよく反映しているのかもしれない。
世界の「今」を象徴する音楽祭プログラム
では実際どのようなコンサートが行われているのだろうか。
昨年はダニエル・バレンボイム率いるウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団(West-Eastern Divan Orchestra)により、歌劇フィデリオが上演された。このオーケストラはご存知の通り、バレンボイムと故エドワード・サイードによって結成され、イスラエルとアラブ諸国出身の音楽家が団員となっている。このオーケストラの存在そのものが、平和と共存へのメッセージになっている。
また今年はヴァレリー・ゲルギエフ指揮・平和のための世界オーケストラ(World Orchestra for Peace)がマーラーを演奏(8/6)。このオーケストラは1995年、国連創立50周年を記念して指揮者ショルティにより創設された。「平和親善大使としての音楽の強さ」とは、ショルティが残した言葉である。その精神を受け継ぐ同オーケストラによる演奏会は、今年のハイライトの一つである。
そして今年のフェスティバル共通テーマは「神話」。これは一体何を意味するのか。謎かけのようなテーマであるが、これにもメッセージが込められている。
もちろん、音楽は純粋に楽しむもの、である。しかし分断されたものを繋げるもの、あるいはまとまりを強くするもの、音楽にはこうした役割があるのだということも、改めて実感する。それはステージ上だけでなく、聴衆も同じである。同じ場所にいて、同じ音楽を聴いて、ふと隣の人に話しかけたり、話しかけられたり、そうしながらザルツブルグの出会いは広がっていく。創設時のメンバー、詩人ホフマンスタールは、「全ての出来事はスパイラルで進行していく」と述べたそうだが、そうしたスパイラルの原点としての、音楽の強さがここにある。そしてそれは国境を越え、ヨーロッパという括りも越え、グローバルに波及していく。
グローバルに広がる聴衆とスポンサー
5大スポンサーがグローバル企業であることも、それを象徴している。スイスのネスレ(1991-/食品)、クレディ・スイス(2006 -/保険)、ドイツのアウディ(1995- /自動車)、シーメンス(1999- /電気エレクトロニクス)、そして地元オーストリアのユニカ(2002- /保険)。またプロジェクト毎のスポンサーとなる企業もあり、スイスのモンブラン(2002- /時計・万年筆)は若い舞台監督プロジェクト、クレディ・スイスは若い声楽家プロジェクト(2008-)、そして今年ネスレは音楽祭と共同で若い指揮者のための奨学金コンクールを創設し、支援している。この指揮者コンクール優勝者は賞金1万5千ユーロ(約180万円/1ユーロ=120円で計算)のほか、グスタフ・マーラー・ユーゲント管弦楽団を指揮する権利が与えられる。またシーメンスの名を冠した野外上映会がカピテル広場で連日開催され、過去のフェスティバル映像などが楽しめる。そして今年の目玉の一つ、現代作曲家ウォルフガング・リーム(独・Wolfgang Rihm)の作品特集は、ロシュ(スイス・ヘルスケア)がバックアップしている。こうした私企業、ならびに約1800名にのぼる個人献金が70%、国や市からの公的支援は約30%という。
一方、昨年度聴衆動員数は世界各国より213,055人で、チケット売上は昨年2300万ユーロ(約27.6億円/1ユーロ=120円で計算)。実に93%の座席が売れたそうだ。この数字はホールがほぼ満席であることを意味しているが、今年もそれを裏付けるかのようにどのホールに行っても熱狂的な聴衆で溢れていた。地元オーストリア、近隣ドイツやスイス、イタリア、フランスからの安定的な来場者数に加え、日本・中国などのアジア諸国、南米からの聴衆も増加中。統計によると、ロシアからの聴衆は前年比160%、また中国のチケット売上げは3倍増。今年もそれに匹敵するか上回ると予測されている。
さて90周年を迎える今年、多彩なプログラムでオペラやコンサート、演劇が約1ヶ月間に渡り行われている。その様子を数回に分けてリポートしたい。
リポート:菅野恵理子
音楽ジャーナリストとして各国を巡り、国際コンクール・音楽祭・海外音楽教育などの取材・調査研究を手がける。『海外の音楽教育ライブリポート』を長期連載中(ピティナHP)。著書に『ハーバードは「音楽」で人を育てる~21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』(アルテスパブリッシング・2015年)、インタビュー集『生徒を伸ばす! ピアノ教材大研究』(ヤマハミュージックメディア・2013年)がある。上智大学外国語学部卒業。在学中に英ランカスター大学へ交換留学し、社会学を学ぶ。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会勤務を経て現職。2007年に渡仏し「子どもの可能性を広げるアート教育・フランス編」を1年間連載。ピアノを幼少・学生時代にグレッグ・マーティン、根津栄子両氏に師事。全日本ピアノ指導者協会研究会員、マレーシア・ショパン協会アソシエイトメンバー。 ホームページ:http://www.erikosugano.com/