【レポート】ショパン国際ピリオド楽器 コンクール記者会見(2)
ピリオド楽器コンクール
記者会見レポート
前回の記事では、先日行われたショパン国際ピリオド楽器コンクールの記者会見・プレゼンテーションの概要をレポートした。今回は、この新たな試みについて、諸々の観点から考察してみたい。
前回のレポートでもまとめたように、ショパンの時代は国やメーカーによってピアノの機構、用いている素材は様々だった。それゆえ、現代のピアノ以上に、楽器の音色にも個性が現れる。本コンクールではコンテスタントに、各課題曲への音楽的解釈だけではなく、その解釈に適する楽器の選定も評価の基準になる。演奏者の解釈だけではなく、NIFCが大会のために集めたそれぞれの楽器の響きの違いや個性を改めて感じることもできる。
本大会の主眼の一つは、ピリオド楽器の普及にある。しかし、19世紀当時から残っていて現在も演奏可能な楽器の台数は、非常に限られている。国によって、それらの楽器に触れられる機会は異なる。では、新しくコピー楽器(ピリオド楽器を複製したもの)を大量生産すればよいか、というとそういうわけでもない。複製は経験を積んだ職人にしか製作できないため、膨大なコストがかかるからだ。
また、先日の記者会見・プレゼンテーションの会場では、フォルテピアノの演奏経験がない先生が、弟子をコンクールに送り込むにはどうしたらよいか、という質問があったが、フォルテピアノは経験を積まなければ楽器の魅力を十分に引き出すことは出来ないので、それは無理だ、という回答が示された。モダン・ピアノは楽器自体も、その教育も普及しているが、フォルテピアノへ接することができる奏者(教師)は極めて少ない現状にある。教師の数は、国によって大きな差があるだろう(日本は比較的恵まれている方だ)。他方、一般の録音などを通して一般には馴染みが薄いフォルテピアノの音に親しむ機会が増えることは歓迎すべきだ。
これら2つの点から、フォルテピアノの普及は現実的に難しい。本大会に向けて日本では、5つのスタジオがフォルテピアノの試奏とビデオ撮影に協力すると発表しており、ビデオ審査に向けては対策が取られているといえよう
(協力スタジオ一覧)。
課題曲は、ショパンや彼と同時代のポーランド人(カロル・クルピニスキ、マリア・シマノフスカ等)に偏っている。このコンクールがポーランドの文化政策の一環であることを考慮にいれなければならないが、とはいえ、国際コンクールであるからにはショパンと関係のあった他国の音楽家が回顧される機会となってもよいのではないか(弟子のA. グートマン、G. マティアス、C. フィルチ、パリで活躍した同国人のE. ヴォルフ・・・)。ショパンの父ニコラはフランス人であるし、ショパン自身も1831年以降はパリに移住して音楽的なキャリアを築いていることは、無視すべきではない。
NICFは、ショパンと彼と同時代の「真正な響き」を「復元」することを本大会の目的としている。ここで問題となるのは「真正な(オーセンティックな)」演奏とはなにか、という問題だ。確かに、音の「復元」は、ピリオド楽器を用いることで物理的にはある程度「オリジナルの」音を聴くことができるだろう。だが、ショパンが繊細に、個性的な仕方で表現したルバートやペダリングにいたるまで「ショパンの演奏そのもの」を精確に復元することはできない。できるのは、フォルテピアノと演奏習慣についての知識を通して経験的・直観的に「ショパンはこう演奏しただろう」という、演奏様式の原則に関する共通認識を打ち立て、共有することだ。おそらくそれが、「現代における真正なショパン像」という一つの新しい権威となっていくだろう。その意味でも、フォルテピアノを通してショパンに取り組む場合には(弾く場合も聴く場合も)、どこまでがショパンの独自の演奏様式で、どこまでが当時一般的に受け継がれていた18世紀以来の演奏様式の習慣だったのかを区別し、これから打ち立てられようとしている「ピリオド楽器によるリアルな(真正な)ショパン像」という権威をしっかりと見極める知識と耳が必要となる。ましてや、「ピリオド楽器」=「本物のショパン」という単純な見方に陥らないことが大切だ。
サロンや「intimate(親密な)演奏会」での演奏を重要視した当コンクールが、サロンではなく1000人以上の収容数を誇るワルシャワの国立フィルハーモニーホールで開催されるという点は、いささか矛盾を感じなくもない。しかし、コンクールの公共性を考えればそれもやむをえないことであり、形式上の問題として納得することはできる。
サロンの打ち解けた雰囲気のなかでは、前奏や装飾、与えられた主題による変奏といった即興の習慣が発達した。現代において「親密さ」という社会的背景を考慮した場合、もしかしたら、コンクールにおいても、いずれは装飾音によって自身の演奏解釈を盛り込む必要が強調されるようになるかもしれない。即興の名手でもあったショパンに迫ることを目指すのだとしたら、自由な装飾や一曲を即興で弾く能力までが評価の対象となっても何らおかしくはない。
ともあれ、第1回大会は、演奏者、聞き手が漠然と考えてきた多くの論点と対峙する良い機会となる。私たちは、それらについて考え、ピアノ演奏の在り方、作品の在り方を杓子定規ではなく、歴史と対話しながら柔軟に捉えていくべき時にきている。NIFCのこの新しい試みが、回を重ね国際的に成熟したコンクールとなることを願いたい。