世界遺産とピアノ [後編]世界遺産・富岡製糸場の「幻のピアノ」を求めて 第3回
1876年2月15日の出航を目前にして、ブリュナ夫妻は富岡製糸場構内の住居で使用していたすべての調度品を、横浜居留地で競売にかけています。品々の中には、エミリーが両親から引き継いだ品々もあったことでしょう。フランスから持ってきたであろう貴重な品々をすべて処分しようした背景には、いったいどんな心理が働いたのでしょうか。送料を節約するため?渡航費の足しにするため?それとも、日本での思い出を消すため?彼らの書簡など、彼らの心の内が記された史料に頼らなければ、その意図は知る由もありません。
競売は、2月1日、横浜居留地の81番地で行われました。現段階でこの競売に関する資料として参照することができるのは、1876年1月、横浜で刊行されていたフランス語新聞『レコー・デュ・ジャポン』に数回にわたって掲載された競売の告知です。下図赤枠内は1月25日号に掲載された告知です(右は筆者による訳)。
T. ウォレース氏、
帝国富岡製糸場の元首長
ポール・ブリュナ氏より、
公開競売につき、指示をうける
会場:81番地
2月1日(木)、午前10時
近年輸入された氏の洗練された全
調度品
たとえば
応接間、ダイニング、寝室のインテリア;
プレイエル社のグランド・ピアノ;
スタインウェイ社のアップライト・ピアノ
加えて
合本された数々の楽譜集、ワイン、銀食器類、布類、絵画、クリスタル製品、陶磁器等々
ポニーが引く二頭立ての
愛らしい箱馬車
二頭分の馬車具つき
競売品は、今月29日と31日に展示されます。カタログはお求めいただければどなたにでも頒布致します。
横浜、1876年1月8日
この広告は、ブリュナ家の、つまり彼の家にあった調度品の「すべて」が競売にかけられたことを示唆しています。これには当然、ルフェビュル=ヴェリー家に所属していた物品も含まれていたはずです。この囲み広告では、2台のピアノが小型の馬車の次に大きな文字で書かれており、pianoの文字も大文字で目立つように記されています。これらのピアノがエミリーと関係の深い楽器だったことは想像に難くありません。
更に、「合本された数々の楽譜集」も注目に値します。当時、フランスの一般的な楽譜に曲ごとに色紙のカバーつきで売られていました。これらのバラの楽譜がまとまってくると、購入者は作曲家やジャンル別に整理して製本屋に依頼し、厚紙に金字でジャンル名等を施した合本を制作してもらい、書棚に飾っていました。合本には、所有者の名前が金字で記されていることもあります。下の写真は、色付きのカバーのあるバラの楽譜と合本の例です。
おそらく、これに類する合本楽譜が何巻もあったのでしょう。そこには、父ルフェビュール・ヴェリーの楽譜も含まれていたに違いありません。
広告の最後には、競売カタログが作成されていたことを示す一文があります。このカタログには、ピアノの型番や楽譜の詳しい内容も書かれていたかもしれません。カタログはどこかに史料として保存されてはいないのでしょうか・・・気になるところです。
日本ピアノホールディングの中森さんは、この広告に記されたピアノの行方と楽器の詳細を追い続けています。プレイエルのグランド・ピアノとスタインウェイのアップライト・ピアノのうち、後者の楽器については、残された図像資料等に基づく中森さんの調査によって、どのモデルであったかがおおよそ明らかにされています。次回は、個々のピアノにスポットを当ててみましょう。