第19回ジョルジュ・エネスク国際音楽祭&コンクール
広場では野外コンサートが行われた。小さな女の子がショパンを演奏中。
過去にはディヌ・リパッティやクララ・ハスキル、現在はラドゥ・ルプー、声楽家のアンジェラ・ゲオルギュ―など、素晴らしい音楽家を輩出している東欧の国ルーマニア。そしてもう一人、この国を代表する作曲家の名を冠した「ジョルジュ・エネスク国際音楽祭」は1958年に創設され、以降2年毎に一流音楽家を集めて盛大に行われています。そして、若い音楽家のためのコンクールが同時開催されるのも初回からの伝統(ルプーは1967年に優勝)。この「音楽祭&コンクール」の両立したイベントは世界的にも珍しく、ルーマニアの音楽文化に対する意識の高さが伺えました。今回はその音楽祭をリポートします。(リポート◎菅野恵理子、取材協力・恒川洋子)
一流アーティストを招く意味
英フィルハーモニア管を指揮するアシュケナージ
エネスクの子孫にあたる双子の美人姉妹。二人揃って元TVキャスター。
ロビーはいつも大賑わい。CDショップやShigeru Kawaiのピアノ展示も。
ルーマニアでは現在3つの大規模なフェスティバルが行われているが、その一つがこのジョルジュ・エネスク国際音楽祭である。実に700万ユーロ(約9億円)もの国家予算が投じられたこの音楽祭は、欧州各地より著名オーケストラ・演奏家を招聘し、夏の音楽祭シーズンの最後を飾るにふさわしい大規模なものであった。
8月末にフランスとルーマニア合作のオペラ「オイディプス王」(エネスク作曲)で幕を開け、ロイヤル・フィルハーモニック管弦楽団(デュトワ指揮)、ローザンヌ室内管弦楽団(ツァハリアス指揮)、スイス・ロマンド管弦楽団(ヤノフスキ指揮)、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(ヤンソンス指揮)、ウィーン室内管弦楽団(シフ指揮)、サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団(テミルカノフ指揮)等。ソリストもピリス、ルガンスキー、グリモー、フレイレ、アンスネス等。錚々たる演奏家が名を連ねた。
コンクール事務局長ミハイ・コンスタンティネスク氏によれば、「今年度の聴衆は推定12万人」。欧州各国から派遣されたジャーナリストは85名、前回の29名と比べると高い注目度が伺える。EU加盟から2年経ち、欧州の中でも存在感を増してきた証拠だろうか。毎日発行される16面の音楽祭新聞を片手に、会場へと足早に急ぐ聴衆も多く見られた。
古代ローマ風の柱が印象的なアテネウ。
筆者が取材した中(9/13-17)で印象深かったのは、ドーム型のアテネウル(Ateneul Roman)でのコンサート。音が均等に四方に広がっていく素晴らしい音響を備え、年間約280公演が行われている。ここでマレイ・ペライア(指揮・ピアノ)とアカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールドは、さすがに息のあった共演を見せた。特にバッハの協奏曲第3番はピアノのディナーミクに幅があり、遊び心さえ感じさせる余裕も見せつつ、ピアノの左手とコントラバスの呼吸と音色が絶妙にあって美しいハーモニーを奏でていた。
翌日はマーク・ミンコフスキー指揮によるハイドンのオラトリオ『天地創造』。こちらも優れた音響効果を生かし、独唱と合唱が見事なバランスで響いていた。隣に座っていたルーマニアの聴衆は、音楽の世界にすっかり没入して聴き入っていた様子。12年かけて改装したというこのホールは、音響もさることながら天上画も見事で、音楽の世界に心地よく浸らせてくれた。
素晴らしい音響のドーム型ホール、アテネウ。
終演後、文化大臣より勲章を授与されるペライア。
見事な『天地創造』を披露した指揮のマーク・ミンコフスキーとソリスト達。
自分たちの文化を生み出す情熱
この音楽祭の最大の特徴は、やはりジョルジュ・エネスクの作品が連日演奏されることである。エネスクの曲は演奏機会こそ少ないが、独特の叙情性と民族的リリシズムを湛えた作品が多く、ルーマニア国民から絶大な人気を得ている。初期の作品には時代遅れの感が否めないものもあるが、絵画的な美意識を感じさせ、また壮年期(1936年)に書かれたオペラ『オイディプス王』は、急進的な作風で新しい境地を開いている。さらに民族的旋律を多用した作品等は、エネスクの真骨頂である。ヴァイオリン、ピアノを奏し、自ら指揮もこなす才人であったエネスクは、自作やヴォーン・ウィリアムズなど同時代人の作品も積極的に指揮し、ラフマニノフやバルトークなどとも交流した。
エネスクとリパッティは、ヴァイオリン・ソナタ2番、3番等を共演した。
ちなみに、当時4歳であったリパッティ少年の頭に、手をかざして微笑む40歳のエネスクの写真がある。大先輩に才能を見出されたリパッティは、後年共演もするが(CDは国内限定販売)、先に他界したのは若き天才の宿命だったか。いずれにせよ、エネスクを中心にルーマニア音楽文化の黄金時代が築かれたといっても過言ではない。
この音楽祭に出演する音楽家は、必ずエネスク作品を1曲演奏することになっているが、ロシア人デュオ、コンスタンティン・リフシッツ(pf)&ユージン・ウゴルスキー(vl)はソナタ第1番を演奏。初期のエネスク作品は一見シンプルな楽想だけに、「そこからどんな音楽的な妙味を発見できるか?」という音楽家自身の力量が試されるが、特にリフシッツの豊かな音色と音楽を多面的に捉える力によって、ブラームスにも似たこのソナタに、新たな息が吹き込まれた。彼らのプロコフィエフもまた絶品であった。
客席3500席の大ホール。ここで連日オーケストラの演奏会が行われた。
音楽祭期間中には、他のルーマニア人作曲家による作品も多く演奏された。テーマの一つである「エネスクと同時代人」に沿ったものである。ミハイ・ヨラ(Mihail Jora)、リアナ・アレクサンドラ(Liana Alexandra),ゲオルグ・コスティネスク(Gheorghe Costinescu) 等。エネスク自身も後進の発掘に熱心で、1912年に自らエネスク賞を設立しており、その精神が今も受け継がれている。
また音楽祭と同時開催されたエネスク国際音楽コンクールでも、作曲部門へのルーマニア人の参加が多かったそうだ(全180作品応募)。ルーマニアから優れた音楽を生み出したい、という情熱は若い世代にも伝わっている。
音楽祭とコンクールを同時開催する意味は?
一方ピアノ部門では、エネスクのソナタ第1~3番いずれかを弾いた参加者の中より、優秀者1名にソナタ特別賞が贈られた(6千ユーロ *80万円相当)。今年はイリヤ・ラシュコフスキーが受賞した。優勝はアミール・テベニヒンで、審査員には海老彰子さんも。入賞者記念演奏会は、音楽祭期間中にアテネウルで行われた。
こうした若い才能を発掘するコンクールが、アーティストが集まる音楽祭の中で開催されることには、大きな意味がある。それは、「若い才能は、上の才能を見て伸びる」こと。最近は音楽祭の中でも、若い音楽家を育てるアカデミーを行うところが増えている。有名なところでは、ヴェルビエ音楽祭(スイス)、シュレスヴィヒ=ホルスタイン音楽祭(ドイツ)等である。このエネスク音楽祭では1950年代から既に同時開催していることを考えると、その先見性が伺える。かのラドゥ・ルプーも優勝者の一人である。
ルーマニア人にとって音楽とは?民俗芸能の継承
「今春、ブカレスト・フィルハーモニー管弦楽団に随行して東京に行きましたよ」というリカーレ氏。
連日音楽祭に顔を出していた文化大臣のパレオログ氏。
ところでルーマニア人にとって、音楽はどのような存在だろうか?ルーマニア人の日常生活には、ルーマニア正教会(国民の7~8割)が深く根を下ろしている。街の至るところに教会があり、老若男女問わず参拝客が訪れる。人々は一列に並び、牧師の手に口付けをして祈りを捧げた後、パンとワインを口にして教会を後にする。中には赤ちゃんや学校帰りの学生も。 フィルハーモニカ音楽監督で、ピアノ・オルガン奏者でもあるニコライ・リカーレ氏によれば、「若い世代は、バロックやそれ以前の音楽にも興味がありますね。バッハ、ハイドンやオルガン作品のコンサートにもよく来ます。」リカーレ氏から頂いたCDには、パイプオルガンの優しい音色が吹き込まれており、ルーマニア人の血の中に神への信仰心が根付いていることを感じた。リパッティもルプーも、恐らくこのような文化環境の中で育ったのだろう。
またルーマニア文化大臣テオドール・パレオログ氏に、民族伝統芸能の継承について質問してみた。「ルーマニアの伝統楽器、パンフルートやアコーディオン等の楽器を音楽学校でも教えています。今年5月に秋篠宮ご夫妻が来訪されたのですが、その時に民族楽器パンフルートの演奏会に紀子様をご招待し、お土産にパンフルートをお贈りしました。」パンフルートとは、ギリシャ神話の牧畜の神パンが用いた笛のこと。農牧国ルーマニアの生活には、今でも伝統音楽が根付いていることを感じさせる。そして、それはエネスクの音楽にも脈々と流れている。
ルーマニアのこれから、若い世代は?
今回エネスクの他にショスタコーヴィチ8番等を指揮したアシュケナージ。
またルーマニアといえば、1989年にチャウシェスク元大統領率いる社会主義政権が倒され、民主主義になってから今年で20年。この歴史の流れを誰より重く受けとめたのは、フィルハーモニア管弦楽団(英)を率いる指揮者ウラディミール・アシュケナージだろうか。
英フィルハーモニア管を指揮するアシュケナージ
「1963年にソ連を亡命して以来、東欧諸国には訪れていませんでした。民主化が進んでから、ようやく足を運ぶようになり、ルーマニアで初めて演奏したのは今から2年前です。この音楽祭ではありませんでしたが、ルーマニアのEU加盟を記念してEUユース・オーケストラとエネスクのラプソディー1番を演奏しました。この曲には想像性があり人生の豊かさに溢れている。若いメンバーたちは皆好きなんですよ。」
エネスクは社会主義政権が台頭する前にパリへ移住し、そこで生涯を閉じているが、苦悩や葛藤よりも、祖国への愛着や郷愁が音楽にも反映されているようである。それは同じくフィルハーモニア管が演奏した、同時代人のショスタコーヴィチ(交響曲8番)と対照的である。
ルーマニアのお袋の味、サルマーレ。
ブカレスト中心部にある革命広場。
現在のルーマニアは近代化が進み、2007年にはEU加盟を果たし、民主主義の振興を着実に進めている。その象徴的存在は、前述のルーマニア文化大臣だろうか。まだ36歳という若さながら、英仏独語を自在に操り、ルーマニア文化政策の法整備を積極的に推し進めている。「現在抱えている2大優先課題は、民間スポンサー支援制度と遺産保護の法整備です。スポンサーについては、税制控除が絡んでくるので財務省との討議が必要ですが、文化活動の活性化に繋がる、とても重要な課題と捉えています。例えばフランスでは2003年の法整備によって、文化支援が大幅に進んだ例があります。また、3年以内に新図書館設立、劇場の修復、写真美術館の設立などを目指しています。」
国家予算の0.2%を預かる一方、今回の音楽祭にも連日顔を出し、ペライアやアシュケナージに勲章の授与を行っていた文化大臣。クロサワ映画にも造詣が深く、広くアジアにも目が開かれており、そのバランス感覚で若い世代と共に新しいルーマニアを築いていくだろう。
ガラスを吹く作業中のネムトイさん(右)。
ジュエリー・ショップLa Roseの元気なオーナー(右)とデザイナー。
そして欠かせないのが街の音楽家やアーティスト達。ガラス彫刻家のイオアン・ネムトイさんは美しい色彩感覚と大胆なフォルムで、英国のマクラーレン・メルセデス技術センターに作品が常設されている。また目抜き通りにあるジュエリーショップLa Roseは、少し変化に富んだデザインがお得意。オーナーは「ルーマニアにも外国ブランドの店が増えたけど、自分たちのデザインに自信を持ってアピールしたいですね!」と力強く語っていた。
陽気な気質を持つルーマニア、まだまだ底力を秘めている。
なお次回の音楽祭・コンクールは、2011年8月~9月に行われる予定。エネスク国際音楽コンクールにご興味のある方はこちらへ。優勝賞金は15,000ユーロ、宿泊施設あり(2009年度参考)。
英国のマクラーレン技術センターに展示されている、ネムトイさんの作品(一部)。
音楽ジャーナリストとして各国を巡り、国際コンクール・音楽祭・海外音楽教育などの取材・調査研究を手がける。『海外の音楽教育ライブリポート』を長期連載中(ピティナHP)。著書に『ハーバードは「音楽」で人を育てる~21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』(アルテスパブリッシング・2015年)、インタビュー集『生徒を伸ばす! ピアノ教材大研究』(ヤマハミュージックメディア・2013年)がある。上智大学外国語学部卒業。在学中に英ランカスター大学へ交換留学し、社会学を学ぶ。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会勤務を経て現職。2007年に渡仏し「子どもの可能性を広げるアート教育・フランス編」を1年間連載。ピアノを幼少・学生時代にグレッグ・マーティン、根津栄子両氏に師事。全日本ピアノ指導者協会研究会員、マレーシア・ショパン協会アソシエイトメンバー。 ホームページ:http://www.erikosugano.com/