第一部<第20回>サン=サーンスへの偏見
ここで、九星判断の実例として、九星の相性が、音楽家の評価にまで影響を及ぼしているケースを考えてみたいと思います。
10代から20代にかけての私は、クラシック、特にロマン派といわれる音楽が苦手で、生理的に受け付けませんでした。そんな中で唯一、アレルギーの無かったのがサン=サーンスです。2006年には彼のピアノ独奏曲を編曲も含め、5回のステージで64作品、ほぼ全曲を演奏しています。
しかし、協奏曲派はともかく、サン=サーンスのピアノ曲に本気で取り組むピアニストは少なく、オール・サン=サーンス・プログラムのコンサートなど、自分以外の例を知りません。
これは、彼の作品がベートーヴェンやショパンより一段価値の低い音楽だと思われているせいでしょう。軽薄で深みに欠ける内容ということです。
そうしたイメージが「動物の謝肉祭」から来ているとしたら気の毒なことです。作品番号を持たないこの"冗談音楽"は、あくまで余興として書かれたもので、作曲者は徒らにヒットするのを怖れて作曲から30年以上、自分が死ぬまで出版を認めませんでした。
モーツァルトに並ぶ神童・天才として知られたサン=サーンスですが、モーツァルトの簡潔な書法を「深みに乏しい」と批判する人はいません。両者の美学はかなりの程度一致しているのに、この差は何なのか。
その理由の一つが、サン=サーンスのピアノ曲の解説等で決まって引き合いに出される、アルフレッド・コルトー著「フランス・ピアノ音楽」です。邦訳は1952年、安川加壽子夫妻によってなされました。
日本では戦前からレコードを通じて名演奏家として知られ、リパッティの師ということもあって、コルトーはピアノ界の絶対的権威とされていました。しかし、そのサン=サーンス論は明らかに的外れなもので、彼が無価値な内容と決めつけた作品にこそ、サン=サーンスの素顔が伺われたりします。シャブリエについても、そうした傾向がみられます。
コルトーがサン=サーンス本来の美点を理解し得なかったのは、九星・十二支共に調和の接点が全くない上に、生年の丑と未が冲しており、その価値が見えない位置にあるためです。
ワーグナーに心酔し、勢い悲劇的趣向を重んじるコルトーの審美感覚は、そのまま20世紀の価値観と重なり、クラシック界に根付いてしまった感があります。
また原著を愛読していた安川加壽子氏もコルトーと同じ金星生まれであることから、木星のサン=サーンスを浅い音楽としてしかとらえていなかったようです。
こうした「権威者」たちの視点・認識が普遍的な良識であるかのように浸透していくとしたら、かなり危険なことです。九星は時に、それらを省察する鏡ともなりそうです。
(2018.4.28-29)
作曲家でピアニストの金澤攝氏は数千人におよぶ作曲家と、その作曲家たちが遺した作品を研究対象としています。氏はその膨大な作業に取り組むにあたって、「十二支」や、この連載で主にご紹介する「九星」を道しるべとしてきました。対人関係を読み解く助けとなる九星は、作曲家や、その人格を色濃く反映する音楽と関わるに際して、新たな視点を提供してくれるはずです。「次に何を弾こうか」と迷っている方、あるいは「なぜあの曲は弾きにくいのだろうか」と思っておられる方は、この連載をご参考にされてみてください。豊かな音楽生活へとつながる道筋を、見出せるかもしれません。 (ピティナ読み物・連載 編集長)