第一部<第16回>作品における九星
このテーマは今なお模索中であり、試論の域を出ません。しかしながら、かなりの確率で一定の方向性が見られることから、その一端を指摘しておきたいと思います。
人間が生年の九星の性格を付与される如く、生れた作品にも、その年の性格が影響することは考えられる話です。とは言え、一人の作曲家の営みによって、さまざまな年に作品が書かれる訳ですから、どの年の作品にも作曲者の九星が現われるのは当然で、九紫の年の作品が九紫の性格を持つということではありません。
ここでは作曲家に対して、作曲年の相生・比和・相尅が、作品の表情に関わっているのではないか、という問題です。内容の出来・不出来ではなく、あくまで曲が持つ表情についてです。
例えば作曲家の「親」の年では、「子供」としての作曲家のカジュアルな姿が、逆に「子供」の年には「親」としてのフォーマルな姿が現われ易いようです。
「比和」は特に同一の九星の場合、作曲者の本性があからさまになります。同じ五行ゆえに同じカラー、質が重なり合い、モノクロ風な印象を与えます。要するに裸になってしまい、装飾的・洒落た感じがしない訳です。
相尅では「歳が作曲家を責める」場合、作品は狂暴化し、「作曲家が歳を責める」際は、作品は元気がなくなるか、怖がって取り乱しがちとなります。ただし、相尅は支合・三合を考える必要があります。この場合、尅気のリスクはプラスに転じます。
難しいのは年を跨いで書かれた作品で、基本的には作品が仕上がった時点が「作品の出生年」と考えられますが、その後も何度も手直ししたり、長い期間にわたって断続的に書かれたりすると、判断できなくなります。
例えばある年の暮れから書き始め、翌々年の早い時期に完成した作品などは、中間の年の気を最も強く受けることになりそうです。
尤も、こうしたことが確認できたところで、どうということはないのですが、それでも「この曲が何故?」という疑問にぶつかる度に、当該作品を別の角度から見直す、考え直す機会とすることは、意味があろうかと思います。次回、具体例を上げておきます。
演奏家たちはよく、「作曲者はどう考えていたのか、その意図に近づきたい」と願いますが、実際の所、名曲であればある程、作曲家はインスピレーションを拾うのに夢中で、大して考えていないものです。作曲家が誰よりもその作品を理解している、と思ったら大間違いで、これは自信を持って断言できます。演奏家が目指すべきは作曲家本人ではなく、彼らが受けていたひらめきにあります。
当然それは人間世界を超えた次元からのものでなくては名作たり得ませんし、同時に彼らが生きた風土、そして時代~九星も含めて~の意識の働きかけによって生ずるものです。(2018. 2. 8. )
作曲家でピアニストの金澤攝氏は数千人におよぶ作曲家と、その作曲家たちが遺した作品を研究対象としています。氏はその膨大な作業に取り組むにあたって、「十二支」や、この連載で主にご紹介する「九星」を道しるべとしてきました。対人関係を読み解く助けとなる九星は、作曲家や、その人格を色濃く反映する音楽と関わるに際して、新たな視点を提供してくれるはずです。「次に何を弾こうか」と迷っている方、あるいは「なぜあの曲は弾きにくいのだろうか」と思っておられる方は、この連載をご参考にされてみてください。豊かな音楽生活へとつながる道筋を、見出せるかもしれません。 (ピティナ読み物・連載 編集長)