第一部<第4回> 比和―慟哭するバルトーク
これまで五行の「相生」「相剋」について説明しましたが、もう一つ、同じ五行同志の関係を「 比和 」と言います。
例えば二黒土星の人にとっては、二黒・五黄・八白のいづれもが比和となります。気学の方位上では、二黒は本命殺、五黄は五黄殺となりますが、ここでは関係ありません。
比和は作曲家に対する理解と表現においては、「自分自身」のことゆえに、圧倒的に有利に働きます。ただ、同じ九星同志の対人関係となると、"一長一短"といったところです。三碧と四緑の比和関係は特に良好なものですが、三碧同志の比和は波乱含みで、良い時は波に乗って盛り上がり、一旦衝突すると決裂してしまいます。気性の激しい三碧は殊にこの傾向が強いようで、サン:サーンスとドビュッシーがこれに当ります。両者は互いの才能・力量を意識しつつ、人間的には全く折り合えませんでした。
しかし、演奏者が作品を通して作曲者の本質を伝える際にはプラスに転じます。ロジェ・デゾミエールのドビュッシーや、ピエール・デルヴォーのサン:サーンスは他の追従を許さない見事さです。
今でこそ私はあるレベルをクリアした作曲家たちに対し、苦手意識をほとんど感じませんが、以前はバルトークが大嫌いでした。バルトークの激しさはストラヴィンスキーのバーバリズムとはまるで異なり、「腹が立って仕方がない。憤懣やるかたない」といった思いが伝わってきて不快だったのです。
あるとき、共演者に頼まれたプログラムにバルトーク(ヴァイオリンソナタ第2番)が入っていて、やむなく渋々弾いたところ、これが一番好評で、首を傾げました。
そういえば20歳の折、ラ・ロシェルの現代音楽祭(メシアン)コンクールに出たときも、決選曲がバルトークの第2協奏曲でした。さらに二次予選の課題にも「野外にて」から2曲が決まっていて、選択の余地がありませんでした。私がバルトークを弾いたのはこれきりです。
結局、比和の吉作用は演奏者の共感の有無を上回るとしか考えられません。ただし、比和でない作曲家の場合は、渋々やっても徒労に終わるだけです。
ずいぶん以前、音楽雑誌で見たあるアメリカの指揮者のインタビューが印象的でした。当人は少年時代に近所の悪童たちと老人の家に石を投げ、老人がカンカンに怒って出てくるのを見て面白がっていたのだとか。後年その老人がバルトークだと知ってショックを受け、穴があったら入りたい、という内容でした。
全く気の毒な話ですが、興味深いのは、20世紀屈指の知的な作曲家が、一方で何も知らない子供たちがつい石を投げたくなるような気を放っていた、という事実です。これがシェーンベルクやヒンデミットなら、子供は石を投げなかったでしょう。何につけ、"恨み節"は自分の運を損なうという、厳しい例証です。
バルトークのような作曲家を丁重に扱うには、感情的・即物的な対応を避け、感性の抽象度を限りなく高めることが必要と考えます。(2017.10.8)
作曲家でピアニストの金澤攝氏は数千人におよぶ作曲家と、その作曲家たちが遺した作品を研究対象としています。氏はその膨大な作業に取り組むにあたって、「十二支」や、この連載で主にご紹介する「九星」を道しるべとしてきました。対人関係を読み解く助けとなる九星は、作曲家や、その人格を色濃く反映する音楽と関わるに際して、新たな視点を提供してくれるはずです。「次に何を弾こうか」と迷っている方、あるいは「なぜあの曲は弾きにくいのだろうか」と思っておられる方は、この連載をご参考にされてみてください。豊かな音楽生活へとつながる道筋を、見出せるかもしれません。 (ピティナ読み物・連載 編集長)